F. シュライアマハー「弁証法講義」1811年草稿

Schleiermacher, F. D. E.; Dialektik(1811), hrsg. v. Andreas Arndt, Philosophische Bibliothek Bd. 386, Felix Meiner Verlag Hamburg, 1986.を底本とし、必要に応じて以下の英訳を参照した。参照箇所は( )でTiceによると明記している。

F. Schleiermacher Dialectic or, The Art of Doing Philosophy, A Study Edition of the 1811 Notes, Translated, with Introduction and Notes by Terrence N. Tice, Scholars Press Atlanta, Georgia, 1996.

最終更新日 2001330


【内容】

[1]-[6]

超越論的部分[7]-[30]

[7]-[8]

思考[9]-[11]

概念形成の局面下における知と存在の同一性[12]-[17]

判断形成の局面下における知と存在の同一性[18]-[20]

概念形成と判断形成における形式的なものと超越論的なものとの統一[20]-[23]

神と世界[24]-[28]

付論:空間と時間[28]-[29]

付論:通常の論理学について[30]

形式的部分[31]-[49]

[31]-[33]

概念形成[33]-[45]

概念の等級の特徴付け[34]-[35]

帰納による概念形成[36]-[43]

演繹による概念形成[43]-[45]

結合[46]-[49]

結論


(序についてはAusarbeitung Twestens zur Vorlesung 1811:Die Dialektikをも参照のこと)

[1]

並び立った諸学の体系の上に、諸学に共通のある種の原理、諸学のための建築学のようなものが存在しなければならない。しかし、すべてこれらの原理において統一を人が期待しても、それは実際にはまだ存在していない。そして、それら諸原理の差異は、その影響を他のあらゆる学に及ぼす。

これらの第一原理について、実在的なものを顧みることなしに哲学することは好ましいことではなく、学にとっては危険であるように思われる。特にそれが結果として思弁と実在的な知との間に、ある種の対立を持つような場合にはそうである。

ある人々の考えによれば、すべての学問的教養は、思弁から始まらねばならない。しかし、他方、他の人々は、思弁を学問的教養の最後に置こうとする。そこでなら思弁が、人の生に対する作用を妨げる可能性がより少ないからである。第一原理に精通することによってのみ、経験的なものと旧態依然たるものを一方で避けられるし、他方、恣意性も回避される。近代においては多くの恣意性が、思弁からも生じているように見えるが、これは思弁の責任ではなく、思弁を孤立させるという警告されるべきそもそもの過ちの結果である。

学問的精神一般と、第一原理のための才能とは別のものではない。したがって思弁的な才能は、それ自体としては、実在的なもののための才能といささかも対立するものではない。それの孤立化が、破壊的作用をするのみである。両者は常に相互関係的にのみ用いられるべきものである。(Tice注1)

[2]

弁証法という名称を選んだ理由は、他の名称は、この講義が、その他の名称を選んだある特定の学派に組するものという考えを容易に引き起こす可能性があるのと、この講義固有の内容を示すためである。すなわち、弁証法という名のもとに、私たちは、哲学する技法の諸原理を理解する。

知の原理についての直接的研究に対しても、また個々の対象についての断片的研究に対しても、人は等しく「哲学する」という名を与える。いずれの場合も、知の原理に関係する認識を生み出そうとする。なぜなら、それについての熟考が哲学することと名付けられるような個々の対象もまた次のような仕方で、すなわち、学問的見解がそれによって規定されるような仕方によって存在するのでなければならないからである。したがって、およそ哲学することはすべて、ある認識を規則に適った仕方で構成することであり、その認識は常に学問が―それが一般的なものであれ、個々のものであれ―それによって規定される仕方によって存在するのである。

哲学するということは、認識を完成するということであり、それは、その認識を完成させるものについての明確な意識と結びついている。したがって、それは技法のカテゴリーに入る。したがってまた、その産物は(芸)術作品(Kunstwerk)でもある。なぜなら芸術作品というものは、個ではあるが、そこにおいて普遍的なものが直接的に現れており、またそこには永遠なるものが包含されているからである。哲学するという方法において成立するどんな個においても、そこには同時に最も普遍的なもの(Tice注2)、原理―それによって個は今の状態になった―が、存在している。しかし、他の方法において成立した個にはみな、常に主観的要素がある。

他のどんな技法においても、表現されるべきもの(das Darzustellende)と表現(die Darstellung)との間には、媒介物が現われ、それは、その純粋さを損なうものである。このことは、ここでは当てはまらない。それゆえに、また、それは他のすべての技法のイデーを自らの下に従属させるものであるゆえに、哲学すること、認識の生産は、最高の技法である。

しかし、この認識の技法の諸原理と、知の諸原理とは同一であろうか?

学問と技法の間には、対立が存在するが、それは、人が高く昇れば昇るほど、どんどん小さくなるように思われる。

学問を構築する諸原理といっても、それを基礎にその上に学問が構築される原理と、それにしたがって学問が構築される原理とは、異なっているという人がいるかもしれない。しかし、この対立は、最高の諸原理においては廃止される。例えば、神のイデーについて、この最高のものが、どのようにして個の中に印象付けられ得るのか、世界に対するこの最高のイデーの関係はどうなっているのかを知ることなしに、誰も神のイデーを持つことはできない。知の最高原理と共に、同時に、どのようにして人は、それ(知)を個において直観し、そこから個を生み出すのかというその仕方が定立される。

もちろん、構築の本来的原理と単なる技術的規則とを区別することは可能である。しかし、それは認めるとしても、その知識が純粋に否定的なものであるべきでないならば、対立はこれ以上生じることはない。

したがって知の最高のもの、最も普遍的なものと、哲学することの原理自体は同一である。超越論的哲学と形式哲学とは、それが何か実在的なものを含むべきであるなら、同一である。それゆえ、カントのように、構成原理と統制(規制)原理とを区別することはできない。

[3]

弁証法という名称は、この概念にまったく相応しく、古代においては、正にこのような意味を持っていた。なぜなら、古代人においては、実際の学問と哲学との間に対立が存在しなかったからである。古代人にとって哲学は、倫理学、自然学、そして弁証法を含むものであった。弁証法は前二者の原理を含んでいた。プラトンにおいて弁証法は、学問構築の規則と共に、存在するものについての、また善についての教えでもあった。その限りでは、それらは他の二つの学科の領域のいずれにもまだ移行されていなかった。

この名称は、同時に他の人と哲学的構築をなす技法と関係している。ソクラテスの学派において対話は、ソフィストたちの恣意的なディアトリーベに取って代わるものであった。したがって彼らにとっては、対話のための原理と、知の構築のための原理は同一であった。それによってこの原理の一般妥当性が同時に説かれたのである。

弁証法は、同時にまた批判でもあった。それは、何が学問であり、何がそうでないかを、それによって認識可能な基準を含んでいた。弁証法のこの側面は、弁証法の中に必然的に置かれた二つの部分の自然な発露に過ぎない。

近代において形而上学と論理学と呼ばれるようになったものは、弁証法のこの二つの部分を孤立化したものに他ならない。それゆえに、その本来の生命は奪われてしまった。それゆえにまた形而上学から自然学や倫理学へつながる橋は、もはや存在しなくなってしまい、その結果、人が超越的なものという名称で特徴付ける過ちが生じることとなった。形而上学は、この分離によって何かまったく不確かなものになってしまった。他方論理学は、空虚で何ら中身のないものになってしまった。この分離から哲学の死が結果した。

したがって、弁証法とは、最高の最も普遍的な知自体と、学問的構築の諸原理との同一性である。その叙述においては、その一方あるいは他方が、相対的に現れることが可能であるが、それは、叙述する者の特別な性質の力によって、どの実際的叙述においてもそのように現れねばならない。したがって、ここにおいて弁証法は、特に、哲学的技法論の観点から現れるであろう。(Tice注3)

[4]

この意味において弁証法は、正当にもあらゆる学問の器官Organon(道具)と呼ぶことができる。それはいわば球の所与の中心であり、またもっとも外側の周辺部である。弁証法によって人は、個々の命題すべてに、それぞれの場所を指示し、それが有機的な全体のどこにあるかを見出すことができる。この点で弁証法は、いわば全体についての知識を補うものである。したがって、弁証法は、個々の才能に基づくものではなく、ただ普遍的学問的感覚にのみ基づく。そして個々の才能がもたらしたものを身に付けることを可能にする。この器官Organonによってのみ、本来的な知は可能となる。これに対して単なる才能によって可能なのは、(この知への)接近・近似のみである。

また、イデーの伝達、交換を条件付けるのも弁証法である。およそ理解するということを容易にすることは、弁証法に依存している。なぜなら、弁証法を通して、すべての表象は構築可能でなければならないし、それはつまり、人は弁証法によって表象における真と偽とを区別できる立場に立つということだからである。いかなる知も、この器官(Organon)との直接的関係なしに、明示されることはできない。たとえそれがまだ学問全体に受け入れられていないような知であったとしても、そうである。したがって、弁証法の関心は、すべての人が、自分の特殊な才能によって発見した個を、普遍的なものに結合しようと努めるがゆえに、(弁証法の関心は)個に対する普遍としての関係にある。人が弁証法によって可能なのは、再生産(再現・模写)のみであるゆえに、弁証法自体も特殊(個)から離れるならば、空虚である。

しばしば考えられているような、最高知と普通の知との間の対置のようなものは存在しない。

本題に入る前に、すべての知を否定する懐疑主義を一瞥しておきたい。この否定によって懐疑主義者が主張するのは、知のイデーが空虚な題目に過ぎず、その下には何も包含され得ないということである。しかし、懐疑主義者といえども、少なくとも思考結合の原理は承認せざるを得ないから、彼は弁証法に対して戦っているわけではない。さらに彼は、一つの知は持っていると主張している。すなわち、人は何も知らないという知を彼は持っているのであるから、ここから既に様々なものが生じるに違いない。

したがって、より穏やかに述べられた懐疑主義の主張は、次のようなものである。人は、自分が何かを知っているかいないかを知ることはできない。このようにして彼は、いかに個々の主張すべてに対して、それを破棄する他の個々の主張が対立しているかを示す。しかし、他ならぬこのことを通して、彼は、類似していることを既に承認している。すなわち、統一の最高法則である。したがって、彼の主張に真があるとすれば、それは実在の領域になければならず、私たちが問題にしているところにではない。しかし、個は、そのイデーにはまったく対応していないというのが真実である。

また、懐疑主義者は、知のイデーを存在させるが、しかも、人がそれに向かって努力するような生きたものとして立てる。なぜなら、もし懐疑主義が、このイデーを承認しなければ、彼はこう言っているに過ぎなくなってしまうからである。すなわち「知のイデーとは、懐疑主義がまったく理解することのできない何かである」と。この点から言っても、私たちは懐疑主義ともはや関わる必要はあるまい。

[5]

世界に対する人間の関係を確かなものとするために、少なからぬ人々が、知の類似物(Analogon)を打ち立てる。それは信念(Glauben)と呼ばれたり思念(Meinen)と呼ばれたりするが、その上に人間の活動が基礎付けられるのである。そのような二次的な知があるとすればそれは、最高原理から生じた知とは、別のものでなければならないだろう。したがって、それが現れるところの意識も、まったく異なるものでなければならず、人間の性質には二重の表現が定立される。知識の内容に目を向けるならば、この二重の領域は示されない。意識の能力に目を向ければ、思弁を所有している人とそうでない人の間に相違が生じるであろう。私たちと共に懐疑主義に反対する人々も、そのような相違を認めるだろう。同一の分割は、絶対知を所有している人の意識においても認められるに違いない。したがって、生の統一は、次のことを通して破棄(aufheben)される。すなわち、純粋な知が普通の知と平行して進んでしまい、一方から他方が構築され得ないということである。

知はすべて一つの根源的な知に依存しており、それによって同時に知のあらゆる構築の原理が与えられる。そこが私たちの出発点である。このように言うと、人は、この最高知を所有する以前には何も知ることができないに違いないと思われる。しかし、そのようなことは個々人のみならず、全国民の経験と矛盾する。それでは、最高知に先行する知は、最高知に由来する知と、いったいどのようにして等しくあり得るのか?答えは、次のいずれかでなければならない。知に二重の性質を承認するか、もしくは、人が最高知を所有する可能性が二種類あるか。しかし、前者について言えば、最高知の獲得によっては、実在知において、いかなる差異も生じないように思われる。然り、人は次のように言うことさえできない。実在知の学問的姿は、最高知の獲得に由来する(と言うことさえできない)。それはむしろ物質の持つより大きな豊かさによって生じる。したがって、この場合、後者が妥当である。なぜなら私たちは、最高原理を求めることを通して、はじめて何かを所有する状態に自分を置こうと欲するだろうか? むしろ私たちは、それを既に存在しているものとして前提し、そして、その意識に達しようとするに過ぎない。それは、私たちの知すべてに存在している。しかし、当初は無意識の仕方で、ただ活動という形式においてのみ存在している。つまり、それは本来的な動因ではあっても、意識にはのぼっていないのである。したがって、私たちは、一つの知が、どのようにして自分の内に存在しているか、またそれが、どのようにして先ず生成したかというその在り方を、最高原理を介してそれを学問的形式に受け入れるという課題遂行として、特別に思弁とは区別して呼ぶことはできない。したがってまた、思弁的なものの中にも、少なからぬ要素が従属的形式をとっているし、また他の非思弁的なものにおいて、少なからぬ要素が、より完全な形式を持っているのであり、両者の間には、単に相対的対立があるに過ぎない。また時間においては、無から何かが生じるとは考えられないゆえに、たとえそれが最小のものであっても、思弁する者のより高次の振舞いが、そこに結合できるような何かが、常に存在するのでなければならない。いかなる仕方においても、次のような差別はあり得ない。すなわち、ある人はその性質からして思弁的知に予定され、他の人はそこから締め出されているというような(差別はあり得ない)。それは、意識へと高められ得る力として万人の中にある。それは、形よく削られているか、それとも粗野なままかの違いはあっても、同じ素材の鉱石として万人の中にある。知はすべて、たとえ形式によるのみではあっても、今求められている絶対知に基づくのであり、そこから生じる構築の原理に基づくのである。そして、それらの力を通して知はもたらされる。

[6]

