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底本Friedrich Schleiermacher, Dialektik(1814/15) Einleitung zur Dialektik(1833), herausgegeben von Andreas Arndt, Felix Meiner Verlag Hamburg 1988.

Zusammenfassung auf Japanisch von Kenji Kawashima.

〔 〕は文意を明確にするための挿入

最終更新日2003813

F. シュライアマハー『弁証法講義』1833年序論

117

1.      弁証法は、純粋思考の領域における技法に適った対話遂行のための諸原則の叙述である。

 

注釈:ここで用いられている表現は、一般に自明のものとして前提することができるが、しかし、それらは非常に様々な範囲で用いられているゆえに、多少の解説が必要である。

(1)〈思考〉はここでは、最も広範囲における周知の精神的機能の最も一般的名称と受取られている。したがって、単に言語を通じた狭義の思考だけがここで考えられるべきではなく、表象行為、あるいは、諸々の対象や事実に対する様々な感覚的印象や形象の関わりも、したがってまた、私たちが想像力の活動と呼ぶものも、思考に対立するのではなく、そこに一緒に把握されている。― 同様に〈対話遂行〉という表現も、広義に理解され、そこでは単に二人の思考する個人が前提とされているわけではなく、人が自己自身と対話を遂行するということも、二つの別内容の推論が交互に互いに関係付けられる限り、可能である。これに対して、人が独り言と呼ぶのが常であるような、すなわち、そのような個々の要素の対立―それによって一人の人が二人であるかのように思考において振舞うことができるのだが―を伴わない延々とした内的な語りや思いの展開は、ここには属さない。しかし、いずれの場合も、対話遂行は、発話する思考の内部にとどまる。

(2)〈純粋思考〉という表現は、実務的な思考や、芸術的な思考から区別される意味で使われている。すなわち、〈118〉そこにおいて、これら三つの思考以外のものが考えられるような別の方向性が存在しない限り。実務的思考とは、そこにおいて思考は最も広い意味で受取られるが、それは、常に何らかの行為、すなわち私たちの外にあるものの私たちに対する関係の変化であるような他のもののための思考である。つまり私たちは、私たちの中あるいは私たちに付着しているものであっても、思考活動の外にあるものはすべて、私たちの外部にしまうことが可能である。その結果、私たちが動物的な生の働きを伴ったり、準備したりする意識に始まって、自然や他の人間に対する私たちの支配を確かにしたり拡張する諸々の自己規定に至るまで、みな実務的思考に属するのである。芸術的思考は、他のもののためではないという点で、純粋思考と共通である。思考はここでも、芸術的な形象も排除されないことによって、最も広い意味で理解されている。しかし、この芸術的な思考には、満足の多少によって区別されるようなすべての思考が属している。その結果、卓越した満足が伴っている思考のみが、単に内的な思考から―それが本来的な思考であれ形象であれ―伝達や確保へと立ち現れ、外的な思考となる。したがって、思考と形象とはここでは、夢におけるものに始まり、芸術作品の理想に高まるものに至るまで、本来瞬間的な主観の行為に過ぎない。その行為によって思考は特定の仕方で時間的に満たされるが、そのうち最も生き生きと満足のゆくもののみが、外へ広まるに過ぎない。もしこれら二つの説明が、他の論究の先頭に置かれるのに十分な鋭さを持っていないように思われ、私たちが純粋思考についてさらに与えられるべき説明を置こうと考えるとしても、それは意図された区別を損ないはしない。そして、これら思考活動の変種が、厳密に対立し合うものであるのか、それとも移行によって伝わるのかという問いが少なくともなお残るなら、この問いも後に解決されるであろう。純粋思考は、〈119〉一方において、実務的思考から区別されるが、それは他のもののためではなく、思考自体のために定立されるものとしてであり、また他方、芸術的な思考からは、次のことによって区別される。それは主観、すなわち思考する個人の瞬間的行為に限定されず、したがって、その尺度も時間的に満たされる満足ではなく、それが思考のためにあることによって、そのような各行為は、自分の尺度を、単に同じ主観のすべての思考行為において、また思考行為と共に、その行為の継続に持つだけではなく、この主観における思考と他のすべての主観における思考の共存にも持つ。私たちが、ある思考に、この継続と共存を帰すとき、私たちは、〈私は知っている〉を言うのである。その限り私たちは次のように言うことができる。「純粋思考は知のための思考である」と。それは私たちが知という言葉の何かもっと別の内容はここではまだ全く放置しておくことによって、それによってただ思考を表し、その限り、それはすべての人において同一であり、そして、すべての変わり易い思考と共存しつつ、あるいは、そこに共に含まれつつ定立される。そして、知へのこの方向性にあるすべての思考は、純粋思考である。しかし、それ〔純粋思考〕が知のためにあるというのは、あたかもその知が別のもう一つの知であるというような意味においてではなく、すべての純粋思考自体が知になることを欲しているということである。私たちがこれら三つの思考を区別することによって、すなわち、自己自身に留まり、私たちを不変性と一般性へ高める思考としての純粋思考と、何か別のものになること、あるいは、ある目的の達成に自分の目標を見出す実務的な思考、そして満足の瞬間に平静に到る芸術的思考、これら三つの思考を区別することによって、私たちが気遣うのは、私たちが純粋思考のさらなる観察において、これら三つのいずれにも属さない思考との混乱に陥るのではないかということではなく、私たちにそのような思考が提示されるまで、人間の思考はすべてこれら三つの方向に決定されていると私たちが主張することである。しかし、これら三つの方向は、差別なくどの人間個人にも当てはまるのか、そして、各個人は〈120〉ただこれらの方向性の異なる関係によって区別されるだけなのか、こういった問いは今は放置しておく。そして、私たちが確認するのはただ次のことである。弁証法は、ただ知あるいは知を求めるという方向を意識している人々のためにあり、ただこの方向における方法と見なされるべきだということである。

