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個人的なものの影響

したがって、私たちが、この二つの特徴をさらに詳しく観察すれば、私たちは次のように告白しなければならない。「もし私たちが、思考過程はすべての思考者において全く同一であるという確信を持つなら、私たちもまた、これは知であるという確かさをすでに持っている」と。そして、その場合には、不動性に関する他の特徴も、すでに共に与えられており、したがって、そのような思考は対象に完全に対応しているという完全な確信が与えられている。しかし、私たちは、同時に次のことに注意しなければならない。私たちは、この順序を逆転させることはできないということ、そして、私たちにとって、対象に対する表象の関係が、変化不可能であるという確信が、ある思考過程に対する関係において私たちの中にあるところでは、すべての人における、その方法の同一性もまた存在しなければならないということである。私たちが欲しているのは、境界付けをすることだけであるから、事例はその証拠となるものだけで十分である。これが該当するのは格率と趣味判断に対してである。両者には確信が内在している。なぜなら、両者には普遍性の定立があるからである。しかし、ここに方法の同一性があると私たちは決して考えない。このもう一つ別の判断は、他の方法によって現れることが可能だったのであり、したがって私たちは、この確信を常に主観的なものとして定立する。

したがって、これは完全な意味における知ではない。思考が感覚や意欲に関係するような領域では、知は不可能である。思考の構造において、すべての人が同一の方法で振舞えば、その時には結果の普遍妥当性も一緒に承認される。なぜなら、この結果は、思考の構造と最も内的に連関しているからである。しかし、他ならぬそのような〔普遍妥当性の〕要求が、そのような産出の均一性に基づかない結果においても存在している。私が他者に、ある思考系列を伝える場合、私はそれを純粋に発生史的になすことができる。受け手は、その端緒を承認し、その過程を承認し、そして、同一の結果に至る。芸術作品もまたそのような普遍妥当性を要求する。それは、自らのイデーに対応するものとして承認されることを望む。それにもかかわらず、その根底には方法の均一性は存在していない。鑑賞者が結果〔作品〕からイデーへと遡ることによって、鑑賞者においては、芸術家とは逆の過程が生じている。このことが普遍妥当性に損害を与えることはない。しかし、私たちは知からそれを排除する。したがって、同一的産出に導かない確信が存在するが、これは知ではない。

それでは、私たちが本来認識と呼ぶものと、趣味判断や行為の格率との間の相違はどこにあるのか?また同様に、何によって知の領域は、同じように均一な承認を求めるところの芸術の産物から区別されるのだろうか?私たちは次のように言わねばならないだろう。趣味判断や行為の格率は、一部は、それぞれの個人において異なる可能性のあるものに基づいている。すなわち、そこでは各人の個人的固有性が勘案されている。しかし、認識の領域において私たちが前提とするのは、個人的固有性は全く背後に退くということである。そして、ただそれがどのように生起するかという基準によってのみ、私たちは知に対する要求を実際に主張するのである。これを私たちは当然ながら、ただ不確かな方法によってのみ立てることができる。なぜなら、私たちは事前にこの境界を確かめることはできないし、おそらくそのようなことは全くできないからである。

一般的に私たちは次のように言うことができる。個人的なものが勘案されればされるほど、知が操作において用いられる可能性は少なくなる。また個人的なものが除かれれば除かれるほど、知のイデーは一層多く現れ、この領域において適用可能性を持つことになる。

それでは、この側からの知の完成はどこに存するのか?私たちが、それによって知と、それ以外の思考との関係を規定するところの二つの特徴、すなわち、構造の普遍的同一性と、思考対象に対する思考の関係の連関付けの中に意識を依拠させるということを、私たちが持っているというところにまで戻るならば、そして、私たちが、諸点の中に置かれ、知となる思考を思い浮かべるならば、それは、一方において操作の結果であり、他方において、関連としてまだ描出されてはいないが、そこからさらに前進が行われるべき点、すなわち前提である。もし私たちが、ある思考の中に、私たちが確信と呼ぶような心情の根拠付けを見出すなら、そして、この確信に方法の普遍的同一性という前提を結びつけながら、しかし、この二つの正反対の関係を、それらの連関と度合いにおいて承認しない、すなわち、どの程度、何によって、それが結果であり、何に対して、それが根拠なのかを見ることをしないならば、私たちは、完全な知を持ってはいないのである。しかし、私たちがすべての個々の知の中に、同じ確信と共に、両者を共に考えるなら、それは完全なものとなるのである。

したがって、私たちは、この確信を常に主観的なものとして定立する。そして、私たちは、ある領域を、すなわち、そこにおいては方法の均一性が存在しない個人的思考を意識するようになった。しかし、私たちは、ここで明確な境界線を引くことはできない。なぜなら、私たちは、この個人的思考の影響を完全に排除できるような知の領域を見ていないからである。しかし、私たちは、すべての思考に対する影響を、個人の固有性に承認する権利を持っているのだろうか?このことを私たちは、知の領域を、その有機的分枝において把握し、完全に構築してしまうまで、決定することはできない。

しかし、私たちは、ただ付随的にこの抗弁に同意しようと欲するに過ぎない。私たちはひょっとして数学の中に、そのような個人的なものが排除された領域を見出すことができるかもしれない。しかしながら、個人的なものの影響が、ここではゼロだということを私たちは拒否しなければならない。私たちが、学問と技法との関係にまで戻るならば、数学は、それが技法であり、その価値が発見に基づく限りにおいて学問である。技法がなければ数学は完全に機械的になる。発見のみが本質的なものである。しかし、誰も、万人に対して、自分が発見したように発見せよと要求することはできない。彼が万人に要求できることは、その結果を承認することだけである。自分がどのように発見したかを、彼自身知らないことがしばしばある。そこにおいて、すべての固有な思考が現れるところの、すべての知の普遍的構造を私たちが持っていない限り、思考の中にあらゆる固有なものの影響が排除された領域が存在するかどうかについて、決定する権利を私たちは持っていない。私たちは、ただ流動的差異を確定できるに過ぎない。

しかし、明らかなことは、固有なもの自体は、私たちが、その影響に思考において気付くのであれば、それは同様に思考されたものである。したがって、確かに思考の対象であり、私たちの課題の一部である。もし私たちが、知の一般的特徴の他に、それを、その関係において、知の全体性に対する結果や根拠と見なすならば、知はすべて、一つの完全な知に過ぎないという要求に対して、私たちは、知を個的なものに対するその関係において、認識しなければならないということを、さらに加えなければならない。私たちには知の領域を制限すると見えるものが、他ならぬ知になったのである。

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