さらにもう一つの困難を片づけておかねばならない。次のように言うことが可能であろう。いったい私たちは、この最高原理にどのようにして到達しようというのだろうかと。というのは、私たちはこの原理なしには、それに到達できないのだから。古代の論争術の内容が、すべてここで空転している。すなわち、知に至るためには、先ず知についての知を持たねばならないというのである。知の原理と、その構築の原理との間に、特別な差異を前提するなら、ここから出ることは困難である。それが誤謬であった場合、矛盾はすぐに示されると考え、その一方の無効Nichtigkeitを前提とするということに出口があると言う人がいるかもしれない。しかし、その構築は決して完成されていないのであるから、その遂行を継続すれば、矛盾は早晩明らかになる。人が超越論的なものと形式的なものとを、一つと見なすなら、私たちは次のように答える。根源知の根拠と、他のすべての知の根拠は同一であるのだから、私たちが最高知と見なすものは、あらゆる所与の知において、知の形式であるところのものに他ならない。そして私たちは、ここ(知の形式)において、超越論的で形式的な最高のものを同時に見出すのである。したがって私たちは、知のイデー一般だけを分析しなければならない。ただ、最高知を持つことなしに、個々のものが知であるかどうかを私たちは知ることはできないと言う人がいるかもしれない。しかし、およそ知としてのみ現れるものはすべて、私たちの観点では同質homogenである。個々の知において絶対的なものを見出すためには、私たちは他ならぬその内容を度外視しなければならない。したがって、予想されるような誤謬が、私たちの研究に入ってくることはないのである。

むろん、あらゆる個々の知の中に絶対的なものが保持されているという仮定は、絶対的なものを発見するための手がかり(論拠)を保持するために必然的であるにもかかわらず、求められている知自体と同じ価値を持つのではない。その限りでは、ここで私たちは、信は知を越えているという主張の相対的真理を理解する。しかし、知はおよそ私たちの確信すべてにおける動因Agensである限りでは、信は知に基づいているとも言える。

最高知は、力としては、そこからあらゆる実在的な知が、不完全な知も含めて出てくる原理であり、意識されたものとしては、そこから実在についての学が生じる原理である。

私たちは今や、知と認められたものから出発して、その中に原理を求めている。既に言われたように、私たちは形式的なものを重視するが、それはしかし超越論的なものを軽視するということではない。さらにこの(超越論的なものを軽視するという)危険をできる限り避けるために、私たちは先ず超越論的なものを手にすることを試みる。それから、この超越論的なものが、同時に形式の原理である、換言すれば、絶対的なものは同時にあらゆる知の形式である、ということに気付くように試みる。

 

超越論的部分[7]−[30]

知について[7]‐[8]

[7]

何によって私たちは、あるものを実在的知として認識するのか? つまり私たちの内には、知に類似してはいても、知とは見なされないものが少なからず存在する。したがって私たちは、一般的なものとしての思考の下にある特殊として知を立てる。思考は何によって知となるのか? ある一つの思考が知として定立される時、私たちは、その行動が思考であるすべてのものに対するその普遍妥当性を定立している。この普遍妥当性を伴わないものを私たちは知として定立することはない。私たちは、他の人もまたそう考えるべきだという要求はできないが、自分はそうとしか考えることができないように意識しているものを、少なからず自分たちの内に持っている。例えば格率(Maximen)である。そのような個々の存在を形作っている格率は、これもまた知ではない。私たちが誰かに何かを伝える時、私たちは前もって私たちの中にあったのと同一の知を、他者が自分の中に作るということを求める。その時私たちは、自分の伝達行為に満足する。同じことは芸術(Kunst)に関しても言えるが、この場合、前者と異なっているのは、知の伝達は、他者がそれを自分の内に生産すべきであるという以外、他の傾向を何ら持たないが、芸術作品(Kunstwerk)は、他の要求をなす。すなわち、私たちが芸術作品において欲するのは、それを観るものが、私たちがしたのと純粋に同一の行為をすることではない。したがって(知の)信念(Ueberzeugung)は、各人の主観的性質に関係させられてはならず、そうではなく、純粋に人間的なものに基づくのでなければならない。そして、その(知の)伝達の目的は、他者が純粋に同一のものを生み出すということである。それゆえ知は伝達されなくても普遍妥当的であるが、芸術(Kunst)においては、伝達は必然的である。この普遍妥当性なしには知は存在しない。したがって私たちは、自分たちの中に与えられているものに目を向ける。しかし、私たちは個人の存在の範囲に制限されているわけではない。自分たちの中に、私たちはすべての人の知を見ているのである。したがって意識の内的現象を、それが普遍妥当性を持たないかのように考えることは誤りである。

これに対する経験主義的懐疑主義の批判はこうである。「各人は皆自分自身のものを所有するに過ぎず、他者の内に類似物があるかどうかは誰も知ることはできない」。もし誰かが共通のものを定立しないならば、その人は知も定立しない。その時彼には(知とは何かという)問題は生じない。しかし、次のように言うことも可能である。すべての実在的知は、同時に君の個人的存在を通して伝達される知をも含むと。しかし、所与の知の内容を私たちは度外視したい。すなわち、もし普遍妥当的なものだけが存在するというなら、不確かなものや個々のものは(私たちの)感覚(Organen)の中に存在する。しかし、知というものは、もう一方の要素(普遍的なもの) −それを私たちは求めているのだが−を通してのみ知であり、両方の要素の同一性が、ある一つの知を完全なものにする。それゆえ、いかなる有限的な知も完全な知になることはない(この同一性に達することは不可能だから)。しかし、このことは私たちが他の側から研究を始める可能性を妨げはしない。

[8]

思考というものはすべて、したがって知もまた思考するものと、思考されるもの、主観と客観の両方に関係している。思考されるものは、思考の外にある何かであり、しかしまた思考に与えられている。思考が知である限り、思考の中に主観がどのように定立されているかを私たちは見た。思考が知である限り、いかにして思考は客観への関係において考えられるのか?

思考の外に定立された客観(Objekt)とは何であるか? 私たちは思考する時、単に思考するのではなく、何かについて思考するのである。この何かとはいったい何であるのか? 存在(das Sein)である。あらゆる思考や知において、思考されるもの、知られたものが存在である。私たちは存在の形式の下以外では、何も思考することができない。たとえそれが私たち自身においてだけであろうと、私たち自身に対してであろうと(できない)。恣意的思考や、想像することにおいてさえ、思考されるものは存在の形式を受け取る。それが誤謬の場合も変わりはしない。なぜなら、私たちは誤謬をも思考されるものの存在と組み合わせるからである。その思考されるものが真なるものである限り。存在に対するどのような関係を通して、思考は知となるのだろうか? 無知においては、この存在は、私たちの思考の単なる形式に過ぎない。誤謬においても私たちは思考を、それ(誤謬)には依存しない存在に関係させる。しかし、その場合思考は存在に対して、それがそうあるべきような関係にはない。例えば、思考において誤った述語が存在に伴ったような場合、それは存在においてそうあるわけではない。知とは、思考される対象としての存在と思考との一致である。これに加えて、知は、個人的な意識ではなく、あらゆる人間(Persoenlichkeit)の総体であり、それと共に理性そのものである。したがって知は、存在における理性の純粋な開花である。私たちが理性と存在とを互いに対置することによって、両者の一致は必要なものとして現れる。存在そのものから生じ得るものは、理性そのものの中に、その主観的根拠を持つもの以外の何ものでもあり得ない。誤謬と恣意は、決して存在からは生じなかった。人がこの同一性から逸れようとすれば、存在と理性のイデーは失われてしまうだろう。両者の中に、両者の相互関係において現れる必然性があるからである。理性の中には、存在においてとは何か別のものが存在していると考えることが可能であるとすれば、存在の必然性のイデーは失われるだろう。その合法性も(失われるだろう)。理性の現実性もまた失われてしまう。両者が存続するのは交互作用においてなのである。

しかし、倫理学や数学の領域においては、知と独立した関係にある思考対象が存在しないような多くのものが、知として現れるように思われる。例えば定言命令である。この道徳律は知である。なぜなら、それは普遍妥当的であり、また確信と結びついているからである。しかし、道徳律には、それと独立したいかなる存在とも対応していないように見える。この場合存在は先ず生成すべきものである。この思考にいかなる存在も対応していないとするなら、それは幻想であろう。しかし、直観がそこに存在している限り、それには真の存在が対応している。それが何か実在的なものであれば、何かが存在していなければならない。私たちは理性を存在として定立する。そして定言命令は、理性がどのように振る舞うかというその形式Formel(規定、論理式)を述べる。そして、その限りにおいてのみそれは知である。同じことは自然法則についても言える。すなわち、人が自然を定立しなければ、その法則は幻想に過ぎない。数学的知において思考されているものにも、存在は対応していない。存在は思考によって初めて生み出される。算術も幾何学もまだ真の知ではない。幾何学は曲線や直線を、その可能的統合の中に含んでいる。この構築に私たちはどのように至るのだろうか? それは運動である。数学は、その学問的性格を持つが、それは自然学に対する関係によってである。その存在を越えたものは、再びその存在に至るための単なる通過点に過ぎない。しかしながら、その本来の領域においては、存在がそれに帰せられている。

私たちが物を定立することによって、私たちの研究の結果を先取りしているかのように見えるかもしれない。この反論は、ここでは単に見せ掛けに過ぎない。物が存在するかどうかと問われた場合には、人はただ次のように答えることができるのみである。物と知とは一致するのかどうか、それとも知のみが存在するのかと。人はここで存在から出ることはなく、物が私たちの考えたものと違うものであれば、そこには知はないのであり、それゆえ、知は純粋な一致を保つのである。主観は必然的に客観の中に相関するものを持つ。所与の知の中に一致があるかどうかを、どのようにして私たちが分かるのか、私たちはまだ知らない。知と存在は分かちがたく結びついている。

 

思考について[9]‐[11]

[9]

知とは、その普遍妥当性と共に定立された思考である。思考とは何であろうか? 思考はすべて二つの要素から、すなわち、形式的(formal)要素と物質的要素から成っている。後者に関していえば、思考はすべて有機的機能に基づいている。前者に関していえば、この機能は、知や知の反対物がそれを通して成立するような形式Formの中へ受け入れられる。前者(形式)を通して知は一つの知、特定の知になる。人は次のような言葉を差し挟むかもしれない。有機的な機能を伴わない純粋に形式的思考が存在すると。すなわち、それは無についての思考であり、それは、それに先行するものと関係あるものとしてはまったく現れることができない。例えば、a=aには、有機的機能は示され得ない。これが、有機的機能を持つ複数の思考を一つの何かにまとめるというような場合を除いて。そのような場合は、複数の実在的思考行為に共通の形式的要素である。そのようなものも、それ自体は空虚であり、人がそこに他のものの定立を考える場合に限り何かを意味する。そのような命題はいずれも、それ以前の思考行為を前提としている。身体的物の現在―それによって何かが表明されるところの―を欠いているようなすべての命題は、有機的機能を欠いているような命題ではまだない。しかし、またいわゆる悟性的な物というものも存在する。一般的概念、例えばストーブ(Ofen)なども、そのような概念である。これには有機的機能が欠如しているかのように見えるが、それは見せ掛けに過ぎない。なぜなら、ものから感覚へ移行してくるものは、決してものの本質に属さないものではないからである(実際、ストーブは高い温度をもたらすべきである)。このような事例は至る所にある。一つの命題が空虚でないとするなら、私たちは有機的機能を共に定立している。例えば、人が動物について何かを発言した場合である。「動物」(Tier)は、「a」と同じような単なる空虚な符合であるか、または、それと共にあらゆる可能な形式(Formen)−そこにおいて動物性(Tierheit)が私たちの感覚に明らかにされる―を定立するかである。そして、そのような場合にのみ、それは何か生きたものである。形式的思考は決して知になることはできない。それは知になるための暫定的装置に過ぎない。それが知になれるのは、(1)空虚が満たされることによって、(2)たとえ最小限であっても、ここにもまた有機的機能が常に存在することによってである。そこにおいて知が存在可能になる行為を人は直観と呼ぶ。それは思考の反対にあるようだが、しかし、そのような考えは、思考があたかも(直観の)反対において成立するかのように考えることによるに過ぎない。

私たちの知の概念には、次のような前提が存在する。意識の最高の能力である理性は、すべてにおいて同一であるという前提である。もし人が自らに反して、異なるものとして形式的操作と有機的操作とを定立するなら、人は結合(Kombinationen)にも有機的機能にも等しく多様性が存在すると言うことができる。どの有機的機能にも、その特別な結合が伴っているか、あるいは、同じ一つの有機的機能から複数の考えが可能であるかのいずれかである。さらに、各結合がその特別な(有機的)機能を持つか、各形式的要素は、特に物質的な要素を持たないかのいずれかである。しかし、事情はむしろ次のごとくである。どの形式的要素も、有機的機能の全領域を包括できるし、また、その逆も言える。そうでなければ、人はそのような差異を作ることができない。あらゆる思考において形式は統一の原理であり、感覚的なものは、多様性の原理である。物質の任意の要素はすべて、様々な結合の構成要素となり得るし、形式的要素はすべて、多くの有機的機能を包括し得る。例えば、ほとんどの色の知覚、「そのストーブは熱い」という文章における有機的な要素などは、様々な知識にきっかけを与えることができる。さらにある知覚を一つの対象に固定することは、物質的思考の何千もの様々な要素によって繰り返され得る。これらのどの一つも、他のものの多様性と共存することが可能である。したがってすべての知において、単に形式的要素と有機的要素が一致しなければならないのみでなく、有機的要素の側から見ても、一方は他方と一致しなければならず、その産出でなければならない。これがなければ知の受け入れは空虚であり無である。どの人の知も、それぞれの他者の知と共に存続できるのでなければならない。一方において理性の統一であるところのものは、他方においてあらゆる有機的機能の総体である。絶対知は、有機的要素との合一においてのみ実在的になる。そして、理性がすべての人におけるその同一性においてのみ知識の主観になり得るように、有機的要素の側では、誰もが有機的機能の体系に属し、その構成要素である場合にのみ、その知は知であることが可能である。あらゆる可能な直観の同一性は、こうして初めて知を汲み尽くす。

[10]