(3)これら三つの思考の方向性の各々が、それぞれに応じた対話遂行の仕方を持っている。自由な対話は、圧倒的に芸術的思考に属している。私たちが個人の自由な活動としての思考の産出から、また、言語を通して思考されたものの伝達の可能性から出発するのであれば、私たちもまた他ならぬ次のことをも前提しなければならない。すなわち、ある一人の伝達を通して、ある場合には他の人の思考の産出が刺激され、またそれがすでに存在しているときには、方向を変えられたり、別の仕方で規定されたりすることが起こり得るということである。ところで自由な対話は、この場合には相互的伝達によって発展する相互作用であり、その際、一方の考えの他方の考えに対する関係は、その内容によっては全く問題にならず、考慮されるのはただ伝達による満足を通して支持され引き起こされる力だけである。この力は、一方の思考が生み出したものを、他方の思考が産み出したものに対して行使するのである。この、あらゆる共生において自らを形成する根源的な対話は、記述された経過を徐々に消耗する以外に、自然な目的を持たない。そして、引き起こされた力が、現れる考えにより多く内在すればするほど、この対話は長く続くことができる。もちろんこの対話は、あらゆる瞬間に、実務的思考にも、また知の方向にも移行することが可能である。これがそのような仕方でその性質を変えない限り、思考の伝達が語りを通して満足を引き起こす条件についての知識以外に、それ〔自由な対話〕に対する他の指図は考えられない。− 実務的思考の領域における対話遂行は、人が自分の目論む行為のために他者を必要とすることによって条件付けられる。それが、その行為を他者自身に対してなすため、それによって彼ら〔他者〕がそれと一致しつつ協働する場合であれ、あるいは、〈121〉彼らが妨げ阻止しつつ対立して作用するのを妨げるだけのためであれ、そうである。これら二つの場合に重要なことは、語りによって他の人の意思を規定することである。そして、ここにおいて説得の技術は、自分の固有な領域を持つ。それは日常生活の至る所で、あらゆる種類の契約の締結や助言において行われているとおりである。このための指図は、周知のように、古典古代に最大の完全性をもって論じられたが、同時に他面では、最も危険なものと説明された。しかし、それが危険であるのは、目標とする意思の規定が、最小の消耗で、しかも双方の満足に到達するという課題に、この説得技術が自己を限定せず、単なる満足を通して、その満足を引き起こした報酬でもあるかのように、意思の規定を搾取しようとする場合か、あるいは、説得の技術が、他の人の行為との連関を、後になってからその連関がその人には役立たないと分かるような仕方で叙述する場合である。両者とも欺きであり、後者の場合は特に、知の仮象が引き起こされる。そして、この説得技術の横枝が、しばしば弁証法の名で呼ばれるのであるが、そのような用語法は私たちの意図とするところではない。― 最後に、すでに呈示された意味での純粋思考の領域における対話遂行だが、これは純粋思考の阻止を前提とする。それが一人の人において起こる場合には、自己との対話が成立するし、純粋な思考の産出において自分を伝達しようとする複数の人々の間で起こる場合には、本来の意味での対話が成立する。この対話遂行が純粋思考の阻止を前提とする理由は、私たちがある個人を、純粋思考において、彼にとって上の意味で確かなものによって把握される形で定立して進むと、彼にとっては、それに続くすべてが、同じように確かなものとなり、その発展が阻止されることなく進行する限り、成立するのは自己との対話ではなく、その個々の部分が一様に確実な延々と続く内的語りである。〈122〉この語りが他者に―彼にとってもその開始はすでに確実なのだが―伝えられ、あるいはその開始が彼にとって目下確かであり、同様にまたすべて続く系列の要素も確かであっても同様である。したがって、人が単に随伴する同意をそう呼ぶことを欲せず、伝達者の中にあったものと同じものが、受容する者にも生じるならば対話は生じない。しかし、私たちが阻止を定立するや、ただちに対話が生じる。それが自己との対話として生じるのは次のような場合である。すなわち、その系列の一要素から二つの別々の要素が生じ、それらが同時に確実になることを望まず、したがって両者の間に揺れがある場合か、一つの考えだけが生じても、それが確実であるべきだとすると、他のすでに確実なものが、確実であることを止めねばならない場合である。〔自己ととの対話ではなく〕本来的な対話が生じるのは、同一の点から、語り合っている一方の人にとって、別の思考が確実なものとなり、両方の考えが同時に確実になることは欲しない場合か、あるいは、両者のうちの一方が、同じものが彼にとって他のものと同様に確実になるために、彼にとってすでに確実であったものを、もはや確実ではないものとして打ち消さねばならないような場合である。これらの状態は、懐疑とか論争とかいう表現で特徴付ける状態である。このような状態がなければ、私たちの学科〔弁証法〕は、全く不要である。このことは、この学科の歴史もまた確かに証明している。なぜなら、論争がすでに存在し、同時に知への方向性が十分強くあり、そして、その論争を純粋にその性質においてなすために、純粋思考が他の思考から十分区別されているところでのみ弁証法は成立し、形成されることができたからである。これに対して、純粋思考と芸術的思考とが、きちっと互いに分かれて現れなかったり、様々な思考者の間に、思考する共同体がなく、独立して思考する者からそれを受ける者に対する単純な伝達しかないところでは、弁証法が成立することはないのである。

