〔135〕
思考と対象との一致
今や私たちは、第二の特徴の分析に移る。思考はすべてただ次のような場合にのみ知となる。すなわち、思考者の確かさが、思考対象との関係において、一つの完全な根拠と持続を持つ場合である。なぜなら、瞬間に関わる確信は、何か不安定なものであり、知についての憶測を形成するに過ぎないからである。思考が真の知であれば、それは確固不動でなければならない。
しかし、ここで私たちは非常に困難な問題に逢着する。それは、私たちの研究が立っている点全体を、私たちにとって不確かなものにしようと脅かすような問いである。それは、対象に対する思考の関係である。人が思考する場合、人は何かを思考する。そしてこれは、「人が感じる時、人は何かを感じる」という場合とは異なっている。思考の対象を私たちは、思考とは異なるものとして定立する。ここで私たちは全哲学の領域を、しばしば引き裂いてきた古くからの論争に逢着する。思考を感覚から区別するにあたって、私たちは思考対象を、私たちの外に定立するが、感覚の対象はそうではないということだが、このような考えに、私たちはどのようにして至るのか?私たちは通常これを次のように表現する。思考は存在に関係し、存在者は至る所で思考の対象である。したがって、私たちにとって、先ず、そこにおいて思考されるものは、存在者となる。
私たちはまだこの問いを形而上学的観点から―この問いは常にそこから投げかけられてきたのだが―決定できるような場には来ていない。私たちは論争し合う表象を前提としている。もし私たちが、二人の人の間にあるこの〔論争〕状態を受け入れるなら、これはすでに次のことを前提としている。すなわち、その一方の人は、他方の人に対峙しているということ、すなわち、その一方の人は、思考のその操作において、またこれが私の思考とは異なる限り、私に対峙しており、私を他の人の思考へと、私たち双方の思考の比較へと駆り立てる。したがって、思考の対象は存在であり、その対象を私たちは、思考から区別している〔ということを前提としている〕。〔136〕したがって、私たちが論争の余地のある表象を思考の中に定立する場合も、私たちは同じものを見出すのである。
人はどの程度私たちの考えの外に出る権利があるか論じ合ってきた。私たちの前提によって、この問いはすでに決定的である。論争し合う表象を主観の多数が定立する限り、人は外へ出てゆくことができる。これによってすでに次のことが定立されている。思考は、自らとは独立した対象を、すなわち、他者の思考を持たねばならないということである。
私たちの感覚と意欲についての思考というものも存在する。すでに見たように、これらの活動は、思考とは異なるものである。思考がこれら〔感覚と意欲〕の活動に関係することによって、すでに思考とは分離されたもの、独立なものに対する思考の関係が定立されている。私が、私の意欲について反省する場合、私はこの意欲するものとして思考の対象になっている。したがって、自ら思考されるものなのであり、これは、ある対象が私たちの外部に定立されるのと同じである。これはまた、思考者自らが、様々な表象を―それらを私たちは常に時間的に前後するものとして思考しなければならない―持つ場合にも当てはまる。なぜなら、その諸表象の一つが成立することによって、人は、より以前の表象を想起するからであり、そしてこれは、今や再び思考されたものとなって、現在の思考とは独立したものだからである。したがって、私たちの中には常に〔現在の〕思考とは独立した対象に対する思考の関係が定立されている。そして、私たちは、私たちの外に出る必要は全くない。この差異を拒否するならば、過去のものに対する私たちの思考の関係は全く不可能になってしまうだろう。この思考の再現可能性において、過去の安定性と恒常性において、思考されたものは、私たちにとって、同時に存在である。
さて、私たちはさらに、この関係において、知が、知でない思考から、いかにして区別されるかを見てみたい。思考の中に、思考されるものとの関係において、まだ不確実なものが生じている限り、そして、これ〔思考〕が、さらに常に別のものになり得る限り、まだ知は存在していない。しかし、私たちが、自分の所有している思考を、常に繰り返し、思考されている対象によって呼び出されるようなものとして定立するなら、そして、私たちが、同一の対象に戻る時には常に、同一の思考に固く留まるならば、〔137〕私たちは自分の中に知を持っているのであり、「その思考は対象と一致している」と語るのである。その思考されたものが、他の思考を呼び起こすことはないという前提のもとにではあるが。
過去の知の観察の類比によって、この命題の逆が存在するかどうか見てみたい。私たちが意欲についての思考、行為や業の目的概念に戻るなら、そこにも思考されるものが存在する。しかし、これは思考によって初めて生じるべきものである。この思考についての思考は、思考されるものに先行する。私たちが、この瞬間を、思考の対象が現実化している瞬間と比較するならば、そして、行為と先行する思考の同一性が存在しているかを問うならば、私たちは次のように言わねばならない。行為対象は、先行する思考と決して正確には一致しないと。しかし、このことは確信を妨げはしない。これがどこにあるかを私たちが求めるならば、それは次のことに還元され得る。すなわち、先行する思考の中には、現実に生じたもの、つまり行為に定立されたものすべてが含まれているわけではないと言うことになるだろう。
思考されたものが、思考の前に置かれるところでも同様である。なぜなら、私たちの思考は、ここでも決して完全には対象に対応していないからである。〔138〕しかし、このことは完全な知の前提ではある。
しかし、私たちが思考を、知の領域の中へ全く据えず、思考に関して、思考が知になるべきだということを、私たちが全く求めないところでは、対象に対する関係も消滅してしまい。私たちがそのような関係を定立することもない。私たちはこのことを、例証によって明らかにすることができる。学問的な領域には、以前は真と見なされていたが、現在はそうではない多くの表象が存在する。これによって確かなことは、現在の私たちの思考は、昔の思考よりも対象に一致しているということである。しかしながら、私たちは、これらの諸表象に、学問的な場所を割り当てている。それらが対象と思考の一致を要請していたからである。これに対して、私たちは、真理の亡霊に過ぎないような多くの諸表象を見出す。それらの根底には経験がなく、人はそれらを単に創作されたものとして与え、受け入れた(例えば、妖精やケンタウロスの表象)。私たちはこれらを対象に一致する思考として立てることはない。それは思考されたものと見なされても、知の領域の中に定立することはできない。
知とは、そこにおいて態度・振舞いの普遍的同一性が前提とされるような思考であり、また、思考されるものに一致するものとして、確信の中に定立される思考であるという二つの特徴を、私たちが固く保持するならば、そしてまた、私たちが、より詳細な制限に注目するならば、私たちはさらに次のことを付加することができる。すなわち、知とは、思考者が多数あるという前提のもとで、すべての思考者の差異にではなく、同一性に基礎づけられるような思考である。