知の有機的要素の全領域は、統一を形成しなければならない。その統一において、中心は何らかの形式的なものであり、有機的要素はその周縁をなす。その逆の場合もある。そして、どんな実在的知の中にも、あるのは知の断片であり、全体的知はただ全体性の中にのみある。

「正義」のような倫理的概念にも、有機的要素はある。というのは、この概念は、内的感覚の知覚から、快不快の知覚から、およびそれと結びついた行動から生じているからである。

知の第2の性格は、思考と存在の一致であった。さて、すべての思考は、概念か判断かのいずれかである。推論は、これら二つの結合に過ぎず、本源的形式ではない。概念の形成は、独自な思考行為である。それを通して、ある存在が、その存在の統一が固定化される。これはそれ自体思考行為である。それに対して、判断は結合である。それは、一つの主観によって何かが述べられることによってなされる。両方の形式は、互いに他を前提としている。なぜなら、一つの概念は、そこにおいて、その概念が分解されるような複数の判断を包含しているのである。それは例えば、一つの概念を他者に明確に説明しようとしてみれば分かる。私たちが概念の歴史を描いてみれば、それがどのようにして、どんな個々の判断から、しだいしだいに成立したのか証明することができる。このように両者が相互に前提し合う関係にある時、知はいかにして成立することが可能なのか? ここにおいて、すべての知は互いに編み合わされているように思われる。本源的な出発点はどこにあるのか? 両者の同一性が存在するに違いない。それは、あらゆる実在的知の源泉であり、それゆえ絶対的なものでなければならない。これは概念でも判断でもなく、両者の純粋な同一性でのみあり得る。概念というものは、普遍的なものと特殊なものとの間の揺れである。なぜなら一方で、統一としての概念の下には、経験的なものは包摂され、多様な特殊は包括される。しかし他方、概念は、より高次の概念に包摂され得る。例えば、「甘美な」(suess)という低次の概念は、器官の活動というより高次の概念の下に包括され得る。どの概念にも、それに包摂される低次の概念と、それを包摂する高次の概念とが存在する。その終点はいったいどこなのか? 概念の最も低次なものへ行き着くことはない。例えば、「甘美さ」に従属するものを、この概念に属する操作の内部を私たちが知っている限り、概念として立て続けることが可能である。それゆえ私たちは、どの概念の終わりにも、それをさらに規定する複数の判断の可能性を結び付ける。― 最高の概念は、物一般、存在一般の概念であり、そこにおいてはもはや、より高次の概念の下への包摂を可能ならしめる区別がされることがない。しかし、このようなものはもはや概念ではない。なぜなら、すべての概念の持つ二つの関係(低次へのそれと高次へのそれ)のうち、一つだけ(低次へ)しかそこにないからである。しかし、それにもかかわらず、私たちは、この最高概念においてなお概念と対象という対立を持っている。これが一つの知となるべきものであれば、なおさら私たちはこの対立なしにこの(最高)概念を考えることはできない。これは、しかし、判断の形式である。したがって、概念形成の頂点には、一つの判断がある。しかし、これもまた一つの概念を前提とする。したがって、最高のものとは、存在と思考の同一性、概念と物の同一性であり、そこにおいて私は、判断を解消することになる。ここにおいてはもはや、思考と思考される対象との間の対立もない。それは両者の同一性である。これは他方では、最高の超越的知である。なぜなら、それは、倫理的なものと自然的なものを越えたところにあり、同時に概念でもあり判断でもあるような最高の形式的なものFormaleだからである。この同一性がなければ不完全である個々の知すべてを、これは再び規定する。

[11]

概念はすべて、より高次な概念と、より低次な概念との総合であり、両者の間の揺れであった。前者(より高次な概念)は、統一でなければならないし、後者(より低次な概念)は、絶対的多様性でなければならない。なぜなら、そこ(絶対的多様性)において統合(Zusammenfassen)の過程が始まるからである。最高の包括は、概念の下にあることはできなかった。なぜなら最高のものは判断の結果と見なすことは不可能でなければならなかったし、(概念の下に置かれれば)そこに多様性が存在してしまうからである。概念の低次方向への終点は、大量の概念によって汲み尽くすことは不可能だった。最高のものは、その統一性ゆえに、概念の形式のもとにもたらすことは−それが判断の産物である限り―不可能だった。私たちはそれを、ここでは形式的側面からのみ見ており、したがって不完全である。私たちは、それを他の側からも眺めなければならない。しかし、最高のものは、どの知においても、それを知へと形作るものである。最高のものは、概念と判断の同一性であった。どの概念もそれ自体は恣意的なものとして現れる。また人は判断に安らぐことはできない。人が最高のものにおいて意識するようになる両者の同一性が、それを知に変える。

判断は存在と非存在との総合、あるいは両者間の揺れである。それは、両者が規定されたものであるということによって規定される(揺れである)。判断は主語と述語とからなる。両者は概念である。なぜなら、私がある個物を主語にする限り、それは判断ではない。なぜなら、他の人が、その個物を同じように無限なものとして構築するかは不確かであり、その場合その主語は純粋に一つの主語のままだからである。判断は両者の結合である。両者が、判断において結合されるものである限り、それらは判断の前には相違したもの、対立したものである。主語は、人がそれについて何かを述べる時には、常に存在しているものとして定立される。述語も同様である。判断は次のことに基づいている。すなわち、主語自体は、その主語に述語として付与されるものと同じではなく、したがって、主語は、およそその主語によって述語として述べられ得るようなものと同じではない。ゆえに、判断はすべて存在と非存在との同一性である。存在が主語であり、非存在が述語だからである。特定の判断はすべて、二つの両極的点に基づいている。主語はそれ自体でan und fuer sich存在するものとして定立されるが、主語に付加され得るものは、(それが判断において定立される限り)非存在として定立される。したがって、主語は述語の付与がほとんどないという以外の尺度を持たない。したがって、最高存在とは、ある主語が定立された時、それについて何も述語を付与できないようなものが、それである。これはしかし、概念へと判断が移行していること、すなわち、そこにおいてはその存在以外何も述語付与できないような最高の存在、同一的な判断である。同一的判断というものは、その最高の主語が表現しているもの以外には、何ら実在的なものではない。この最高の主語については、その存在以外何も述語を付与できないからである。述語は、他の存在者に付く何かとして定立される。したがってそれは、他の存在者に付く限りにおいてのみ実存を持つ。より多くの存在者に付くものであればあるほど、一層多くの実存を持つことになる。すべての主語について述語として付与されるようなものがあるとすれば、それは最高の実存である。その述語が、すべての主語について述語として付与される場合、定立されるのは次のような主語のみである。すなわち、それ自身再び述語であり、それ自身再びすべての存在者に付くことができるような主語である。これが判断の二つの終点であり、それは、各々の終点から計られ得る限り、一つの規定されたものである。したがって、この二つの終点とは、1) それによっては、その存在以外何も述語として付与することができない絶対的存在であり、2)それに従えば、主語はすべて相対的に主語であるに過ぎず、述語にもなり得るような、絶対的な述語付与(das absolute Praedizieren)である。

概念は、一方において最高のもの―そこにおいて存在と存在者の思考との間の対立が終わるような―に向かってゆくことができる。最高の主語もそれ以外のものではあり得ない。概念形成は、規定されないまま終わるのだった。なぜならそれは、無限に続く判断によってのみ、概念になることができたからである。判断の同一的な終点とは、すべてが同時に主語でもあり述語でもあるような点であり、したがってそれ自体存在を持たず、存在と非存在の同一性であり、したがって主語は存続するものとして固定化されることはできない。(これを存在に対して生成Werdenと呼ぶ。)

今までのところ私たちは、思考を思考として、純粋に知から切り離して見てきた。問題となったのはおよそ概念と判断の形式に関することのみである。したがって、今私たちが見出したものは、思考の原理一般である。すべて概念形成は、絶対的統一性と絶対的多様性から出発する。思考のあらゆる働きにおいて、このことは無意識的にも主導原理である。私たちが思考を知の形式において見ようとするなら、これは、さらに明確に明らかにされねばならない。

 

概念形成の局面における知と存在の同一性[12]‐[17]

[12]

前回見出された主語と述語の最高存在は、思考によって見出されたのであり、したがって、それは思考そのものの一般的形式でもある。

私たちは、この見出された最高存在を、知の第二の性格、すなわち判断の領域にも適用すべきであるということによって、個々の物そのものの定立を正当化しているように思われる。

これに対して二つの反論がある。

第一の反論は、懐疑に共通の形式の下でなされる。すなわち次のように言われる。「人は、個々の物においては、有機的な機能以外には何も述語によって規定することはできないし、物におけるこの有機的機能の根底に何があるか知らない。人は一般に、知と存在とを同等に扱うこと(gleichsetzen)はできない。なぜなら、それらは、実在的領域においては、離れ離れに存在しているから」。

第一の答え。「絶対者においては存在と知の同一性が定立される」。しかし、この答えは、学問が完全に構築され、絶対者からの演繹によって、知と存在とが常に平行してあり続けることを前提としている。

第二の答え。「概念と対象の同一性もまた概念から生じた叙述であり、この叙述が、この(同一性の)表象を保証する」。知を放棄するが、思考は救おうと欲する懐疑家は、物との交通を救おうと欲するが、それはまったくこの叙述に属している。したがって彼は、この同一性を認めねばならない。

[13]

第二の反論は、二つの対立する見解の結合から生じる。

第一の見解は、観念論的なものである。「思考はすべて概念と対象の同一性に基づき、思考の第一の形式は概念であるが、しかし個々の物は、概念において十分現れることはない。したがって、個々の物は非存在者であり、思考とその対象との同一性は、この関係においては知の性格ではあり得ず、むしろ、その同一性についての知は存在しない。知とは絶対的なものか、それから演繹されたものである」。

第二の見解は、経験的なものである。「直接的存在としての個々の物は、概念において現れることはない。したがって概念も知の形式ではない。経験的な知は、個々の物についての判断である」。

前者の見解は経験的知を、後者は形式的知を止揚するので、両見解によって、すべての知が止揚される。

答え。(1)次のように言うこともできる。後者によって経験的知が、前者によって形式的知が定立される。したがって、両者によってすべての知が定立されると。(2)したがって、この二つの見解のそれぞれは、一面的なものに過ぎないと言わねばならない。a. 経験的見解は、テーゼにおいては概念を拒否するが、実践においてはそれを想定している。なぜなら、総合判断Combination−これなしでは、この見解はいかなる判断を成立させることもできない―が、概念として、この見解に与えられるからである。b. 観念論的見解は、テーゼにおいては有機的機能を拒否するが、実践においてはそれを想定している。なぜなら、多種多様な下位概念を、それは概念として構築することはできず、それは、この見解に対し個々のものとして、したがって有機的機能によって現れざるを得ないからである。

したがって、この反論は、私たちの根本にある同一性、すなわち、絶対的なものの統一性と個の全体性との間の同一性を証明するに過ぎない。

[14]

上の二つの見解のいずれも、一方だけでは不完全であり、知を生ずることはない。

観念論的見解は、常に認識と詩作Dichtenの間を揺れ動いている。

経験的見解は、認識のより低いところで、物との交通のための覚え書で満足する。

したがって必然的に次のことが結果する。概念に現れることのない存在、個々の物の存在は、全体的存在ではないということ。

同様に、単なる推論による最高概念からの構築は唯一の知ではないということが結果する。

知覚と構築は、同一のものとして定立されて直観を与えるが、これに対する定式は、思考は存在に対応するということに他ならない。

・・・・・

したがって、より高次のものと、低次のものとの対立は、概念においてと同様、存在においても見出されねばならない。

より高次の概念には、より高次の存在と、より真なる存在が、―というのは、そこには非存在の定立はより少ないから―対応する。

最高存在とは、その存在が同時にその概念でもあるような存在であり、その存在の下に、すべての他の存在が把握されるような存在である。低次の概念が、より高次の概念の下にあるように。

[15]

前講義の補遺

(1)次のように言われた。「一般的諸概念に対しては、それらが知である限り、存在が対応する」という命題は、観念についての教説である。そこから人は、概念と観念とは相違すると推論できる。

プラトンにおいては、eidos(form)とideaとgenos(class or kind)は同義語である。前二者は形態(Gestalt)であり、三つ目は類(Geschlecht=産む力)である。したがって前者は、個に共通のものであり、後者は生産力の統一性であり、両者は、類似の用法によって等しく定立される。概念は、主観的な成立のあり方、より低い存在の知覚と共に与えられたものとしてのより高次の存在、統合の行為をあらわす。そこにはまだ誤謬の可能性がある。しかし、この概念は知としてはイデーと全く同一である。

(2)神は、実在的知を真に成立するために与えられねばならない要請ではない。もしそうなら人は、実在的知を全く持つことができないか、個々のものにおいて知を無知から区別する手段を全く持たないであろう。そして、神の確かさも同じことになってしまう。なぜなら、それは知のイデーの中に横たわっているから。

(3)ここで述べられていることは実証(Demonstration)ではない。実証は、認識された他のものを前提としている。しかし神認識は、他のすべてのものの根底にある根源的認識だから。

[16]

ジャンル(Gattungen)の存在は、種(Arten)や、個々の物の存在の外部にあるのではなく、それらの中に、それらと共に、また、それらを通してある。

したがって、ジャンルや種についての思考もまた以下の場合に限り一つの知である。すなわち、そこにおいて普遍的なものと共に、同時にまた特殊なものの生産性が定立される限り。

その思考は最も下位の存在においては、単調な生産の不定的繰り返しとして、より高次の存在においては、生産の諸変容のはっきりとした多様性の循環として。

種やジャンルの存在は、より高次の種やジャンルの存在を通して存在する。

したがって、それらについての思考も以下の場合にのみ知となる。すなわち、その存在の特殊なものが、より高次の存在の詳しい規定として(同列のものに対しては、その関係がどのようなものであるかによって)定立される限りにおいて。

個々の物の存在は、種の存在を通してのみある。そして、そのようにしてのみ、その各々は、何かあるものであり得る。

したがって、個々の物の表象においても、それが一つの知であるべきなら、種の概念が共に定立されねばならない。それによってのみ個々の表象は、概念の形式に関与するのである。