(4)しかしもちろん、論争を知っている人がすべて、それゆえに弁証法の形成も助成あるいは承認ということだけでもするかというとそうではない。むしろこの関係には、以前から二つの対立的な行為様式が存在しており、〈123〉論争状態にある各人はそこから選択しなければならないのである。その一つは、すべての対話遂行に対し、自らによる無駄な努力としての論争の根拠を示す。その際根底にあるのは次のような前提である。思考において表される対立し合う努力、すなわち、一方にとっては確実になることを望まないものが、他方にとっては確実であるという事態が意味しているのは、自然において与えられ、決して止揚されることのない差異以外の何ものでもないということである。それが複数の個々人であれ、単に同一の個人の生における複数の契機の場合であれ同じである。その人に対して以外に、他ならぬその個人に対して、ある瞬間に別のものが確実になることはあり得ない。なぜなら、それは彼の存在のその都度の環境の不可避な結果だからである。そして、誰にとってもその都度その人の存在は不可避なものだからである。したがって、複数の人々の確かさにおける一致は、何か偶然的なものに過ぎず、苦労して手に入れるべきものではない。思考と関係するこのような行為様式は、徹底した懐疑主義の本質である。これと対立する行為様式、それを私たちは新たな用語法を斟酌することなしに、単に先の様式に対する対応物として独断主義と呼ぶが、それは、対話遂行を争い合う思考状態で受取る。そしてその際、明らかに次ようのな前提から出発する。すなわち、思考における対立し合う努力は、思考者たちの崩壊として取り除かれるべきであるという前提である。したがって、この行為様式のみが弁証法を必要とする。懐疑的な行為様式は、弁証法を必要としない。したがって、私たちは弁証法を樹立しようと望むことで、当初から全く懐疑と決別するのである。これに対して、懐疑主義者たちは、正に独断主義者たちに対する論争に基づいて、彼らと技法に適った対話を遂行すると反論があるかもしれないが、しかし、これは単に見せかけに過ぎないか、たとえ見せかけ以上のものであったとしても、矛盾を含んでいるものである。懐疑主義者が次のことを証明することで満足しているとしても、それは見せかけに過ぎない。すなわち、彼の敵対者たちが、自らの下に一つにならず、ある独断主義者の発言が、他の独断主義者の発言を止揚しているということを証明して満足しているとしても〔それは見せかけに過ぎない〕。なぜなら、そのような証明は対話遂行ではなく、論争は決してまだ終わっていないと言う単純な発言の展開に過ぎないからである。〈124〉しかし、もし懐疑主義者が、自分の敵に、論争はまだ終わっていないということを確信させようとするならば、その場合にはもちろん彼は対話を遂行しなければならず、それはまた技法に適ったものでなければならない。しかし、その瞬間から彼は自分自身に不誠実であることになる。なぜなら彼は今や自ら思考における一致を、偶然でもなく一過性のものでもない一致を手に入れようとしており、そのために彼は次のことを前提しなければならないからである。すなわち、思考の中には、自分に対する行為においても、またある人から他の人への進展の場合にも、何か個人の差異によっては作用を受けないようなものが存在しているということを前提しなければならないからである。そうでなければ彼はこの一つの対話でさえ決して技法に適って遂行することはできないのである。そしてこれはすべての対話に当てはまることである。― 私たちはこの点で即座に懐疑主義者から離れることによって、純粋思考の領域をただ私たちだけのために保持することは明らかである。というのは、すべての人において同一な思考は求められておらず、どの思考もただ個人の差異を表現しているに過ぎないので、知への方向性は存在せず、個人の思考はただそれ自体として見れば満足の尺度に基づく価値を持つに過ぎない。そして、至る所でなお連関が仮定されるべきであるとしても、主観のその他の状態への関係である。前者は芸術的な価値であり、後者は実務的な価値である。それ以外の価値を持たないので、懐疑主義者は、思考の領域において、次のような技法以外認めることができない。すなわち、その思考が自分にいかに満足を与えまた役立つかと、彼自身あるいは他の人々が考えることを実現する技法である。

