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思考の二つの極

 ここから私たちは新しい観察を行い、「何によって私たちは思考の対象に至るのか?それによって思考が対象から分離され、両者が二重性において思考されるようなものは、思考自体において何であるのか?」を問わねばならない。したがって、私たちが知らねばならないことは、1.何によって、この二つは互いに関係するようになるのか、2.何によって、それは常に二つに留まるのか、ということである。この問いに対する応えを〔139〕私たちは即座に次のように表現してみたい。すなわち、思考はすべて人間的理性と人間的有機組織との共同の産物であると。私たちが思考されるもの自体に至るのは、人間の有機体を通してに他ならない。また、思考自体が、その形式によって常に思考されるものから区別されるのは、理性を通してに他ならない。経験の側では、呈示された命題は誰に対しても明らかだろう。私たちの諸経験を構成する表象に、私たちはどのようにして至るのであろうか?私たちは諸対象が、私たちの感覚器官に対してなす作用を通して表象に至るのである。可視的なものは、私たちの目に作用し、聞くことの可能なものは、私たちの耳に、貫通不可能なものは、触覚器官に作用する。そして、この作用をもとにして、思考への要求が成り立つのである。これが対象と一致する時、それは知となる。しかし、私たちが思考を、その完全性において観察する時〔140〕、私たちは、そこに有機体に対する単なる作用とは何か別のものが、さらにあるということを見出す。この異質なものを、私たちは最も広い意味で理性と呼ぶのである。

 私たちは、これらの言葉をもっと詳しく説明しなければならない。そして、その際、私たちは、論争し合う諸表象という、私たちの前提に再び戻っていく。すべての思考者は、思考の対象として同一の諸対象を持っている。ところで、人間の中には、これらの諸対象を、自分の思考対象にする能力がある。また、人間存在が、他の存在に対して開かれているということが、ここでいう有機体である。思考が、すべての可能な対象において、常に同一に留まるのは、理性によってである。このことは、すでに私たちの前提によっても定立されていた。すなわち、もし思考が常に同一でなければ、複数の人の思考行為の間に、同一性は決して成立できず、また同一性へ向かう努力も成り立ち得ない。したがって、有機的組織は、思考の内容に関係し、理性は、思考の形式に関係する。思考の内容は、有機的組織によって生じ、形式は理性によって生じる。

 有機組織から全く独立した思考も存在すると考えることはできる。しかし、そのような思考は存在しない。人が理性自体を思考しようと欲するなら、これは有機組織とは全く独立に生じえると考えることは可能である。なぜなら有機組織は、理性と正反対のものだからである。しかし、私たちがどのようにして思考の形式を思考するようになるかを問うならば、これは思考行為そのものの観察によって起こる他はない。そして、これは、私たちが有機組織と呼ぶものによってのみ生ずることができるのである。他者の行為としての思考において、このことは自ずと明らかであるが、これは自分自身の思考行為を思考することにも妥当する。なぜなら、思考は内的な語りであり、これは有機組織の一部だからである。また、私たちは、それを呼び戻す時だけ、それを観察することができる。そして、これも同じように、有機組織を通してのみ起こる。しかし、ここにおいては思考の内実は、形式に対して最小限となる。このような思考も有機組織がなければ不可能であることを私たちは見る。したがって、私たちは、有機組織なしには思考は全く存在しないと、至る所で言わねばならない。

 〔141〕有機組織によって成立するものは、思考のための素材であり、理性が付加するものは、思考の形式である。そして、そこですべてが完結している。この考察の成果は、知についての私たちの最初の定式が、より正確な内容を獲得するということである。なぜなら、有機組織を介して素材が、理性を通して形式が生ずる方法が、どこに存するかを私たちは見るからである。そして、私たちは、この方法の中に、感覚的側面と知的側面とを区別することができる。私たちが、思考における私たちの日常の方法を観察することから作り出す答えは、全く一般的なものである。思考自体が、有機的に成立した素材を越えたところで生起するものではなく、感覚的知覚を根底に持っているからである。私たちが、何かを想起する時、これは過去の過程の再現であり、その根底には感覚的なものがある。理性もまた有機的組織を通してのみ対象となる。すなわち言語を通して。

 同様に他方で、私たちは、思考の知的側面もまた至る所で見出し得るかどうかを見なければならない。ここで私たちが結びつくことのできる過程とは、そこにおいて私たちが、この理性活動を最も恒常的に見ることができ、そこから私たちの経験の諸要素が共に立てられるところの過程である。なぜなら、経験が成立するために、思考されたものとしての存在に対立している諸概念は、互いに関係の中へもたらされねばならない。そして、これが生じるところに普遍と特殊の対立がある。したがって、この関係があらゆる思考において、経験の生成を構成している。それについては誰も、それは私たちの感覚的活動を通して成立するということはできない。私たちが、言語に熟達した大人の経験を、子供の経験と比較するなら、子供の目には大人においてと同じ像が映ってはいても、それは普遍的あるいは特殊的諸概念になってはいない。思考の知的側面が子供においてはまだ発達していないからである。