したがって、私たちは、個々の物そのものの表象に先立って、概念を持たねばならない。これは、生得的概念についての教説の間接的叙述である。

[17]

補足

(1)以上言われたことは、倫理的領域にも、自然的領域にも同じようによく妥当する。倫理的領域においても知は、概念の形式の下で、そのような生きた直観であり得るにすぎない。

(2)このように立てられた知を通してのみ、すべての倫理的・自然的知の骨組みは建てられる。なぜなら、すべて存在する形式は、この概念形成の体系の中に包含されねばならないからである。そして、そこには次のことも含まれている。すなわち、形式が属する全体系なしには、これらの形式のいずれも完全に理解することはできない。また、自然的知の概念も、倫理的知の概念なしには理解できないし、その逆も真である。

(3)個々の物が、最下位の概念においても不定的数多性の形式の下でのみ理解されるべきであるとしても、量というあり方をする生産する力は多い少ないということからは取り去られるべきである。そして、これもまた認識の完全性に属する。

(4)ここに立てられた知は、その完全な姿における知である。しかし、それはただ生成するものとして与えられる。ジャンルの概念は、それがいかに種によって使い尽くされるかという洞察として、そこに先行して存在する。したがって、この点までは、種はただ個々の物として表象され、観察が構築に対立するものとして現れる。しかしながら、構築も観察も、それ自体としてではなく、両者が一緒になってのみ知を形成する。純粋な知においては、両者は相互関係にあり、それは様々な観点によって、哲学的知であったり、歴史的知であったりする。

・・・・・・・

絶対者は、諸判断の無限性といったものによってのみくみ尽くされるような唯一の物として考えることはできない。より下位の概念と、より高次の概念の同一性における概念として考えることもできない。絶対者の概念は、絶対者自体の外にあることもできない。私たちが、私たちの存在と、私たちの概念の同一性において、十分ではないが、神の像である限り、私たちは絶対者の概念を持つことができる。孤立した神についての直観など存在しない。そうではなく、私たちは神を、直観の全体系において、またその体系と共に直観するのである。神は、確かに概念的には捉えがたいが、その認識はあらゆる認識の基礎である。それは感情の側においても同様である。

 

18」

したがって神についての私たちの知は、世界直観と共に初めて完成される。世界直観についての痕跡が現れるや、神についての知に関しても、その根本的特徴が明らかになる。世界直観に欠陥があるその度合いに応じて、神のイデーも神話的なものにとどまる。または、神のイデーが、世界直観から切り離され、思考の厳格な形式の下にもたらされると、神観念は根拠のないものとなる。(真の無神論は実定的懐疑主義との結合においてのみ存在する。その他の無神論は、いずれも根拠のない神話的なものに対して向けられているに過ぎない。)

 

判断形成の局面下における知と存在の同一性[18]-[20]

これまでのところ概念形成に関して論じてきた。今度は判断について論じる。すなわち、いかにして判断において存在が定立されるか、判断が知であるべきなら、それはどのようにあらねばならないか。

判断の形式が実在性を持つのは、それ自体概念と見なされる主語と述語が、いかなる仕方においても同一ではない場合である。主語自体が再び述語として定立されるような判断や、あるいは、述語が、主語に対してその次に高次の概念であるか、この高次の概念の徴標(Merkmal)であるような判断は、いかにして存在が判断において定立されるか示すことはできない。

主語と述語は異なるものとして前提されるが、判断において不可分なものに結合される。しかしながら、この統一は、一つの主語から多数の判断が可能であることによって分割された統一であり、主語の統一と存在自体(Fuersichsein)に従属するものである。したがって、判断において定立された存在は、主語の概念において定立された存在よりも小さい存在である。それは丁度、移り変わるものが、移り変わらざるものに対してあるような、あるいは偶然的なものが、本質的なものに対してあるような関係にある。したがって、判断において定立された存在は、その主語に独自なものではなく、その主語と他の主語に共通の存在である。述語の本来的表現は、動詞、すなわち働きかけたり、働きかけられたりする状態であり、それに関して、その可能性は主語の概念に定立されてはいるが、その現実性は他との共存に基づくのである。

本来的概念(普遍的な物)においては、偶然的で移り変わるものは定立されず、本質的で、自ら等しくあり続けるもののみが定立される。したがって、それらは本来、判断の主語ではない。

判断の本来的領域は、個々の特殊な物であり、すべて他の領域は、この形式の下で表象される限り、単にそれに分与するに過ぎない。

他動詞的な判断や、自動詞的判断は、共同性の様々な度合いを表現している。

[19]

したがって判断は、経験的知の形式として現れる。そして、一般的な物は、完全な構築の欠如からなお経験的に把握されるのである限り、経験的知の下に属するに過ぎないように見える。このように、判断は概念の補遺に過ぎないように見え、それは次第に消滅してゆくべきものである。

しかし、有機的機能に対しては、存在は常に活動性において与えられる。そして、先天的なものと後天的なものとの対立が止揚された後にも、認識の二重の形式、すなわち、哲学的認識と歴史的認識は残存する。したがって、前者は概念によって、後者は判断によって表現されるのである。

したがって判断は独立した妥当性を持ち、判断と概念の両者においてのみ完全な知が存在する。

したがって、一般的な物の存在は、この(判断という)形式にも継続的に関与するが、それは、その形式を通して、それら(一般的な物)が、有機的機能に対して、下位の個々の物の存在と生成において叙述されることによってである。

判断において叙述された共同性は、次の二つのいずれかである。一つは、同種の存在間の共同であり、その場合には、行為は一方で両者の係数に基礎付けられたものとして表象されることが可能であり、他方、両者に共通の本質において―その本質の中に働きかけの可能性も、働きかけられる可能性も存するのだが―基礎付けられたものとして表象されることが可能である。もう一つは、異種の存在の間での共同である。その場合には、先ず一つの原因が、より高次の概念において見出されねばならない。双方の存在領域は、その概念に従属するのである。そのようにして、二つの領域間に起こるすべての事は、一つのより高次の一般的存在の行為と見なすことができる。しかし、常に行為としてであり、したがって判断の形式の下で、間接的方法においてである。そして起こることはすべて絶対的存在の行為と見なされ、その(絶対的存在)の下では、全てが包括されている。

[20]

この知は判断の形式の下にあるので、私たちはこの知と共に、判断の形式に対応する存在を定立しなければならない。すなわち

(1)それは、個々の物の領域において、それらに固有な特殊な存在に従属する共存在(Zusammensein)であり、それを通して個々の物は、共同して個々の行動を生み出す。この共存在は、先ず、同種の諸物と共にある存在であり、それから他の諸物とも共にある存在となり、そして本質的には全体的存在である。そのようにして、全領域が個々の物の状態において表現され、その存在が全領域の表現において現れる。

(2)一般的な諸物の領域では、対立の中への崩壊がある。それによって行為における二つの対立的要素は、一つのより高次の存在に基礎付けられる。

(3)したがって絶対的存在においては、根源的生による対立の、全体性の中への崩壊がある。これを通してすべての行為は、この根源的生へ帰り、そこに基礎付けられる。また、これを通して絶対的存在と個々の物すべての全体的共存在とは、一つの同一なものとなる。

 

概念形成と判断形成における形式的なものと超越論的なものとの統一[20]-[23]

(概念と判断の)二つの領域のまとめ

.形式的には、二つあわせて知の全体となる。そして、この全体は常に包括と結合とによって構築される。概念の体系は固定した骨組みを形成し、判断の体系は生き生きとした充填材料Ausfuellungを形成する。

.超越的には、ジャンルの存在と行為の存在は、全存在の全体性である。およそ存在するものは、すべて絶対的なものの中に存在する。

[21]

注釈。自動詞によって表現される判断も、共同的存在の表現である。行為における他の要因(他動的要因)は、時間の中に置かれている。このことは、物とそれ以外のものとの共存を表現している。

Anmerkungen(Arndt, S.96-97)より

Twestenのノートは次のような説明を残している。「他動的行為はすべて、どんな場合でも共同性を前提としている。自動的行為の場合はそうでないように見える。例えば、『その樹は花盛りだ』という文章は、単にその樹における何かに言及しているだけのように見える。しかしながら、この概念には可能性として他動的行為もまた含まれている。その樹が花盛りということが、その概念の中にあるのだが、今、花を咲かせているという時間的言及は、その木とは別の何かに含まれているものの基礎の何かを含んでいる。これはあらゆる場合に適用できる。このようにすべての行為は二重の要因を持っている。学生の筆写からのJonasによって用いられた筆記ノートが伝える次の文も参照せよ。「『その樹は今花を咲かせている』ということは樹以外の何かとの共存在に基づいている」と。

補遺(1)どの物においても、すべての度合いの行為が、最も普遍的なものに至るまで現れる。したがって、両要因の同一性は、絶対的なものの中にのみ存在する。このように個々の物の存在は、より高次の存在すべてを、その概念においてと同様、その行為の全体性において含んでいる。概念においては内的に、行為の全体性においては外的に。時の流れの中での存在は、離れて動いて行くものである。

補遺(2)個々の物の全存在は、したがって、その概念の勢位の下で、すべての行為の共存在と見なすことができる。同様に物の個々のモメントは、述語の勢位の下にある全ての存在の共存在と見なすことができる。したがって、ここでは全てが、それぞれの部分に存在する。

補遺(3)ここから確かに分かることは、固定的なものと流動的なもの、存在と行為の従属関係が、いかに相関的であるかということであり、また、どの特定の従属関係も、ある一面的なものに根拠を与えているということである。

補遺(4)この従属関係は、絶対的なもののイデーにおいては全く消滅する。それ(絶対的なもの)は、存在と行為の純粋な同一性であり、同様に固定的なものの側では、概念と対象の同一性である。

注釈。両方の同一性は、一つの同一の存在としてのみ定立可能である。なぜなら、それは、両者と同一な、同じ存在に過ぎないからであり、また私たちが、それによってそこに到達した形式的なものが、それを要求する―というのは、概念と判断とは相互にお互いの根拠でのみあり得るからである。

補遺(5)個々の物はどれも、自分の概念を持つが、それと共に、固定的存在の段ばしごを自分の内に持っている。自分の述語の概念には部分的に与かるに過ぎない。

[22]

すなわち、物の表象は、種の概念を全く自分の中に保持しており、それは個々の物すべての表象においても全く同一である。個々の物が様々であるのは、種の概念によるのではなく、何か別のものによる。生き生きとした力は、物においてむろん全てではなく、それ(物)は力が生み出す一部に過ぎない。(ここからパルメニデスにおける問題が生ずる。)

補遺(6)すべての行為が、このように二つの要因から成っているのであれば、一者としての原因を問う問は、物―それには変化が主語として付加されている―の外に置かれた他の要因を問う問に過ぎない。しかし、この物の本質は、原因として定立されるべきではなく、人は、この物の一つの行為にとどまるか、あるいは、すべての物の複合物の中へその要因をすぐに定立するかしなければならない。原因や物―そこにおいて行為が基礎付けられる―は、より高次の統一に過ぎない。そして最終的統一は絶対者である。したがって「二つの物が互いに他を生み出す」という古い術語は、より正当である。生産の力(Geschlecht)は、要因への分割の生きた図式である。

補遺(7)三段論法が、一つの独自な形式であるならば、それにもまた一つの独自な存在が対応しなければならない。しかし、そのようなものは証明され得ない。なぜなら、存在と行為とが互いに分離しがたいものであるということは、概念と判断とが相互依存の関係にあるという仕方の中に模写されているからである。三段論法の内容は、ただ次のことの中に存する。すなわち、より低次のものが、より高次のものに従属するのであれば、行動もまたその可能性にしたがって一緒に受入れられねばならないということである。それによって新しい認識が生じることは不可能である。形式に従えば、三段論法は、一つの判断から概念を経て、他の判断へ移行することであり、したがって、それが示しているのは、それがなくとも既に私たちが知っている二つの列の結び目である。

[23] これまで発見されたことについての考察

1.私たちは、実在的なものの上を揺れ動いている超越論的なものと、そして、形式的なものとを探求してきた。実在と関係しながらも不確実な思考と、知との相違を探求してきた。(時として、概念と対象との相対的同一性として、自然的領域と倫理的領域とのより明確な構築を探求してきた。それは、自然的領域では、客観的なものが根源的なものであり、理性は形成されるものであることによってであり、また倫理的領域では、理性が根源的で、対象は形成されるものであることによってである。)私たちは両者を一つのものとして探求してきた。そして、それを絶対者においてそのようなものとして見出した。

2.超越者は、絶対者自体であり、形式的なものは、絶対者の概念であるということができるが、私たちは両者の差別を拒否する。なぜなら、私たちが形式的なものを求めた時には、その存在を一緒に見出したし、超越論的なものを求めた時には、概念を一緒に見出したからである。ここにあるのは、a)絶対者の概念が私たちの内にある限り、絶対者自体も私たちの内にある。私たちは絶対者を、これやあれやの個として持つのではなく、理性として持つ。そのようにして私たちはこの至高者に最も近づくのである。b)私たちが絶対者自身ではない限り、私たちもその概念を持っていない。したがって私たちが絶対者を持つのは、有機的機能の側からではなく、すべての認識行為に共通の形式的要素としてである。絶対者の有機的側面が存在するとしても、それは、有限的個の全認識の全体性においてのみである。したがって私たちは、実在的学問の完成に取り組んでいる限り、神の生き生きとした直観の形成に従事しているのである。これはしかし、単なる集積物として、個を他の個に付加するということによっては起こらない。そうではなく、そこにおいて少なくとも全体性が目指されるような体系的作業を通してのみ起こる。

3.神は超越的存在として、全存在の原理であり、超越的イデーとして、すべての知の形式原理であるということ以外は、知の領域において神について何も語るべきではない。それ以外のことはすべて誇張、あるいは宗教的なものの混入に過ぎず、それはここに属さないものとして、ここで破壊的作用をするに違いない。

 

神と世界[24]-[28]

[24]神についての私たちの見解と他のそれとの比較

私たちは絶対者を、すべての思考の基礎として定立するのだから、全てにおいて神の観念が存在するということを仮定しなければならない。しかし、そうすることによって私たちは、神を世界から分離する人々と論争することになる。