(5)さて弁証法が、上述の意味で知に排他的に関係すべきであり、その結果それはすでに存在しているものとしての論争状態を前提としており、ただこの状態のために作用することを望むものである。したがって私たちは次のように主張することもできない。すなわち知への欲求の刺激が生じ、弁証法はあらゆる知の必然的な開始であると〔主張することもできない〕。むしろ私たちは、常に知への方向性においてすでに思考がなされていたことを前提するのである。同様に私たちは何らかの思考を、それがすでに完成された知であろうと、根底に置く権利を持たない。むしろ私たちは始めから次のことを可能なこととして前提しなければならない。〈125〉すなわち、思考の領域の至る所に、知のために、まだ未発見の論争のための素材が存在している。その素材は新しい思考行為によって刺激可能なもの〔という前提である〕。そう、主要な諸学問の歴史が、その多様な変容ぶりにおいて提供しているものは、論争になっている表象や命題以上に、以前は論争の余地なしと見なされていた表象や命題に常にそれらを更新しつつ戻ることに他ならない。ただ私たちは他方において次のことを喜んで認める。すなわち、仮にいつか、その動機によって純粋なすべての思考が、知になったならば、その結果、すべての論争が除かれ、もはや新しい論争は生じることなく、知は、伝達者と受容者との間の単純な交流によって植え付けられ広まるようになり、そのとき弁証法は、目下論争との関係で立てられねばならないような形式においてはもはや適用されなくなるということである。しかし、この間隙にあっては、すなわち、知を求める事実としての純粋思考はすでに活動中であるが、知はまだ完成されていないという状態においては、論争が生じるたびにそれを取り除く技法論としての弁証法が、この領域において支配的でなければならない。なぜなら、私たちが技法論と呼ぶものは、課せられたものを手に入れるために特定の活動を正しく秩序付けるすべての指導だからである。弁証法はそのような指導であり、しかも唯一の指導であるので、すべての領域を支配すべきである。したがって、弁証法は論争ごとに違った方法を立てることは許されない。そうではなく、弁証法は、すべての人、すべての論争にとって同一の諸原則を立てねばならない。それは、論争している人を一時的に論争相手の側へ導くための技法ではなく、崩壊した思考が知の統一性へ至るのを助けるための技法である。この種の成果はすべて、当然のことながら次のことによって条件付けられる。すなわち、本来の対話においては、対話者双方にとって、弁証法的諸原則自体が等しく確かであること、また自己自身との対話においては、その諸原則がすべての契機において一様に確実であり続け、〈126〉何らかの他の純粋な思考行為によって再び懐疑に陥らないことである。

 

2.      弁証法は、一つの同じ姿で普遍的に通用可能なものではない。そうではなく、先ず一つの特定の言語圏のために樹立されなければならない。そして、前もって承認されなければならないことは、弁証法は、様々な程度において各人に対して異なって立てられなければならないということである。

 

すべての純粋思考―個人が先ずこの活動に入って来なければならないのだが―が、常に確かに論争によって関与させられ、論争において役立つ方法はどれも、弁証法的規則が論争者たちに共通となったことを前提としているならば、これら諸規則は、−複数の人が先行する論争なしに純粋な思考行為において一致している場合という例外はあっても−そこにおいて相互的な意識によって知への方向性が一つの結果へと実現した第一のものである。個人において純粋思考の可能性が生じるや否や、それら〔諸規則〕はどの個人に対しても分かち与えられるのであれば、それによって、常にさらに広がってゆくすべての論争の止揚に対して基礎が据えられるであろう。[…]このような結果に対する見通しは、しかし、上記の命題によって非常に制限されているが、この命題はさらに次のような解説を必要としている。