 しかしながら、これは、日常的領域から得られた答えであり、それが普遍妥当性を持つかどうかは、まだ分からない。このことを私たちは知りたく、したがって、吟味しなければならない。私たちが理性活動を見出せる思考の段階で、最も下位の段階はどれであるか?純粋に有機的機能が支配的に見えるところがそれであることは明らかである。それはすなわち、対象の単なる表象で、ここでは有機的機能以外のものは見出されないように思われる。しかしながら、私たちが一つの対象として受け入れるものは、決して有機的機能の総体だけではない。むしろ人は、感覚に提供される対象の数多性を常に、即座に区別している。そのような区別は、器官それ自体にあるわけではない。大人は、有機的印象の中に、一や多を定立するが、子供はしない。むしろ、残りのすべての対象を排除する形で統一が定立される以前には、思考の契機は与えられてはいない。有機的印象の不規定な全体性の中へのこの統一の定立は、すでに知的機能の業である。したがって、すべての思考において、これら二つの機能は絶えずお互いに結びついている。

 有機的機能の活動を、理性活動なしに思考しようとすれば、印象の混沌とした多様性があるだけであろう。〔143〕例えば、多種多様な音を同時に聞いた場合、そこから音を区別したり、メロディーを聞き分けたりすることはすべて、もはや有機的機能の仕事ではない。なぜなら、このような区別をするために、私は有機的機能を一部制限しなければならないからである。例えば、多くの楽器の中から、音の関連性を引き出す訓練などがこれに属する。その場合、人は、有機的複合物の大部分を放棄し、わずかな部分にだけ従わねばならない。知的なものを全く伴わなければ、有機的活動は、対象を固定化することは決してなく、思考のための素材は全く存在しない。思考の可能性があるだけである。したがって、印象の多様性の中にあるのは、先ず思考の可能性である。私たちの感覚の全体性を取り上げてみよう。どの感覚にもある印象が供給されるなら、これらの印象は知的意識にとって混沌としたものだろう。それらの印象は、先ず他ならなぬ知的活動によって分離されねばならない。私たちはこれを、私たちにとって、全く暗く理解しがたいもの、獣の意識によって最もよく明らかにできる。それは人間の意識とは異なっている。しかし、それにもかかわらず、私たちの有機的機能と、完全な獣におけるそれとの間の一致は非常に大きい。しかし、私たちはそれらに知的機能を帰すことができるだろうか?私たちは獣を非理性的と呼ぶが、それによって獣には知的機能が欠如していることを表している。しかし、獣たちも同じように対象を固定化し、それを印象の多様性から分離する。獣たちは自分の感覚の差異を意識しているのだろうか?これを私たちは知ってはいないが、それには否定的である。そこにあるのは、私たち獣には、私たちのような知的活動を帰すことはできないということである。それにもかかわらず、私たちは獣たちを観察することを通して、印象の多様性から一つの対象を固定化する類似に気付いている。

 同様に他方で、感覚的側面がなければ、理性活動は思考ではないし、もはや思考にはならない。私たちが一般的表象に固執しようと欲するなら、私たちは、すべて区別するものを、―これはすべて私たちに意識の有機的側面を供給するのだが−、〔一般的表象の〕この過程のために減じなければならない。私たちが生物という概念にまで上昇するとしても、ここにもまだ有機的活動がある。さて、生物には死せるものに対する対立が定立されている。この対立の止揚は、ものという概念において生起する。しかし、ここにおいても、まだすべての有機的活動が否定されたわけではない。むしろ、すべての有機的印象が一つに纏め上げられたのである。ものの表象には、何らかの有機組織を触発する可能性が常になお定立されねばならない。これに対して、私たちが、ものの概念において、この対立を考えなければ、この表象はまったく漠然として貧相なものになる。有機的機能は全く排除され、知的側面も減じられる。私たちが有機的機能を全く否定しようと欲するなら、思考をも持たなくなってしまう。逆に言えば、私たちは有機的に触発される以前には、思考というものを持たないのである。そして、このこと〔有機的触発〕が起こるや否や、私たちは、あるものが私たちを触発していると考える。そして、ものによって区別するのである。このように、思考の有機的側面と知的側面とは、分離しがたいものであり、私たちの答えは、全く一般的なものである。

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