1.世界は、神なしに永遠として定立されるという見解。その場合には、a)すべての存在者が思考されることはない。なぜならもし人が、すべての存在者を暗黙の内に理性に定立されたと考えるなら、人は絶対的理性を獲得することになる。b)存在者は、それが思考されるようなものにはならない。なぜなら、個々の存在が概念に現れることはないから。もし人が、思考されたものは内的存在であると言わなければ絶対的存在を獲得する。c)存在と思考との間の一致に対して何の保証もなくなる。その確かさは単なる見解にのみ基づくことになる。

2.世界は時間的なものとして神によって定立される。したがって絶対者は純然たる思考として、世界についての思考として定立される。後から生じた世界の存在を通して、神に対し何も付加されることがないなら、その存在もまた神において基礎付けられることもない。したがって何かが付加されるなら、神自身の中に本質的なものと、偶然的なものとの差異が存在することになる。したがって、この点はこの見解における解決不能なものとなる。

1.の議論は、神は世界と分離されるべきではないということによって私たちの見解に同意することになり、2.は、理性が根源的であるということによって私たちの見解に同意する。しかし、両者は概念と対象との純粋な同一性に至ることはない。

3.神も物質もそれぞれ永遠だったが、両者の交じり合った存在が時間的であるという見解。これは根源的二元論を与えてしまい、絶対者の両側面が神話的となる。

私たちは実在的知における思考と存在の一致を、絶対者における両者の根源的同一性からのみ導出するので、人は上の二つの見解から別の説明を考えねばならない。また実在するものにおいても、思考と存在は高次の一者にのみ依存しつつ交じり合い、共に存在するものとして至る所で等しく、私たちに現れる。ここにおいて思考と存在は、因果性の形式にしたがって従属しているものとして現れねばならない。

このように1の見解は、思考が存在の作用として見なされる。存在は、その場合、単に物質である。〔物質の個々の活動としての思考というこの概念の神話的内容(物質主義)は、その物質の完全な写しではもはやあり得ない。〕

[25]前項の繰返しと補足。

次のことを示すのが問題であった。絶対者のイデーは(宗教的形式を度外視しても)思考において至る所にあり、一部は不完全な形式の下に置かれ、一部は、それが不完全である限り、知の把握をも困難にする。

偶然的世界を伴った叡智的神、そして、これに対して永遠のカオスと、そこから生ずる偶然的または理解不可能な世界形成。ここに形式にしたがった絶対者のイデーがある。なぜなら、有限者に対し、ある根源的なものが、基礎に置かれるからである。しかし、物質に従えば、対立的なあり方へと一面的に(置かれる)。絶対者の世界に対する関係は不明確なままである。その知は因果性から不十分ながら説明されねばならない。

神とカオスとは、互いに並び合っており、前者が後者に偶然、二次的に侵入するに過ぎない。これに対して永遠的世界は、神なしに、カオスなしにある。ここに絶対者の観念は、物質的には存在するが、形式にしたがっては存在しない。なぜなら、この観念は単純な物ではないからである。第一の状態においては、絶対者の観念は原理ではなく、人はそれを越えて二元論に追い立てられる。第二の状態においては、その観念はそれ自体としては考えられず、それ自体では理解不可能な相対的なものの全体性においてのみ思考され得る。

唯物論においては、思考は物質の作用また現象として定立される。そこにおいて真理は、有機的機能の側面に関係し、形式的機能は全く欠如している。絶対者の無意識的イデーは、物質の下への思考の従属に反抗する。そこで多くの場合、有神論的唯物論が形成される。すなわち、全物質は再び一つのより高次な思考の下にあるという。したがって絶対者のイデーは二次的なあり方で構築され、しかも矛盾したものとしてである。

唯心論において物質は、ライプニッツやフィヒテ的に、精神の現象と見なされる。絶対者の無意識的観念はこれに対しても反抗し、その現存在が否定されることによって、自我の上に、より高次の絶対的存在を定立する。これが何か存在すべきものであるなら、それは絶対者の真のイデーでなければならない。しかし、その時には、現存在の否定もまた停止してしまう。真理は、ここでは形式的機能に関係するが、有機的機能は把握され得ない。したがって知のイデーも破壊してしまう。

以上が、超越論的なものと形式的なものとの統一という私たちの根源的主張の間接的証明である。

[26]

以上述べたことは完全な論駁ではなく、私たちの見解に反対する他の見解がどのようなものであるかを、特に知の説明との関係で示したものである。

私たちの見解は次のような主張に基づくものである。知のイデーにおける思考と存在の一致は、絶対者における両者の根源的一致から導出される。

このことは、思考を行為と見なす時なおのこと明らかである。同じ思考を通して、対象と概念とが直接的に一つの存在である−その他の場合両者は分離している−ということが、思考を通して定立される。そして、この行為が理解され得るのは、ただそこにおいて両要因が一つであるところのより高次の領域、すなわち絶対者によってである。

すべての表象において、概念は私たちの中に形式的要素を産出する。そして、対象は私たちの外に有機的な要素を産出するが、それは先ずは、概念自体に対して偶然的な何かを含むに過ぎない。したがって確実なことは、両者において同一なものは絶対者の中にあるということである。ただ一方は観念的な仕方で、他方は実在的な仕方によってであるが。また絶対者を通してのみ理解できる行為によって両者は正しく一致する。

このようにして知は理解可能になる。しかし、同様に現実的な無知、誤謬も、同じようにして理解されるに違いない。これは、叙述全体の形式的側面が、より多く現れ出る場合なおのこと起こり得るものである。

前もって言えるのはただこのことだけである。私たちの思考行為において概念は、存在者の中にもあり、その存在者は同時に客体的部分の性質に関わりあっており、そして、どの行為においても、すべての行為者が全く行為している。したがって、認識に関して行為が純粋に分離されていなければ、一緒に受入れられた異物が認識を曇らせるだろう。

[27]

付論と形式的部分へのつなぎ

私たちは今や実在的認識を構築することに着手するなら、私たちは実在的知の領域に、すなわち倫理的・自然的知の領域にいるのである。しかしながら両者をそこで演繹することはできない。なぜなら、差異は度外視しても、演繹は一般的哲学においてなされなければならないからである。したがって私たちは、それ(哲学)をそれと知らぬ間に何らかの仕方ですでに持っているのでなければならない。

もし人が概念と対象の間の対立を存在へ適用するなら、その分離は絶対的なものではあり得ず、相対的なものに過ぎない。なぜならそうでなければ、両者は全く絶対者によって定立されることになるから。したがって、そこにおいて概念が現れ出るような存在は、理念的存在であるし、そこにおいて客体が現れ出るような存在は実在的存在である。(両者を純粋な精神、純粋な物質として全くの分離において定立することは、神話的に過ぎない。)世界のイデーにおいて両者は下位の二次的統一に結び付けられる。自然的知と倫理的知という二つの対立的な知は、学問のイデーにおいて一つに結ばれる。

世界のイデーは、端的に(schlecthhin)統一として捉えられるが、また複数の特殊に相対的な統一の全体性としても捉えられる。両者とも真である。後者は所与のものであり、前者は思考の必然である。

したがって、世界のイデーは私たちの知の限界をも規定する。私たちは大地に結び付けられている。思考のすべての操作、私たちの概念形成の全体系さえも、そこに基礎付けられねばならない。

28]

続き

世界の観念は、絶対者からの本来的演繹であるべきではなく、両者(絶対者と世界)がどの程度異なり、どの程度同一であるかという両者の関係を表現するだけである。その叙述には、あたかも有限的存在は、神からの背反であるかのような、倒錯と矛盾がある。両者の間には永遠に常に変わらない関係が相互に存在するからである。

世界の観念については、私たちは常に形式的要素しか持たないが、本質的にそれは演繹の過程から出てくる。実在的要素は、同様に、本質的に帰納の過程から出てくる。後者は、ただ漸進的に完成へと向かうことしかできない。したがって両者は、同時に存在することはなく、したがって、それゆえに両者の不一致、すなわち誤謬が生じる可能性もある。

実在的知はすべて、世界の要素に関係しなければならず、したがって、そこにおいても再び概念と対象との同一性があるようなひとつの存在に関係しなければならない。この概念は理性的存在から、減少していく要因として現れるが、決して完全に消滅してしまうことはない。死んだように私たちに思われるものは、単により高次の領域に受入れられただけに違いなく、それでそれ自体では思考され得ないのである。

自らの下に、そして自らの内に対立の充満を抱えているような同一性の形式の下に絶対者があるのと同じように、世界とそこにある全ては、対立の形式の下にある。したがって、方法の第一の否定的基準は、いかなる対立も絶対的ではなく、相対的なものに過ぎないということである。絶対的対立を孤立させるような思考は、現実的なものを何も表象しない。

形式についての研究は、すべて実在的知と関係しているゆえに、人は、演繹の過程からもっぱら現れるものと、帰納の過程から現れるものとの共存のみを見るに違いない。後者(有機的機能の結果)は、個、特殊の表象から生じる。それはどんな場合も量であり、空間と時間の制約の下にある。したがってこのことについてもう少し言及されねばならない。

 

付論:空間と時間[28]-[29]

第一に、否定的な意味で次のように言ってはならない。個々の表象のみが時空間の下にあるのだと。なぜなら、最も普遍的なものもまた有機的機能に関わりを持っているのだから。また時空間は、私たちの感性にのみ関係していると言ってもならない。なぜなら有機的機能の結果は、感性と物との共存の結果だからである。

29]空間と時間についての続き

一般的な物も空間の形式の下にある。生きた力がどのように地上に広まっていったかという仕方や、その力が個を産出した尺度などは、空間的な関係である。同様に、それらは時間的関係も持っている。産出する力の不均衡や、その様々な機能の等しくない関係は、時間の中にある。

空間と時間は、知についての私たちの主要見解から生ずる私たちの表象のみならず、物自体の存在のあり方である。なぜなら、実在的知はすべて同時に量的なものだからである。両者の形式は、したがって表象の中にも、物の中にも存在する。二つの内いずれがそれかという問は空虚である。

空間は、それ自体で何か存在するものなのかという問いは、たとえ隠れた形ではあっても、空虚な空間という表象に基づくものである。しかし、空虚な空間などは存在しない。空間は物質で満たされていなくとも、行動で満たされているからである。

対立の形式下にあるものはすべて時空間の下にもある。分割された相対的存在と共に、時空間も同時に定立されている。空間は存在が離れ離れになっていることであり、時間は行為が離れ離れになっていることである。内的空間、または心を占める空間は、存在の統一性における物の多様性をあらわしている。心を占める空間はいずれも内的対立を表わしており、魂と肉体のように、この対立がなくなるようなところでは、空間の関係はない。隙間はすべて外的対立を表わしている。世界一般においてのように、この対立がなくなるところ、そこには隙間もまた存在しない。行動は空間を無にする。二つの動因(行為者)は、直接的に現在する。それによって他の行動から自らを区別するところの行動の外的対立は、心を占める時間によって特徴付けられる。それによって行動が自己自身において作用と反作用に分解するところの内的対立は、合間によって特徴付けられる。

時間と空間の意義についての以上の直観(見通し、展望)は、この場所にのみ属する。これ以上はすべて物理学か数学で扱われる。

 

付論:通常の論理学について

30]

一般の論理学について、特にA.G.バウムガルテンの論理学を省みて

私たちの課題、すなわち、思考が知になるようにその都度思考を構築すること、そして、所与の思考がいかに知のイデーに近づくかをその都度知るということは、従来論理学によって解かれるべき課題であった。したがって今一度この論理学の不十分さを吟味しなければならない。

三つの基本的な章―それらは移行の規則を与えないゆえ十分ではないが―は除くとしても、発見的方法論Heuristikが問題になっているが、それは経験的方法と先験的方法とに分割されている。しかし孤立させては何も見出すことはできない。また先験的方法は、経験的方法に戻っていく。なぜならその公理は定義に基づいているからである。

定義は要となる点である。というのは、それが概念形成と命題形成との橋渡しをするからである。実在的定義と唯名的定義とがジャンルのようなものと見なされているのは大きな過ちである。というのは、前者のみが学問の要素としての知を構築するのであり、後者は偶然的で断片的なものを構築するに過ぎない。両者を等しく扱っていることは、この論理学が構築を目指さず、単に断片的なものを目指しているに過ぎないことを示している。第二の大きな過ちは、この論理学が、形式にしたがって命題形成にすべての価値を置き、発見的方法論は排他的にそれに従事している点である。しかし命題形成はすべて公理に基づいており、公理は同一的命題によって定義から形成される。したがって発見はすべて定義の中に、よってまた概念形成の中にあることになるが、論理学は、そこへの手引きを提供してくれない。

学問の歴史は、概念形成についていかに今日に至るまで無理解かを確証している。考察の対象となる分野は常に拡大しているが、体系の方は次々と現れては消えているからである。すべての時代が、論理学の貧困を自覚した少数の時代に至るまで、その創立者であるアリストテレスの性格を帯びている。

 

形式的部分[31]-[49]

[31]-[33]

[31]

2部(形式的・技術的部分)についての序

これまで見出されたことを次の二つに応用しなければならない。

1.概念形成

2.判断形成

注釈:論理学がすべてを演繹によって引き出そうとすることにより、役立たない三段論法以外に移行のための規則を与えないことは、論理学における過ちであった。私たちは知そのものの直観以外、他の形式的原理を持っていない。個々のものはすべてこの直観を自らの内に持っている限り、私たちにとって真である。これまで私たちは、この直観から絶対者へと昇って行った。そして今や、この直観によって個へと下っていく。両者の結合については、ただ付論においてのみ語られる(注)

(注):帰納によって見出されたものと構築によって見出されたものとの結合が、本来は体系的に扱われねばならない。むろん、これは本質的に包括の過程である。― その場合構築自体も結合である。そこで次の問いによって扱うことが可能である。どのような対立によって部分に切り分けられるのか、また互いに受け入れ合うのか?

(これに対する英訳者Ticeの注釈、p.49)

「既に1814/15年の講義において、シュライアマハーは、結合についてのセクションを、さらに二つのサブセクション『発見的手順』と『知識体系の手順』に分けている。この編成は、1811年の講義では、注釈において簡単に提起され、1814/15年の講義からより詳しく扱われることになった。シュライアマハーが上の注釈で示唆していることの優れた実例は『キリスト教信仰論』の編成に見出される。他と同様に、ここでいわれている直観は、感覚的直観とは区別されて使われている。(注28、p.18を見よ)」

区分に入る前に、二つの形式に共通なもので、生成する知としての知の直観に基づくものがある。この直観を、私たちはここでさらに追求しなければならない。

思考とは、それが完全な知でないとしたら何であろうか?