(1)すべての人が同じ言語を話していた時代に歴史的に戻ることはできず、所与の最古の時代にはすでに人間は様々な言語によって隔てられていた。したがって、対話遂行は本来ただ言語を同じくするもの同士の間で生じる。したがって、またすべての言語において次のことが成立する。いかにしてその言語が徐々に閉じられた全体として発展するのか、また知への方向性がそこにおいてどのように現れるのか、ここで問題になっている論争と、それとともに、そのような指図の必要性も〔成立する〕。したがって、もしある言語が、その孤立した状態で完全に発展しながら、弁証法を生み出さないとしたら、このことが示しているのは、その国民が〈127〉実務的な思考以外には、ただ自由な芸術的思考だけを刺激されたということか、あるいは、純粋思考が、すべての人において一致した仕方で、したがって、論争を伴うことなく現れたということだろう。後になって、様々な言語の人たちが出会うとしても、どの論争も常に、それら諸言語の一つの領域で定められねばならない。同一の個人が、自国語で自国の人とするのと同じように、他国語で話す人と、その人の話す他国語で同じ論争ができるとするなら、私たちの命題が表明する制限は、十分な根拠がなくなってしまうだろう。しかし、そうではないことを確信するためには、私たちはただ最古のこの種の事例を見ればよいだろう。すなわち、私が言いたいのはギリシャ人からローマ人への哲学の移行のことである。とりわけ翻訳に携わるキケロの不確かで不安な奮闘は、彼が他の対象について母国語で論争するときの確かさと比較して、次のことを明らかにする。すなわち、再現されたギリシャ語の価値に疎遠であったローマ人は、ギリシャ語を母国語とする人のようには、ラテン語で同じことを考えることはできなかったということである。同じことは必然的に弁証法的な諸々の表現自体にも当てはまり、それが完全な価値を持つことができるのは、ただ言語を同じくする者たちの間においてである。さらにここから次のことが結果する。たとえあらゆる様々な言語領域における私たちの課題の解決において、同じ傾向が根底にあり、同じ立場から出発するとしても、その発展全体は、その本質的な部分に限ってみても、同じ数学の公式を様々な言語で表現する場合と同じようにはならない。数学の場合はただ音声が違うだけであるが。それによって私たちドイツ人がこれらの研究をするのが常であるところの様々な言葉の圏が、多くのギリシャ語やラテン語の要素を含んでいるという状況、こうした状況は他国語を話す私たちの近隣諸国の人も同じであるが、こうしたことは、人が考えるほど重大な影響をこの領域における理解に与えることはない。〈128〉なぜなら、ある言語の独自性は、どの他の言語の理解においても作用するからである。すでに私たちがイギリス人やフランス人について、彼らがどのように古代の学問的用語を自分のものにするかを観察すれば、その結果は、私たちの場合と完全に同じではないということを見出すだろう。これら習得された諸要素を顧みることも、したがって、私たちの命題の基礎付けについて、全く一般的に次のように語ることを妨げることはできないだろう。すなわち、あらゆる言語におけるこの領域に、他の諸言語にとっては非合理であるような要素が存在する。したがって、それは、それらの言語の複数の要素を結びつけることによっては厳密に再現できないものである。そこでもし、他の言語においては全く同じ価値を持つ言葉が対応していないような表現が現れるならば、両者の間には、思考において消し去ることのできない差異が定立される。私たちの課題の領域において、このことは正に始めから、すなわち、論争し合う命題や概念に本質的な諸要素に関して当てはまるが、同様にまた最後の部分でも、すなわち、その下にすべての知が要約的に区分されるべき集合の、一般的な特徴付けにおいても当てはまる。この始めと終わり、そしてまたその間の諸点に於いても至るところで多かれ少なかれ当てはまるのである。したがって次のことは当然のことである。すなわち、私たちが自分の課題の解決においてただ言語を同じくする仲間のためにのみ働くということである。その際、別の言語を語りはするが、しかしまた知への欲求に捉えられている人々と、そのような人々に対する私たちの関係をもし私たちが忘れるならば、あらゆる時代に通用し、空間的にも至る所に広まり、そしてすべての言語において認められるような叙述を与えることができると私たちが主張するということも、当然ありえるだろう。そうでないところには、知に対する有効な方向も、技法に適った論争の解決もないであろうから。しかし、私たちはそのような普遍妥当性を断念する。それは単に私たちの手段の不十分さのゆえではなく、私たちがそれ〔普遍妥当性〕によって、先の要求を救うにもかかわらず、〈129〉すべての人に妥当する唯一の言語がたとえ存在したとしても、私たちはそれを改善とは見なさないからである。なぜなら、これら一緒に受取られたすべての変化が、人間の精神の思考を論じ尽くすからである。そして同一の公式の体系が至るところで妥当すると考えることは、悪しき獲得物である。様々な場所で自己形成する様々な方法を互いにできる限り接近させ、それらを互いに〈すべての人にとって同じものが根底にあることを明らかにし、ただ各言語は、他の精神的な独自性から、別の性質と歴史を見なければならないように〉還元するという課題に対して〔悪しき獲得物である〕。

