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Tice1

これが意味しているのは、(a)哲学が、すべての学問の基礎をなす第一原理を批判し、それを提供するのである限り、哲学は学問の一部であるという見解。(b)この活動が絶えず実在的なものに迫り、経験的な研究に接近可能であり、しかしまた思弁的探求と経験的探求双方の才能を「共同的に」用い、それらを互いに孤立させるのでない限り、この活動自体は学問の一部であり、その意味でこれは学問的で、それ自身の権利を持った学問である。1814年の2回目の講義においてシュライアマハーは、哲学が「最高の学問」であると考えているにもかかわらず、以前は哲学は学問である身分を獲得していなかったことを示唆している。彼は加えて次のように言う。学問がより成熟するにつれ、「すべての学問は、技法になるという意向を持つようになり、またすべての技法は、学問になるという意向を持つ。そして実際、そうなればなるほど、より高度なレベルにお互いが達する」。1811年講義の次の時限において、シュライアマハーは、彼が「技法」としての「弁証法」と呼ぶこの活動の性格を強調することを望んでいる。それは、哲学する為の原理を見出し、それを含むものである。しかしながら彼はこれを、「これやあれやの学問的見解がそれによって規定される」という理解をもってなしている。[Tice 1996:3]