そのような思考行為には、意識的に知の性格が欠如している。その場合、その行為は、思考する者が客観的方向性を持っているなら、不完全な行為であり、まだ知ではない。それが完全であるなら、思考する者は客観的方向性を持たず、その思考行為は純粋な幻想に過ぎない。

または、そのような思考行為に無意識の内に知の性格が欠如しているならば、その場合それは誤謬である。

または、そのような思考行為が無意識の内に知の性格を有していれば、それは正しい意見であり、そこにおいて両者(思考と存在)は、個における全体の直観なしに、本能的な仕方で一致しているのである。

したがって私たちは、誤謬の構築を目指すことによって、私たちが個において常に絶対者を持つかどうかをどのように吟味すべきか、また、どのようにして私たちは全過程において誤謬から身を守るかを学ばねばならない。

したがって私たちは、先ず一般的なことにおいて誤謬を捉えることを学ばねばならない。

空想における独自性の原理の新たな取り違え。個的必然性によって出発点が定立されるが、しかし、それは普遍的なものに還元されるべきである。

[32]

思考の二つの機能(形式的と有機的)は、互いに独立したものとして定立されねばならない。根源的に一つである思考行為が、二つの側面に分割されるというのではなく、各個の思考行為すべてが、両機能の統一であるに過ぎない。それぞれの機能は、絶え間なく多方面の活動の中にあり、個々の思考行為は、この多方面の活動からのみ生起し、この二面的生起から生じる。私たちは知覚することよりも、感覚においてはるかに多くのものを常に持っている。そしてまた概念を作ることよりも理性において常により多くのものを持っている。

誤謬は次のことを通して可能となる。すなわち、私たちの中で、両要素間に必然的な絆が存在しないことによってである。統一の瞬間には、思考の二つの機能が互いに他に対応するという保証は何もない。この保証は、知の体系全体から初めて形成される。したがって知は誤謬から生じるということができる。

判断の根源的形式は、個々の行為から一つの概念を固定化することである。(そして、その逆は?)

[33]

概念と判断と、いずれから先ず始めるべきかという問題が生じる。

歴史的に扱うなら判断から取り組まねばならないだろう。なぜなら、子供の意識においては、物よりも行動が先に定立されることは明らかだからである。子供は自らを物に対置する場合、同時に自らを個として定立しなければならないが、しかし、そうした個の定立は主客未分化の状態から徐々に現れてくるものである。したがってそうした状態が先行しなければならない。

言語もこれを確証している。非人称動詞が、人称動詞―これは主語としての概念を前提としている―より以前のものであることは、明白だった。ヘブライ語における三人称の文法的優位は、それが最初は非人称動詞であり、そこに人格性が付加されたということを示唆している。そして私たちもまた、対象が、私たちから完全に分離していない場合には、同じ程度に非人称動詞を必要とする。したがって、実在的知の構築が問題となるようなところではどこでも、存在する概念形成を脇へ置いておき、すべてを独立的に行動の観点(判断)から見るということは、非常に有益な過程でもある。

しかし、ここにおいては形式的なものの構築が一層重要であるので、他の見解が先行しなければならない。すなわち、判断は、その完全な形式においては、二つの概念の綜合を叙述するものであり、したがって、概念が本質的なものとして先行しなければならないという見解である。

概念形成[33]-[45]

概念形成への序

名詞が概念を表わすのと同様に、動詞も概念を表す。それ(動詞)は概念の勢位の下に定立された行為である。なぜなら、動詞は、自らの中に、すべての概念の本質を形作るものと同一の、普遍と特殊の同一性を持っているからである。個々の行為もまた、さらに広く広がった普遍的機能の表現に過ぎない。したがって概念には二つの種別がある。一つは、その性質上主語であり、ただ間接的な仕方によってのみ述語になり得るもの(すなわち名詞)、もう一つは、その性質上述語であり、間接的にのみ主語になり得るもの(すなわち動詞)である。

他ならぬ普遍と特殊との同一性ゆえに、いつか概念形成が完全な知へ完成することはないということが両者について一般に妥当する。絶対者の下にある概念はすべて、同時に、特殊という型を持っている。なぜなら概念が、実在として現れるのは、単に構築からだけではないからである。この特殊は、存在に純粋に与えられたものではあるが、思考に純粋に現れたものではない。普遍は、思考において完全に与えられたものだが、存在においては純粋に提示されていない。したがって両者は漸近線であり、ただ必然的な補遺としての絶対者に対する関係を通してのみ、それらの同一性を実現できる。したがって、概念の各要素がどこに由来するのかを知ること、そして両方の在り方を互いに一層作り上げていくことは必然的である。そのようにしてのみ、私たちは、私たちの概念において何が知であり、何が知でないかを区別することができる。

 

[34]概念の二つの種別の特徴付け

1.行動を表現している概念において、量的なものが前面に出てくる。それはプラトンが多や少を許容すると語っている概念である。(名詞的な形式においては、このことは純粋な動詞においてほどには目立たない。小さい、大きい、小ささ、大きさといったプラトンが引いているような比較形容詞や名詞においては、これは最も認められない。しかし、それらも行動であることは容易に示すことができる。)直接的名詞においては、量的特徴は後退し、自己規定的なもの、度合いで扱えないものが前面に出る。ある愛は、他の愛よりも一層多く愛するということがある。しかし、馬はそれが大きかったとしても、他の馬より一層多く馬であるということはない。

2.存在を表す概念においては、一定の数多性による従属の過程が、多くの段階を経て個々のものにまで進行する。行動を表現するその多くの段階においては、従属は後退し、不特定の数多性の形式の下で横並びの関係が前面に出る。前者が当然であるのは、存在はすべて導き出された統一であり、それは再びある特定の対立の輪の中へ分解していくものだからである。後者が当然であるのは、行動はすべて、他の対象と主語機能の共存であり、そのような共存がすべて特別な種を形作るわけではないからである。

[35]特徴付けへの補遺

1.に対して。この対立は相対的なものに過ぎない。不特定な数多性が入ってくる存在の側の終点においては、人はもはや個々のものをそれ自体において必然的で規定されたものと見なすことはできない。そうではなく、個々のもの同士の差異が、生産力の状態として、時間と場所に規定され限定されて現れるに過ぎず、そして、多い、少ないとして現れる。人間についてのみ人は、個性の主張をなす。すなわち、個人は、人間の観念を一貫して自らの下に類似するよう修正したものだというのである。

しかしながら、同じことは行動の側でも言えるのであり、もし人が行動を、細かい規定は一切無視して、その主語において観察するなら、それは必然的な機能として現れる。そして、この見方においても、多い、少ないといったことは消滅してしまう。(個々の行動はどれもまだ多い、少ないを持っている。というのは、それが増加、減少を持っているからである。同様なことは、個々の物すべてにおいても生じる。ただ本質に触れることはより少ないが。この側面からも相対的である。)

2.に対して。この対立も同様に相対的である。特定の数多性と不特定の数多性の型の間の移行は、存在の側で、変わる力(Varietaet)の中間概念を通して起こる。この中間概念は、両方の要素を持ち、したがって、そこでは対立は止揚されるからである。これに対して、存在の不完全な段階においては、そのジャンル化(Gattirung)も混乱し、徐々の移行として現れる。(本来の相違は次のこと、すなわち、種が列を形成するとしても、それは決して他の種への移行として見られるべきではないということである。)

結論。かくして次の二つの基準が結果する。1)何かを多い、少ないという観点から観ることと、それを行動として観ることは一つである。また存在として見ることは固定化された物として見るということである。2)不定の数多性の形式の下でのみ見られ、したがってジャンル化され得ないものは、行動と見なされるべきである。同様に、ある特定の数多性にもたらされ得るものは固定化された存在と見なされねばならない。学問の取り扱いに対してここから流れ出る結論への暗示。

[36]帰納による概念形成

帰納がより以前に現れたのは明らかである。構築が意識された時には、それは、既にすべてが帰納によってなされたのを見出すだろう。

しかし、この二つの操作(帰納と構築)は、決して完全に分離されることはない。概念についての知はすべて、二つの操作の同一性であるのと同様、いずれの操作もその活動のすべてのモメントにおいて、他の操作と一つになることにおいて把握される。

帰納は二つのモメントに分かれる。第一のモメントは、普遍的固まりMasseから、一つの対象を統一として分離することである。これは普遍的固まりの一部がそこに結びついているところの一つの行動に基づくことのみが可能である。最初の指針は、色と運動である。その一方は、常に他方の保証となっている。子供の意識においてはそうであるし、私たちにおいても見知らぬ対象や広すぎる視野の下に置かれた場合などそうである。ここには本来与えられるべき規則などはない。すべて無意識である。対象が概念の体系の一要素を模写する時、それは正しく形成される。この体系は生得的なものである。すなわち、実在的側面との一致を通して意識にもたらされるために、それは私たちに一つの活動として備わっている。この種の最初の一致の在り方を記憶と呼ぶことができる。

概念は、第二のモメントによって初めて形成される。さしあたっての問題は、両者のいずれにおいて誤謬は始まるのかということである。感覚自体は理性自体と同じく欺くということはほとんどない。しかし、このこと自体は決して経験的な点ではない。誤謬は双方のモメントの共存するところにあり、経験的な点はすべてそうである。したがって、すべてそのような点において、そしてまた対象の一時的な定立においても既に誤謬があり得る。人はこの統一を小さくし過ぎたり、大きくし過ぎたりする。したがって、この統一は暫定的に定立されるに過ぎない。 

[37]

個々の存在が混乱した固まりから取り出されるように、個々の行動は混乱した一般的生から取り出される。

物の定立は行動の知覚に基づくように、行動の定立は物の知覚に基づく。したがって両者は同時に、相互的に生じる。行動の定立もまた二つの要素に基づく。空間が表現され、結果が表現される。物の定立の場合と同一だが、ただ反対の関係である。

小から大まで、すべてに対して一つの混乱した固まりが存在するように、小から大まで一般的生が存在し、そこから個々の行動が先ず分離される。その結果、その過程は常に継続する。

誤謬はただ次のような場合に起こり得る。すなわち、前提とされた行動に対して対象が、あるいは、前提とされた対象に対して行動が大きすぎるか、小さすぎるかという場合である。この過程は、最初の暫定的な過程なので、そこにおいてはそれによってこの過程が正しいとされ得るようなものは何もない。そのような正当化は、ただこの過程の継続によってのみ可能であり、そこから現れる基準は、そのように定立されたものを単に暫定的に定立するということで、それがあらゆる側から対象や行動の統一として確証されるまで、そうするということである。

そのようなモメントに真理があるなら、そこには存在と行為との同一性がある。(なぜなら一方は他方を通してのみ生じるのだから。)また帰納と構築との同一性もある。なぜなら、この統一は固まりの全体性に対置されるからであり、したがって自らの中に対立の形式を持つからである。

第一のモメントから第二のモメントへの移行は、第一のモメントの数多性を前提としている。しかし私たちは、第一のモメントの操作も単に同時的な数多性としてのみ考えることができる。

[38]帰納についての続き

第一のモメントは、個々の経験的意識という観点から、より多く観察される。しかし、思考はすぐに知になることを欲するので、それはまた多くのものにおいて同一なものにもなろうと欲する。第一のモメントは、したがって、伝達を求める。真の統一はまだ見出されていない。見出されたのは、相互依存の関係にある存在と行為であり、それによって、すべては再び二重の知覚に基づくことになる。したがって特徴の多様性は、多くの時点に定立されたものの継続的観察によって増大する。しかし、この多様性は集合体としてのみ現れる。それは名目的定義となり、その必要性はここから明らかにされるが、しかしまたどうしてそれが実在的なものと並ぶ種としては不可能であり、ただその準備として登場できるのみなのかも明らかにされる。

私たちが、第二のモメントを大局的に、先ずすべての人における知の同一性という観点から概観するならば、歴史的に生じたものは、先の特徴とことごとく相容れないように思われる。厳密に見れば、ある言語の語彙は、他の言語の語彙と決して対応していない。少なくとも多くの地域で対応していないことは明らかである。また一つの同一言語の地域でも、時代と共に概念は変化する。その結果、一つの単語が様々な意味の列を通ることになる。

先ず共存している差異は誤謬ではなく、相対化された知である。民族的理性の、人間的理性に対する関係は、人間的理性の、普遍的理性に対する関係に等しい。どの民族的理性も、それ自身が描写するものを持っており、その他のものすべてをそれとの関係で持っている。丁度人間というものがすべてを地との関係で所有しているのと同じように。

(最初の課題は、すべての独自な領域が、それによって自らの内にある絶対者を捉える性格を見出すこと。)

[39]

非合理性は単に民族を目指すのみでなく、より小さな共同体を、しかし、最後には個々の人間を目指す。ただ領域が狭くなればなるほど、それは一層 強力な部分によって(a parte potiori)に共同的になり、また独自なものは少なくなる。*

*「独自なものは結合に過ぎず、概念はすべての人に等しく与えられた」などと人はいうことはできない。なぜなら概念によって結合も決定されるのであれば、ある人は概念を作り、他の人は結合を作るということは、表面的な差異に過ぎなくなってしまうから。人が自らを定立するにつれて、次のように言うことができる。「独自なもの、相対的なものは、有機的機能においてのみ、あるいは理性においてのみ基礎付けられる」と。というのは、すなわち、理性はただ有機的機能によってのみ有限者において実在的になり得るし、有機的機能はただ理性によってのみ現実的思考を産出できるからである。