(2)私たちの命題が使用している言語圏という表現は、その最も狭い範囲と、最も広い範囲の二つの意味で受取られねばならない。なぜなら、一方において、どの言語でも、とりわけ純粋思考の領域に対しては、何らかの意味のある範囲について、様々なより狭い組織が形作られるからである。どのような組織が形作られるかは、ここではこの、あちらでは別の特殊な思考領域が、特に開拓されることによって異なるし、また、対立する領域が従属することによっても変わってくる。しかし、同様にまた、論争を解消する必要が、どちらの側から先ず優勢に起こるかによっても左右される。というのは、その展開は常に必然的に、何かを、すなわち、その起源から分離不可能なものを自らに担っているからである。これら様々な言語組織間では、それらが同時に存在しようと、継起的に続くものであろうと、あるいは意図的に純粋思考の過程で呼び出されたり、自ずから形成され、したがって、最初の弁証法的試みが成立するときにはすでに現存しているものであろうと、それら諸言語組織の間では、たとえ従属的な仕方に過ぎなくとも、常に理解が阻止される。しかし、このことが隠され、弁論する者たちが目立たなくなり、彼らが仲介する還元法を必要とするようになればなるほど、誤解は多く頻発して発展するようになる。他方において、複数の諸言語も再び、ある場合にはより多く自然的類縁関係によって、ある場合には相互的作用によっても、緩やかではあってもより大きな統一を形作る。それは、それら諸言語が、〈130〉一つの相関した集団として、他の同じような諸集団から、あるいは、さらに全く孤立した諸言語から、よりはっきりと区別されることによってである。しかし、その下では、それら集団の交流の内面性や多面性の割合にしたがって、常により多くの場所が際立たせられ、そこから、それら諸集団の違いが正しく評価されるとともに、容易に調整されることもできるのである。このような意味で私たちは次のように言うことができる。西欧諸国の諸言語はみな、その最初の学問的な展開をラテン語によってなしたが、単に当時のような圏を形成したのみならず、その作用は、まだ様々な程度において継続していると〔いうことができる〕。なぜなら、もし、それら〔西欧諸国の諸言語〕が、ラテン語によって養われ形成されたものを非常にはっきりと分け合っており、その結果、それらは、全くラテン語の変形と見なされるべきであるなら、また、本来民族的なものが、学問的領域においても再び優越を獲得したようなものを、それら〔西欧諸国の諸言語〕が分け合っているなら、それらの下には、共通の歴史を媒介にして、一つの内的な連関が、それら〔西欧諸言語〕の一つと、スラブ的な諸言語の間にあるものとして存在している。同様に、私たちと東洋諸国との間には、言語上の関係がはっきりと証明されているのに、諸国民は、全く異なった発展過程を通して、完全に互いに分離されている。私たちはペルシャやインドの格言や詩歌において、私たちの哲学的研究に対して、少なからぬ支持を得ている。しかし、その子孫たちと哲学的な歩みをなすことや、私たちの学問学派の成果に基づいて、彼らとの相互理解のために一時的協定を結ぼうと欲することは、不可能な試みといわれてきた。彼らは私たちにとって、肌の色も建築様式も異なり、その言語も始めから異なった原理によって組み立てられているように思われる諸民族よりも比較するまでもなく近い。それにもかかわらず、このような全く異なった諸民族ついても私たちは次の事を前提にすることは許されない。すなわち、彼らには私たちの意味での知が全くないとか、発展に携わっていないとか。しかし、そのような諸民族の行動様式に入り込むこと、〈131〉あるいは、私たちの成果を彼らに平易にわからせることは、私たちにとって、非常に困難、そう、ほとんど不可能であるということを考えるなら、私たちが、普遍妥当性へのすべての要求を断念しなければならないということは、自ずから明らかである。

(3)さて、すでに語られたように、私たちの命題における言語圏という表現が、その全範囲において受取られるべきであるなら、それによって、次のような問い、すなわち、私たちの指図が、最小の範囲に向けられたものであるのかそれとも最大の範囲にかという問いは、前もって斥けられる。なぜならそれは両方に向けられたものだからである。そして問題は以下に示すように、この関係にある。もし私たちが、純粋思考の領域についてのそのような見方を、何らかの個的存在の中に成立すると考えるならば、それが何か新しいものである限り、それは必然的に独自な言語圏を形成するだろう。そして、自分に内在する力に従って、多かれ少なかれ、その中に他の個的存在を引き込むだろう。先ず最も容易にこれに成功するのは、最初にこの領域に入る能力のある人々である。それから、次のような人々が続く。この種の別の見方をすでに試みたが、完全に習得する力のなかった人々である。このひきつける力の強さは、創始者の意思に依存するが、それは、その意思がそのひきつける力の純粋な表現と見なされることが可能な限りにおいてである。しかし、新しい見方がまだ、その他残りの全言語や思考仲間と抗争状態にあり、その終結は周囲に存在している様々な契機に依存するので、その創始者は自分の思考がどこまで広まってゆくのか決定することはできない。そうではなく、自分の見方が、このようにして、自分の言語内に、またその様々な差異の内部に、そして部分的には、すでにそう認められた混乱の内部に含まれ、さらに発展してゆくことによって、それ〔自分の見方〕は、同時に最も大きな言語圏との関係で影響を及ぼすのである。なぜなら、それ〔自分の見方〕に直接課せられた論争において、その見方はまた最も遠くにある共通の言語圏に帰って行かねばならないからで、それによって、自分の見方が、その範囲に対して、接近や均一化の手段によって展開可能なものも、間違いなく、現実に〈132〉明らかにするからである。したがって、課題全体のこの部分が、すべての点から自ずと前進するが、それはただ、その見方を引き起こし支配している人の二重の状態を経由してであるということは、次のように述べられねばならない。各人が自分で形成する言語圏は、その人の人格、すなわち、思考する者としてのその人固有のあり方の表現であることは明らかである。彼がすべてをこの圏の中に引き込もうと努力すればするほど、一層彼は自分の固有性を、思考全般の尺度や秩序と見なすようになる。あるいはその逆も言える。そしてこれは、彼には疎遠な逸脱した思考に対して、より制限された感覚のしるしである。これに対して、そのような人が、純粋思考自体に対する一般的な喜びから出発すればするほど、彼は、異なった思考の中に共通の思考を、論争し合う思考の中に均一化する思考をより多く求め認めるだろう。したがって、根源的に様々な言語圏に向けられた自分の方向性を持つことになるだろう。また、彼が、ただ様々な言語圏のためだけに、自分の言語圏を形成することによって、彼はむしろこのために引きつける力の不足に悩むだろう。そして、それによって、彼の独自な思考様式は、あまり通用しなくなるだろう。これら二つの方法は−私たちがそれらをそう呼ぶことが許されるなら−互いに対立しあっている。そして、これらが存在している関係は、純粋思考の展開の時間的場所的進行を、すべての個々の実り豊かな萌芽によって、その時々に規定する。

