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知の二つの特徴
思考の二つの種類あるいは状態、すなわち、論争し合う表象において現れる思考と、本来の知を形作る思考とを私たちはどのように区別するのか?私たちが「知」という名称によって思考のある種のあり方を言い表しているということは、既知のこととして前提することが可能である。もし私たちが他の領域、すなわち感覚や意欲の領域においても知について語るならば、それは、感覚や意欲の状態についての思考以外の何ものでもない。では、私たちは知を思考からどのように区別するのか?ここで先ず私たちは、短縮された用語法から容易に生じ得る一つの表象を排除しなければならない。すなわち人は次のように考えることが可能である。知とは、思考の後の来る状態であり、人は思考することによって知るのではなく、思考した後で知るのであると。しかし、これは誤りである。私たちが一度、私たちの思考によって、私たちを落ち着かせる一点に至るならば、(128)私たちはこの点を、他の私たちの思考の通過点に過ぎない点よりもしっかりと保持し、その点と共に私たちの目的は達せられるのである。そして今や私たちは、思考の操作から独立した一つの所有として認識を持つかのように表象するのである。これが、認識が記憶の結果である限りの場合である。しかし、その場合、それは後退に過ぎず、私たちがそもそも知を所有するのは、私たちがこの過程を繰り返す限りにおいてである。知は常にこの同一の過程の反復にあるに過ぎず、したがって常に思考の中にあるのであって、思考の後にではない。
したがって、私たちがこの過程自体を純粋に眺める場合、思考一般と、知になる、あるいは、知になった思考との間の相違はどこにあるのだろうか?ここで私たちは論争し合う表象の状態に戻らねばならない。論争している二人の人を考えてみよう。その場合、二人とも次のように言うことができる。「これがそうだということを私は知っている」と。しかし、そこに第三者が来て次のように語るとする。「あなたがたは各々相手を自分の考えに引っ張り込むことができる限りにおいて知を持っている」と。各々の人はただ思考の過程を通し、そこにおいてのみ知る。そして、人が他者を自分の知の表象へ連れて来るのは、彼が、自分の過程を実行するように相手に強いることによってのみである。彼にそれができなければ、彼は知っているのではなく、知っていると思っていただけに過ぎない。(129)もし知が、過程の普遍的伝達によって確証されるならば、私たちが知と見なす思考とは、そこにおいてあらゆる思考者の過程の同一性が共に立てられるような思考である。
今や私たちは普遍性(Allgemeinheit)という言葉についても説明しなければならない。論争している表象状態は、常に複数の思考者の存在を前提としている。確かに一人の個人における論争状態も存在すると前に語った。これは次のように解すればよい。その個人は、その場合、思考において様々な主観に精通しているのであると。そして私たちは次のように考える。その与えられた点は、なお二つの異なる方向にあり、他者と共に現れることにおいて、様々な観点の下で叙述され得ると。二人の人が論争の状態にある場合、相手に対して自分の思考の過程を伝えられる人の思考のみが、知として確証される。しかし、最初の普遍的知に帰ることがなければ、他者に対する思考の過程の伝達も一時的知に過ぎない。そして伝達者は次のように考えることが可能である。他の人が現れて、その人が彼にまた別の思考過程を述べることがあり得ると。したがって、知の表象の根底には、思考過程の普遍的同一性がある。二人の人が、一つの対象について一つの表象を持っていると仮定した場合、彼らは先ずは論争状態にはない。しかし、一方が他方に対して、「君はこの表象をどのように伝達したか?」と問うならば、その表象への到達の道程の差異が明らかになり、異なる点から発展してきた表象は一つになることができないと考えるようになることによって、同一性の確かさは中止する。
さらに第二の点に注意が向けられねばならない。思考が自らを関係させるところの思考対象は、思考自体とは異なっているということも、本質的に思考に属する。そして、この関係〔思考とその対象の関係〕においてのみ、表象の論争状態は可能であると語った。両者を区別することは、この状態の本質的条件である。私たちは、さらに、この状態において両者の論争者が知っていると主張していることを前提とした。(しかし、私たちはそのような論争を、一人の人においても見出すことができる。その人は、その場合同一の対象について、異なる関係にある二つの表象を持っているのである。)さて、この場合、思考対象に対する関係という点における両者間の差異は何であろうか?両者のいずれもが対象を一つのものと考えている。思考がまだ知と見なされていないならば、私たちは、一つの対象についての思考の変動性をそれに結びつける。したがって、どの知においても、対象に対する表象の不動性が共に定立される。
思考過程の同一性と、対象に対する表象の関係の不動性が、知の二つの本質的特徴である。この関係の不動性は、私たちには明らかだが、しかし、この関係がどこに存在しているかはまだ明らかになっていない。それは私たちの中に、私たちに対してある関係である。なぜなら、それは、将来のあらゆる思考に対する関係で、思考における私の状態を判断することに他ならないからである。それは私たちが確信という言葉で特徴づける平静さ、思考の確かさである。この確信は、意識という行為において、対象が内的なものに、精神的過程へと受け入れられる、その仕方に示されている。私たちの立場は、ここでこれ以上語ることはできない。知への欲求は常に次のことから出発しなければならない。すなわち、私たちにとって不規定な意味で思考されたものである対象を、思考対象として完成することから出発しなければならない。対象を思考する傾向は、常にすでに与えられている。思考の完成とは、私たちが対象について、もはや何も考えられず、私たちの思考過程に、この対象について思考可能なものがすべて共に含まれていると考えることである。
これら二つの思考の特徴を、私たちは、全ての思考の根底に置くことができる。私たちは、思考過程の変化の可能性について確信を持つ限り、この過程を継続し、知を欲する状態にある。私たちが、私たちに思考過程を、ある一つの結果に至るために、すべての人がそれを同じ過程と考えなければならないような同一の過程と考えない限り、私たちはまだ確かさを持たない。この二つの特徴が、知のすべての概念を汲み尽くすということを私たちはまだ主張できない。なぜなら私たちは、ある特定の点から、すなわち、論争する表象の前提から出発したからである。然り、私たちはむしろ確かに正反対なものを意識しなければならない。この両方の特徴に含まれない多くのものが、この過程において、まだ多く現れるだろう。これが、今の私たちにとって、確かな価値を持たないにもかかわらず、私たちが、私たちの探求において、その都度釈明することは必要である。それによって私たちが、実際に発見したところ以上に達したと思わないためである。