(125)
思考と意欲と感覚
したがって問題は、いかにして私たちはこの超越論的側面を見出すことができるかということである。なぜなら、これについて私たちは一般的形式しか与えられておらず、実定的には論争の余地のある表象の状態以外には与えられていないからである。そして、この状態は、一人の同人物においてと同様に、様々な主観においても同じく与えられている。前者〔同一人物〕の場合においても、その論争は時間的交互、前後を前提としている。この論争を終結させたいという願いによって、この論争し合っている表象の場所に、他のもう一つの表象が現れる可能性が定立される。このもう一つの表象に対して、すでに論争し合っている表象は、同等の権利を持って立ちはだかるものではない。これによって論争状態を自らの中に含むような思考が定立される。また、それを排除するようなもう一つ他の思考が定立される。思考の前者の形式〔論争状態にある思考〕は、現実に私たちに与えられている。後者の形式〔論争が終結した状態〕については、私たちはまだ何も知らない。私たちはそれを言葉の最も厳密な意味において、ただ知の一般的な連関を通してのみ、その連関を私たちはまだ持っていないのだが、経験できる。思考は常に、前者の形式からの生成において捉えられる。
(126)
一方の思考を他の思考から区別するためにはどのようにしたらよいか、また、ここで思考とは何を意味するのか?これについては、そもそも次のような理解以外にはあり得ない。すなわち、私たちはそれを内的活動として、外へは現れないものとして考えるということである。その活動が、私たちの意識において生ずるようにして、伝達を求めるなら、それは語りになる。そしておよそ語りというものは、現象となった思考である。したがってそれは、語りを通して初めて完全な活動になるような内面的精神活動である。そして、それが完全であるなら、それは語りを通して、思考者自身がそれを持っているのと正に同じ状態で他者に伝達される。それ以上のことを私たちはここではまだ言えない。
私たちは、この活動を他の活動から分離しなければならない。しかし、これを技法に適った仕方で行うことは、私たちがまだ所有していない一般的連関を前提とする。そこで幸運な選び出しが重要となる。例えば、意欲を取り上げよう。それは何か絶対的に内的なものであり、自己に関係しており、決して現象にはならない。しかし、不完全に留まる。その表出を私たちは行為と呼ぶ。語りは行為でもあるのではないか?その限り思考は意欲でもあるのではないか?と私たちが問うならば、おそらく誰もがこれに然りと言わねばならない。しかしながら、これによって何か全く別のことが言い表されている。もし私が思考を意欲することによって語りへと誘われるなら、私が欲しているのは、ただ他者によって自分が理解されるということである。なぜなら、理解されるという努力をなすことなしに、人は決して正常に思考できないからで、すなわち、言葉は考えを伴って私たちに成立するのである。したがって、語りは思考の完成に過ぎず、かくして両領域は区別されるのである。というのは、行為〔語り〕はもはや意欲ではないが、これに対して語りは思考に他ならないからである。意欲が語りを通して行為へと完成されることも時にはある。しかし、その時語りは行為のための手段に過ぎない。(人が誰かを説き伏せようとする場合など。)その登場は常に偶然的なものに過ぎない。
さらにまた精神的活動の第三の状態、私たちが感情または感覚と呼ぶものがある。それは同様に何か内的なものであり、先の両者〔思考と意欲〕と類似している。なぜなら感情もまた身振りや音声を通して外的なものになろうとするからである。しかし、私たちが自分の感覚を他者に伝達しようと欲するなら、私たちは、ここでもまた語りを用いなければならない。(127)そこで次のような問いが問われねばならない。すなわち、この場合の語りは、思考の場合と同じような状態にあるのかどうか。私たちはこれを否定しなければならない。なぜなら、感覚は、語りによっては決して完全になることはなく、それによって完全性を獲得することもない。反対にそれは弱くなるからである。というのは、語りは思考と関係しており、感覚は語りによって思考に移行するからである。したがって、語りと思考とは固く結合しており、元来同一である。思考は語りなしには不可能であり、語りは思考の完成の条件である。思考はすべて思考されるものを前提としているが、これ〔思考されるもの〕は、思考とは異なる連関において全く独立しており、思考なしに存在している。これに対して、感覚においては、感覚されるものからの分離は全く不可能である。感覚することは、感覚されるものと同一である。そして感覚されるものは、感覚することなしには存在しない。人は両者を一つの動詞において十分に表現して思考できる。
今や私たちが問わねばならないのは、この思考の対象、すなわち思考されたものが、私たちの思考の二つの形式、論争を想定する思考と排除する思考において、どのような状態にあるのかということである。