 

3.    この論争は総じて、対象の同一性(Selbigkeit)を前提としている。したがって、総じて存在に対する思考の関係を前提としている。

 

(1)もし私たちが、論争を前提としつつ、それを止揚するためにある特定の方法を基礎付けようと欲するならば、その方法の特定の目的をも視野に置かねばならない。しかしこの目的は次のようなもの以外ではあり得ない。すなわち、前もって多くの人によっては違うものと考えられ、同一の人によっては一通りにしか考えられないものである。なぜなら、対話遂行が、これら多くの人の間で〈至るところで様々な思考において留まらねばならないような〉成果をあげるべきであるなら、その対話遂行は、懐疑的な拒否へと導かれたことであろう。〈133〉そしてその方法は自ら無に帰してしまう。しかし、論争が終わるべきではないということについてのそのような一致が、個々の場合に私たちの領域で最終的な一致と見なされることはあり得ない。なぜなら、論争する思考は、その場合、知への欲求が止揚されることによって、純粋思考の領域を出て、実務的あるいは芸術的思考に追放されてしまうからである。むしろ、その思考はさらに純粋な思考と見なされるべきであるから、そのような取り決めは、ただよりよい時期に出くわすまでの調停と見なされる。そのようなものとしてそれは現れることが可能であり、とりわけ過程において明らかになる場合には、その論争は、〈他のまだ未決の論争が調停されるまでは、決着をつけられない〉か、あるいは、〈すでに刺激されているが、まだ遂行されていない思考行為が利用されねばならない〉。なぜなら、いずれの場合も論争はまだ進行中で、ただその直接的な促進だけが与えられているからである。いったい私たちは違った目的を視野に置くことができないのだろうか? なぜむしろ違ったふうに考えられないのか、いたるところで考えられるべきなのに。そして、複数の人が違ったことを考えるとき、一層同じものとして考えられるか?私たちが、思考というものを、他の思考がそれによって止揚されることによる見掛けの増加としか考えないならば、その場合だけは私たちが異なった思考を欲していないことは明らかである。

(2)この止揚は、しかし、もし私たちが思考自体を超え出て、全く異なったもの〔存在〕を目指さなければ起こることはできない。なぜなら、私がAを考え、他者がBを考えたからといって、止揚されたということはない。同様に、私がAを考え、他者がAを考えていないという場合も、止揚は起こらない。すなわち、その場合他者は、全く考えていないか、Bを考えているかのいずれかだからである。その他者は非Aを考えていると言うことが重要だという人がいるかもしれないが、これもまたBを考えていると言うのと同じであって、両者の思考を対立的とする根拠は存在しない。私たちはさらに進んで、Aという考えそのものと、そこから発話されるb,c,d…を区別したい。しかし、その場合でも、すなわち、一方がAbと考え、他方が、Aを〈133cと考えたとしても阻止は成立しないし、同様に、一方がAbと考え、他方がAをbと考えないとしても阻止は成立しない。なぜなら、私たちが思考自体の内部に留まる限り、これもまた一つの異なった思考に過ぎないからである。すなわち、bと調和するAあるいはbを含むAと、bを排除するAという考えの違いに過ぎない。これらの定式の下に、様々な事例のすべてが入ることが可能でなければならない。思考の内部だけに留まっていては、私たちは、主要な考えや発話の区別以上に到ることはできないのである。したがって、このような条件下では論争も存在しないし、私たちの全課題も内容を有しない。しかし、私たちは皆、すでに以前から私たちのに現れている一つの事実として、次のことを知っている。すなわち、思考と共にあり思考を超え出てゆくもの、私たちが存在と呼ぶ他者に関係しているものである。それは私たちの思考行為と始めから不可分に生じるが、外から私たちの刺激に対して作用するものであり、また外へ私たちが出て行くことによる影響を受けるものでもある。これは、作用するものであり、同時に作用を受けるものであるという存在者についての最も古い説明に他ならないが、私たちはここで、私たちに生じていなかった説明として、この説明に戻るのでは決してなく、私たちがその周知の事実に留まるのは、それによって論争を説明し、その領域を規定するためであり、私たちの課題の立場とその事実の承認が、本質的に連関しているということを知るためである。というのは、もし私たちが、存在者に対する思考の関係を除き去るならば、論争は存在せず、思考がただ純粋に自己自身に留まる限り、単に相違性があるに過ぎないからである。したがって、懐疑主義的な拒否の根底にあるのもこの思考が自己自身に留まるということで、この拒否は、先ず他者としての存在に対する思考の関係に反対して、むしろ、存在を思考の中に共に引き入れようとするのである。しかし、私たちが思考を、もはや再び思考ではない他者に対してのように、存在に関係させるや否や、論争のあらゆる諸条件が与えられるのである。というのは、論争は、論争し合う両者に対して、同一のものを要求するからであり、そのようなものに対する関係においてのみ、〈135〉次のように語ることができるからである。すなわち、違った思考は両者において相容れるものではなく、止揚されるものであると。このような相容れない事態は、先の関係〔存在に対する関係〕なしには、存在しないが、その関係と共に直ちに現れるのである。