個々の異質なものを自分のものにすることはできない。しかし、私はそれを見知らぬ概念形成によって後から構築すべきである。

私たちの知は、したがって二つの要素からなっている。すなわち存在と思考の同一性を構築する純粋な知と、個々の概念形成の原理を構築する批判的知である。

この二重性の中にのみ、知は、すべての人において同一な思考であるという命題の成就がある。

しかしながら、すべての人において同一な思考のみが知である。では、この矛盾がいかにして解かれるのだろうか。二重の手順がある。第一の手順は、すべて異なるものを切り離す。そして純粋に同一のものだけを残す。そうすると最後には絶対者のみが残る。第二の手順は、すべてを一緒にまとめ、それから非合理性を批判によって取り除く。すなわち、独自性の原理を独自な存在を伴うものとして理解しようと努めることによって、思考の間接的共同を可能にする。両者は孤立されたら無である。絶対者はこの実在的知の全体性なしには無であるし、後者も前者なしには無である。絶対者の同一性は、実在的知の全体性を仲介しなければならないし、後者(実在的知)の実在性は、前者(絶対者)の観念性を満たさねばならない。

もし相対的知が誤謬でなければ、それは誤謬の発見を困難にする。すなわち、私が個性の原理を理解しない限り、不調和に過ぎない思考が、そのような(相対的な)思考であるのか、それとも誤謬であるのかは、不確かなままである。不確実な事柄においては、人は単に次のような二重の仮定から出発できるに過ぎない。1)私は、はっきりと個的原理を持っていないものすべてを誤謬と見なすことができる。2)私は、思考の絶対的規則に反しないものはすべて真と見なさねばならない。

[40]

批判的なものは、したがって知の根源的要素である。なぜなら、それは概念形成の最も早い形式において既に不可欠なものだからである。** しかし実在的知は、それゆえに決して完全には実現されることのない知である。なぜなら、もし独自なものの原理が、独自な存在として―その個々の行動は表象である―認められるべきなら*** これはただ帰納と構築****の同一性によってのみ生起することができるからであり、したがって後からのもの(機能と構築の同一性)は、既に前からのもの(独自なものの原理の認識)において前提とされているからである。実在的知は、反論の余地のない仕方で証明されることも決してない。というのは、人が本当に同種のものを作成したかどうかは、結果によって初めて確証可能だからである。

**なぜなら個々のすべての人において、既に他の個々人によって用いられた概念形成の原理が作用しているからである。

***課題は、所与のいくつかの行動から、それらの出所である本来の力を見出すことである。

****すなわち人が統一を予感するなら、普遍的なものとしてのそれを、特殊な部分に分解しなければならない。そして、この部分が、その後、帰納の様々なモメントと合致するなら確実性が成立する。

誤謬の排除もまたここからだけではなく、他の点からも始められねばならない。

どの行動においても物はまったく活動的で、ただ個々の機能のみが現われ出てくる。思考においては、理性とは別に、さらに有機的な機能が現われ出る。この機能は二つの側面を持っている。すなわち、対象を規定するための客観的側面と、状態を規定するための主観的側面である。状態も組み立てられ、一つの概念の下にもたらされることが可能である。主観的側面が後退すべき場所で、それが現われ出てしまうなら、誤謬が生じるに違いない。個々の物の編成において、生得的概念体系は無意識の内に活動しなければならない。そして、それと共に有機的機能の客観的側面は作用する。この代わりに主観的側面が編成されるなら、物はその存在によってではなく、ただ表象するものに対する関係によって組み立てられてしまう。この人格性(主観性)の出現が罪である。したがって誤謬は罪から生じる。倫理的側面において人間はただ徐々に罪から徳へと移行するが、同様に、理論的側面においても、ただ徐々に誤謬から認識へと移行する。

[41]

(第一の基準…Ticeの注)

この誤謬は絶対的ではない。また感覚に表象された関係も真なるものに導くこともある。しかしそれは、その集合によって物の本質が認識されるようなものではない。

帰納の過程におけるより高次の段階はどれも、それ自体としては、最も低次の段階と類似したものである。しかし、それらの結びつきの中には正しいものもあれば、正しくないものもある。中間の段階は飛び越えることが可能である。それによって、より高次の概念は空虚になる。なぜならそれら(より高次の概念)は、従属する循環の生き生きとした直観を自らの内に持っていないからである。これは帰納を孤立させることから生じる。人は実在的でない中間段階に定住することができる。これは最初の誤謬と同じである。この飛び越えの中に規則性があり、それは続く努力によって満たされるのであれば、知の図式がこの過程の中に存在する。* しかし、均一性が欠如しているところでは、この過程は図式を含んでいない。この均一性の欠如は、ただ混入した主観性からのみ生じることが可能である。

*もし神の概念が、あまりに性急に帰納によって形成されるなら、そこに生じるのは、空虚なもっとも一般的存在という概念だけである。人が常に(帰納と―Tice)構築との同一性に留まり、そして対立するものへ至ったならば、この概念はよくなるだろう

飛び越えは上への努力から生じる。なぜなら人は、どの概念も、ただ全系列の同一性においてのみ固定することが可能だからである。これに対して第二の基準は補助的手段である。すなわち、人は帰納を常に構築と一つになることにおいて保持しようと努めねばならない。つまり、人は一つの種を求めることにより、少なくともそれと隣り合わせにあるものをも予測し、それらの間に見出される一致において対立を求める。その構成要素として、その種は構築から見出されたかのように。かくして帰納は、後の構築の過程の実質的準備となる。

[42]帰納への補遺

1.系統的(successive)差異。概念の再編が必要なのは次のような場合、すなわち個々の領域間により多くの関連が生じている場合*、また人が対立を一層獲得していく場合である。これも誤謬というわけではない。

事例a.神話的時代の人格化、正しい本能は、生の観念を見逃さないが、まだ様々な形式は持っていない。

事例b.自然の記述には、人が十分な知識を持っていない時には、まったく異なった分類がなされる。

*各存在の理解は、その存在の特殊性と他のすべての存在に対する関係において条件付けられている状態によって作られる。

2.自然的概念体系と人工的なそれとの間にある相違。前者は持続的だが不完全であり、後者は完全だが一時的なものに過ぎない。一つの機能から出るに過ぎず、生きた諸力による自然の変化には対応しない。

3.第一の基準に対する補遺。誤謬は絶対的なものではなく、誤った系列に入ることによって初めて生じるのだから、人はそれ(基準)を次のように言い表すことができる。人は常に、自分は存在を求めているのか、それとも行為を求めているのかを意識し続け、両者を決して混同しないと。

4.上昇点は至る所で数的に等しくなければならないか? この問いにはいかに至る所に特定のあるいは不特定の数多性が一緒に存在しているかに目を向けるなら、答えることができない。

厳格な特定化が支配的なところでは、上昇点も数が多い。遊戯の過程が支配的なところでは、類型化もあまり起こらない。

5.第二の基準に対する補遺。ここにも飛び越えの傾向に対する手助けがある。もし人が、類似したものは特定の形式から受け取るのであって、一般的な形式からではないという格率を認めるなら、人が自分の前に非常に多量の個々のものを持つ時、それらの一般的類似性は当然のことながらすぐに叙述されるのだが、しかし、人はこの一般的類似性から、より特定された類似性に逆戻りするだろう。多数の個々の物においては、この点からして同様に差異が見出される。それを人は少なくとも、より高次の統一から理解されるべき対立として自らに課する。このようにして演繹の形式は、帰納の過程において同様に一緒に含まれるのであり、人は真の知の構築にたずさわるのである。

[43]帰納の結論

以上に述べられた基準は、機械的に用いられてはならない。この基準によって、人は犯された誤謬を認めることはできても、もし内的原理―二つの基準は、この原理の表現なのだが―を欠いていれば、誤謬を避けることはできない。それゆえ哲学することは技法(Kunst)である。なぜなら、規則の適用は再び規則の下にもたらすことはできないからである。その適用は心情Gesinnungと才能Talentの下にある。

誤謬は心情の明晰さと合法性によって避けられるが、そのような心情は、感覚的なものを客観的関心の背後に退かせる。(中間段階を―Tice)飛び越えることは** 実在的なものに対する愛によって避けることができる。その愛は、見出された対象から離れることを最小限にしようと欲し、したがって上昇においても、できる限りそこからはなれない。この愛は当然特定の領域のみを目指すことが可能であり、本来的に学問的才能である。*** この愛がなければ、私たちは単なる空虚な思弁を持つに過ぎない。

**この飛び越えにおいても自己愛が根本にある。それは絶対者の認識を所有したものが、他のすべてのものの上に立つことのできるより高次の地点に、できる限り速く昇ろうとする。

***この才能は当然ながら、諸対象の内のある一定のサークルだけを目指すことができる。したがって、ここから知ることが可能なものの現実的な分配が生じる。

帰納の過程が以上のように導かれるなら、それは、演繹が始まるところで終わらねばならない。この点が生きているものの全体性であるので、人は何よりも、この生きているものの領域から外へ出てはならない。これが達せられるのは、すべて一般的なものが、再び特殊として見なされる時であり、その特殊は、並列させられたものなしには存続することができず、それと一緒に同時に生き生きと、より高次の段階に受け入れられる。(例えば、獣から生きとし生けるもの、そして天体に至る個体の上昇) この手順は、常に普遍と特殊の同一性という概念の性質自体に基礎付けられている。

 

演繹による概念形成について

帰納が第一のものであればあるほど、それがなければ演繹は、ほとんど存在しなくなってしまう。ただ分けて観察するのは、演繹もまた有力な要素として現れるからである。

演繹の出発点として、絶対者についての暗い意識が、混沌とした知覚に対して、ただ傾向性の形式の下にある。その傾向性は、他ならぬこの(演繹の)過程を通して実現されるべきであり、また無規定な意識から規定された意識への移行によってなされる。混沌とした知覚は、私たちを駆り立てて、この絶対者についての無規定な意識を追跡しようとさせる(帰納の過程)。同様に、絶対者についての無規定な意識は、私たちを駆り立てて混沌とした知覚を発展しようとさせる(演繹の過程)。こうしてすべての知は、両方の過程に規定されており、また各過程はお互いに他の過程によって規定されている。理性がなければ、すべての有機的体系にもかかわらず、物質的知は存在しないし、有機的体系がなければ、すべての理性にもかかわらず、形式的知は存在しない。

演繹が、帰納の後に始まるような形で、両方の過程の間に差を定立するなら、演繹は統一から出ることによって、すなわち対立を形成することによって、帰納が多様なものからの分離によって見出したものを、発見しようと欲していることになる。このようにして対立の形式は個々のものにまで下っていく。絶対者についての暗い観念と、混沌とした多様性は、互いに緊密な関係にあるが、それは、完全な絶対者の観念と実在的知の全体性との間の緊密な関係と同じである。

演繹の過程も二つのモメントに分けることができる。分割の根拠が見出されねばならない(第一のモメント)。また存在の概念が構築されねばならないが、それは、そこに存する対立に対応するものであり、それは再び統一として定立されることが可能であり、その統一において対立が発見されるべきである(第二のモメント)。かくして同一性の領域もまた同様にして発見されねばならない。

[44]

演繹の続き

この二つのモメントは、帰納の場合と同様に、お互いを分離することはできない。対立の原理(分割の根拠)は、存在の分割が同時に定立されることによる以外に、確実に定立されることはできない。そして分割の根拠(対立の原理)を同時に伴うことなしには、分割された存在を考えることはできない。

全過程が、最初の出発点によって最もよく観察されるべきである。絶対者のイデーが最初の構成要素である。この中に私たちは、存在と行為、観念的なものと現実的なものという分割の根拠を見出す。これらの相対的合一または世界が、第二の構成要素である。前者(絶対者)は統一であり、必然的なもの、所与でないものである。後者(世界)は、数多性であり、条件付けられるもの、与えられるべきものである。これらの性格は、あらゆる段階で繰り返される。第一の構成要素(絶対者)を除くすべての構成要素は、これらの性格(統一性と数多性)の同一性である。なぜなら絶対者は、最初で最後の構成要素だからである。第一の構成要素として絶対者の観念は、次のことを通してこれらの性格の同一性を補う。すなわち、特殊の全体性が再び絶対者と一致することによって。

次のような問題が生じる。もし私たちが帰納によって知ったものを、その方が時間的に先なのにもかかわらず、無視するとしたら、―相対的な対立の一方の面自体を見る時には、そうせざるを得ないのだが―、その場合どのようにして私たちは、分割の根拠を見出すのだろうか? 私たちは絶対者の観念をこの段階においては、そこにおいて対立が止揚されたという意識を伴った同一性の充満として所有していない。そうではなく、枠組みとして、規制原理として持っている。(発端において咎められた不条理に対して、人は、そこにおいてその不条理が基礎付けられるモメントが存在するのを見る。しかし、一方で、絶対者の観念が私たちにおいて生を持たないならば、―その生は、絶対者の永遠の実在性の一部に過ぎないのだが―、規制的原理ではなく、また他方、これ(絶対者の生)が知に先行する点であり、知において、あるいは知を通して定立されることのない点である。)もし私たちが、絶対者の観念をただそのように持ち、帰納のすべての結果についてまったく空虚にしか考えないなら、私たちは、それによって対立を形成できるようなものを何も持っていないように思われる。(したがって、絶対者から出発する哲学は、無の哲学だという主張がなされる。)しかし、私たちは正に対立の形式の下にいるので、この絶対者の観念を規制的原理として私たちの中に持つのである。そして、すべての有限な意識は、存在と行為、観念と実在によって規定されており、私たちもまた絶対者と私たちとの間に相対的な同一性を定立しなければならないので、有限で実在的な意識の図式が私たちにとって自然な分割根拠となるのである。(この絶対者の観念と、私たちの中にある対立の形式の根源的同一性は、この側面から私たちの本質を構成する。私たちは絶対者と単なる動物化の間に立っている。前者には対立の形式が欠如しているし、後者には絶対者の観念が欠如している。)絶対者の観念は、理想的な思考の根源であり、対立の形式は、構築の側からの実在的な思考の根源である。この両者の対立は、すべての段階へ再び帰って行く。より高次の段階は存在として現われ、より低次の段階は行為として(より高次の生きた力の行動として)現れるが、しかし、より高次の要素として扱われることによって、再び存在として定立される。(同様に、より低次のものもまた圧倒的に実在的である。というのは、それは、より多く与えられているものだから。そして、その後、それは再び観念的な側から見られるようになる。)

[45]

演繹の続き

より高次の段階と、より低次の段階の区別は次のようにしてなされる。すなわち、前者においては、二個群Dyasが、―それが単純なものであれ、複雑なものであれ―、支配的だということである。より深く下がれば下がるほど、その次に下位にあるものは、―人がそれを既に与えられたものと見なすなら―、漠然とした数多性として現れるので、結果として、統一において分割の根拠は見出されない。このことはしかし、演繹の過程が終点に達したとか、純粋な学問はこれ以上先へは進まないとかいうことを証明するものではない。むしろこれは、存在としての観察から行為としての観察への移行であり得るに過ぎない。後者にとって、分割の根拠として必要なのは、より高次の統一において定立された変化する量の多い少ないであり、それは、その高次の統一と結びついた対立の中に既にある。行動の他の要素の助けによって、確定された点は自らを形成するが、それらの諸点は、その最も近くの従属点の領域を作り出す。このような方法によって以外に、例えば、獣の綱(Klassen)やジャンル(Gattungen)が、動物化のイデーから構築されることはあり得ない。

この過程の経過において行為として見出したものを再び存在として見なすということは正当化される。なぜなら対立は相対的なものに過ぎないからである。この転換に対して開かれた態度でないということが、自然科学における多くの失敗の誘因であった。人は帰納によって見出された結果を眼前に持ち、今度はそれを演繹によっても捉えるために、恣意的に進んでいく。しかし、演繹の過程においては、すべての歩みは完全に、演繹におけるそれ以前の歩みによって正当化されるのである。

すべての段階における構築と帰納との同一性は、次のことの中に存する。すなわち、帰納はその性質上、時間的により早いものであるゆえ、人は、一つの結果が演繹によって定立されるや否や、帰納によって見出された概念を求めるが、それは演繹によって定立された結果に確かに対応するものである。これがなされなければ人は先へ進めない。

対立の形成と、その対立に対応した存在の構築には、次の規則が妥当する。

1.)対立は、肯定的な面と否定的な面とを持ち合わせているように構築されることは許されない。その時には人は生の領域から出てしまい、相対的な合一は不可能である。これは空虚な抽象になる。

2.)一つの対立によってのみ規定されるような存在を定立することはできない。むしろ、そこにはすべて他の主要な対立の同一性がなければならない。このことは既に次のことから明らかである。すなわち、私たちは、根源的に二つの等しく互いに重要な対立を見出したのであるから。より深く下るほど、より多くの対立の同一性が、各々に存在しなければならない。間違った例としては、異なった存在と見なされた精神と物質の対立と、悪く構築された存在とかつての要素との対立。

注釈:もし人が至る所で演繹においても生きたものを目指すなら、したがって、対立の統一を目指すならば、すぐに漠然とした数多性に至る。― または私はこれを結合にまかせるのだろうか? そうしたら演繹は完全に抽象的になっただろう。むろん動物や植物、国家や教会へは、人は二分法によって至るのだが。

 

結合[46]-[49]

[46]結合への移行

もし概念形成の二つの過程が、両方の同一性において完成するならば、それらは直観の完全な体系を表現することになる。(なぜなら、それは生きた形式のみでなく、行動の概念をも含むからである。)しかし、それは硬直し固定化した存在としてであって、真に生き生きとした運動においてではない。結合の体系が包含するものは、直観の体系も包含していたものに他ならないが、流動的で活動的なものの形式の下でそれを包含する。その場合、結合は、その形式のみによる補遺であり、それは本来生き生きとしたものである。

しかし、先の二つの過程は決して完成することなく、常に生成の状態にあるので、結合の過程においても、包含の過程(概念形成)においてはまだ与えられなかったものが、物質的に現れることが可能である。判断は、当然のことながら、概念なしには生じない。しかし、直観には不適当な、不完全な概念、それはそれ自体としてただ次のこと、すなわち、何かが判断において主語あるいは述語として現れることが可能であるべきことを目指し、またそれは包含の過程においては何の価値も持たない概念だが、本来ここでその価値を発揮する。

二つの過程は、ただ相互的に生成することが可能であり、相互に規制し合っているので、各々はまたそれ自体としても考察されることができなければならない。

 

結合の過程について

帰納の未完成な存在は不当な諸概念の源泉である。そのような諸概念には、それに対応した存在の本質は存在せず、物の本質を個々の行動の集合体において叙述するのである。

演繹における不完全性は、不当な諸概念の源泉である。そのような諸概念においては、存在の本質は否定の集合体において叙述される(?)

判断は次のことに基づく。すなわち、意識が個の全体性と共存することによって、生が有限なものの中に、ある特定の意識行動を呼び起こすということである。

私たちは、混沌とした全体性から統一を分離するに先立って、行動を知覚している。したがって判断は概念に先行する。しかし、主語と述語とはすべての判断に概念として存在する。したがって概念は判断に先行する。

したがって漠然とした形式の下に思考された有限者の全体性が、根源的な主語である。もし主語の外部に根源的述語があるべきなら、それは、私たちの有機的機能の全体性に対する、上で述べたのと同一な有限者の全体性の作用でのみあり得る。ここでは主体と客体はまだ十分に分離しておらず、主語と述語も分離していない。(主語は、そこにおいて述語が全体性の部分に帰せられる様々な度合いを通して初めて規定されるべきである。)

本来的命題によって表現された完全な判断は、概念形成の過程が既に場所を獲得した限りにおいて、また統一が分離された限りにおいてのみ存在する。― 完全な判断は二重の判断である。単純に、事実がどの程度純粋に主語に関係させられているか。そして、この事実がどの程度二つの要素に還元されているかである。後者においては動詞がその原因を自分のもとに持っている。前者は完全だが、漠然としている。後者は完全で、明確である。前者はより一般的である。そこにはあらゆる行動が述語の形式と結びつく可能性がある。例えば、人間は思考するとか愛するとかである。そこには、思考することや愛することの全サイクルが、潜在的に存在している。

完全な判断の数多性を通して、人は、存在として行動の全体性を**定立するというところまで至る。

したがって再び絶対的判断へと至る。そこでは主語と述語は明確に分かれてはおらず、その背後には絶対者が潜んでいる。(この絶対的判断は同時に、原因と作用との内在的図式論であるのか? 内在と超越との間の揺れ。)無限的判断とは、主語と述語との形式的無差別である。なぜなら、そこでは存在と行為の対立が止揚されているからである。従って、同じことは概念の無差別においても起こる。

**そしてこれを同時に最高の領域として定立する。なぜなら、完全な判断は常に、より高次の領域を形成することを目指すから。

概念が判断の要素として成立している限り、すなわち、種々の判断からまとめあげられているような場合、そのような概念は抽象的である。それが概念形成の体系の中に生じさせられるや否や、抽象的であることはなくなる。

[47]

したがって、判断は、判断と概念との無差別において始まり、また終わる。(1)原初的な判断は最も低い判断であり、(2)絶対的判断は最も高い判断である。(3)単純な判断は原初的な判断に近く、構成された判断は絶対的判断に近い。したがって単純な判断から構成された判断への進歩において、全形式の傾向が最も明らかに認識される。すなわち、より大きな領域の形成である。個的な判断は概念において定立されると、それ自体で存在しながら、普遍的な判断によって止揚される。

単純な判断は、単に内的事実を叙述する判断として、あるいは第二の要素を未知のものとして定立する判断として、そのような状態と見なすことができる。後者の場合には、それは構成された判断に従属し、前者の場合には原初的な判断に従属する。なぜなら、その場合には、概念形成はまだ生成の状態にあるから。(というのは、もし概念形成が完成していれば、一般的で不完全な判断も、空虚な判断に過ぎないからである。)

したがって、単純な判断それ自体は、混乱した一般的なものから個を選び出すことを表し、概念形成へ通じている。構成された判断は共存を形成し、したがって特殊は普遍へと戻っていく。なぜなら共存においては、特殊な存在はいわば止揚されるからである。

したがって結合は、それが構成された判断を求め、それを通して無限なものに向かって努力するならば、普遍的生を目的とするものである。この拡大する傾向は、しかし、綜合判断においてのみ明らかとなる。

[48]判断の二つの独自な形式についてのより詳しい観察

a.不完全な判断。人はそれを、述語が伴うことによって主語が初めて規定される行為と見なさねばならない。なぜならこの判断は、述語の知覚から始まるからである。経験的誤謬は大部分、主語の誤った規定である。この過ちが正されるのは、存在に対応した知覚によるか、知の第二の性格によってである。この判断形式は、一部は主語の単なる改変と見なされ、一部は他動詞的と見なされ得る。その際には、しかし、第二の要素はXである。後者のみが真に綜合判断である。前者は、主語を記述するために主語の純粋な観察から判断形成が始まるような場合に一層多い。

b.完全な判断。行動として考察すると、1)第二の要素が知覚と共にしばしば定立される。その場合人は、第一のものとして主語を、―それは自らを直接認識のために与えはしなかった―、作ってはならない。これはあらゆる仮説が必要となることの源泉である。2)二つの要素が直接与えられ、その関係が不確か。この場合、しかし、本来まだ何も定立されていない。しかし人はしばしば性急にも定立されたと考える。3)第一の要素が根源的に定立される(それは多くは主語観察から始まるとしても)。

それ自体として見れば、どの完全で他動詞的判断においても、一方の要素の優勢が定立される。それに対する言語は二つの形式、すなわち能動と受動とがある。相対性はこの図式論の下には常に正確に適合するとは限らない。それ(相対性)は、すべての共存が等しいものでないというところに根拠を持つ。したがって課題は何よりも(主語と目的語の)持ち分を正しく規定することである。

[49]この持ち分を正しく規定するために最善の手段は、この行動を全領域の構成要素として定立することである。その全領域から、その構成要素は、より詳細に規定されねばならず、また、この領域と共にあってのみ完全に認識されるのである。例えば、植物の生長は大地や太陽と共存の関係にあり、可能な限り純粋な大地の行動と、可能な限り純粋な太陽の行動に隣接している。そして、この両者は、この関係の外にあることは決してない。これはあたかも概念形成への還元のようである。したがって、どの判断においても、判断と概念との無差別が存在する。

そもそも相対的なものの二重性がなければ、実在的な共存などは存在しない。したがって人は、ある特定の相対性を伴って定立するすべてのものについて、それを補足するものを求めなければならない。

現象は、一部はより多く主語を通して、すなわち個人の生において、また一部は、より多く主語に即して、すなわち普遍的生において基礎付けられる。人は両者を、一つの部門(Klasse)に投げ入れようとしてはならない。すべてを後者(普遍的部門)に投げ込めば、個人s的なものを殺してしまう。その時主語は、単なる通過点に過ぎなくなり、機械的になってしまう。すべてを前者(個人的部門)に投げ込めば、関係を殺してしまう。それは魔術的である。

注釈:[48]で現れた論争、いずれの判断がより高次であるか、内在的判断か、それとも他の要素を求める判断か、は、おそらくもっと前に、始めに属する。

 

結論(Twestenのノートより)

以上すべては主語の規定に関係する判断形成の部分に属する。述語の作成Aufstellungがまだ残っている。本来それは包摂の領域に属することである。概念が確定すれば、判断はすべて概念の下に個々の事実を包摂することである。しかし、まさにここで誤謬の可能性が生じる。すなわち客観的なものと主観的なものとの取り違えである。これ(客観的なものと主観的なもの)は、原初的形式においては、まだはっきりと分離されて存在してはいない。したがって両者の純粋な分離は、知一般の進歩と共に実現するようになる。判断の根底にある有機的機能において、器官の変化が根源的に表明される。それは器官と対象との共存の結果である。したがって、先ず決められなければならないことは、ある出来事において何が対象の機能かということである。そうしないと人は客観的なものの代わりに主観的なものを定立してしまう。人がそれをまだ決定できなかった場合には、対象についての判断の中に暫定的判断を取り入れねばならない。この対象において何かが生じたのだが、それは、私の器官から発したものと一緒になって、この作用をもたらしたものである。(例えば、黄疸にかかった人。)そこで私たちは再び次のことへ帰ってくる。すなわち、有機的機能が人間の中に引き起こすものに対する安定した制御のみが、完全な知をもたらすことができるということである。判断を形成するという課題は、それ自体としては非常に複雑である。判断は、概念と同じく、他の助けを借りなければ形成され得ない。

判断は、一般的、特殊的、個人的の三つに分けられる。私がある特殊な対象を述語の主語とし、個人的な目的語を定立するならば、それは純粋に個人的な判断である。(aはbを憎んでいる。)しかし、私はまた多くの同種のものからなる物の集合体を主語として定立することもできる。そのような判断に対しては、実際常に異なった判断―それに対して他の述語が帰せられるような―が、対応する。最後に私は、個を主語として定立する際、第二の要素を規定せずに定立することもできる。その場合の判断も一般的判断である。なぜなら、個々の事実ではなく、全領域が言明されているからである。私が第二の要素を規定せずに全体について何かを言明する場合も同様である。この様々な判断はどのような意味を持つのか?

特殊な判断はすべて分離を目指していることは明らかである。それは、統一性と個別性との間に、さらに中間概念を作ろうとする。したがって、それは概念形成の過程の中にある。一般的判断も概念を規定しようとする。第二の要素が定立されなければ、私は述語を単に物の状態として見ている。その時間性においてではなく、能力または生きた衝動として、それは必然的にその物の本質に属する。もし私が概念を完全に構築してしまえば、その時には判断は存在しない。特殊な個別的判断は、特に結合の行為を自らの内において捉えるので、個々の物の対自的存在は止揚される。そして、それ(対自的存在)を一般的なものとの同一性の中に定立する。したがって、二番目の種類の一般的判断は、特殊な判断と見なすことも可能である。例えば、「植物は光を愛する」。ここで私は小さな領域から出て、より大きな領域、植物と光の共存を求めている。それは内的共存だが、植物のではなく、より大きな領域、すなわち、植物の生と光の共存する領域の内的な共存である。特殊な判断はすべて拡張を目指している。したがって、それは独自な判断に過ぎず、もはや概念形成には値しない。概念形成を補うものである。判断の過程において必要なことは、常に自分の立場を意識し続けることである。概念に対する関係を念頭においていないならば、その過程は容易に誤ったものになる。しかし、この意識が保持されるのは、そこにおいて判断が構築される形式が意識されている場合である。

個々のことは、前例に倣って容易に遂行されるものである。ついでながら明らかなことは、超越論的知と形式的知とが密接に相互連関しており、互いに他がなければ無であるということである。