なぜなら、二人の人が論争状態にあるのは、彼らが自分の思考を、両者によって共同的に同一のものとして定立された存在に関係させる限りにおいてだからである。そして、その限りにおいて、一方の思考は、他方の思考を止揚するのである。しかし、私たちが論争を、ただ個々の行為において時間的に分割された思考においてのみ見出すように、論争も次のことを前提としている。すなわち、論争は分割されたものとしての存在に関係させられているということ、しかし、その存在は複数の行為とって同一でありつづけること、なぜなら、そうでなければ同一の存在は再び二人の行為から消え去ってしまい、彼らはもはや論争的であることができないからである。この個別化された存在を、そこに様々な思考が関係させられる限り、私たちは対象という言葉で特徴付ける。そしてこれによって初めて、上で例として引かれた論争の諸形式が説明される。すなわち、Abと考えない定式に対立するAbと考える定式において、両者は、同一の存在の分割された行為を定立しているのである。それによって、存在全体においてはAが生じ、これについては両者は一つである。すなわち、彼らはAを存在者として定立している。しかし、彼らはbについて論争している。しかしながらb自体ではなくAとの関連においてである。一方は言う、存在者Aにおいて私はbを考えていると。対して他方は次のように言う。私はbを存在者Aにおいて考えることはできない。A自体がAであることをやめることなしに〔考えられない〕。これが止揚する思考というものであるが、この止揚は、私たちが存在に対する関係を取り去るや否や再び破棄される。他の定式、すなわち、〈Aはない〉という定式に対立する〈Aはある〉という定式は、論争の最も広い範囲を示す。なぜなら、ここでは思考内容Aが、一方では、存在一般において区分されたものに対応するように定立され、他方では、そうではないからである。したがって争点は、区分行為そのものである。そして、両者によって同一として前提されているものは、区分されるべきものとしての存在とそれに対する思考の関係だけである。止揚されたものは、これまで両者の間で同一であった存在の区分の幾ばくか、あるいはそのすべてであり、これが論争の最大値である。なぜなら私たちが〈138〉さらに理解を進めるときに、Aのもとに、個々のではなく全体的な純粋思考の内容を理解しようとするなら、一方は、これに存在に対する関係を承認し、他方は否認する。そして、そのとき両者は、そこに二人の論争が関係できる共通のものをもはや何も持っていない。これはもはや私たちの領域内での論争ではなく、私たちの領域自体を巡る論争であり、それについて私たちはすでに決定をしたのである。私たちはその領域に私たちの場所を掴む、たとえ、論争の領域におけるものとしてではあっても。

(3)ここから次のようなことが結果する。存在に対する思考の関係は、あらゆる論争の条件である。そして、論争は、純粋思考の領域における本来の対話遂行の独自な形式であり、したがって弁証法の前提である。そこで、存在に対する思考の関係も弁証法の条件ということになる。そこで私たちは前の(1)(2)に加えて、次のように言うことができる。思考をすべての思考者と共に一様に存在に関係させようとすること、知を求めること、純粋思考に捉えられること、これらは皆同一である。そして、そこにのみ弁証法の課題は関わるのである。この点から目を移して、私たちが今一度思考の様々な形式の並置に戻るならば、次のことが明らかになる。私たちは単独の思考という言葉において、存在に対する関係を全く定立しないか、あるいはただある不確かな関係として定立していたということである。それ〔存在に対する関係〕は、純粋思考においては違った形で現れる。すなわち、そこではそれは知において、つまり思考の一つの状態において現実となる。実務的思考においてはまた違った形で現れる。そこではこの関係は行為を媒介として、存在の一つの状態において現実化するのである。芸術的思考においても、これら二つの異なった仕方の一つにおいて存在への関係が生じるのか、それとも、そこにはそのような関係はどこにもないのか、このような問いは私たちの関心外である。というのは、私たちにとってこの〔芸術的〕思考形式は、すでにこの点の不確かさによって、他の二者から区別されるからである。〈137〉これら三つの形式は互いに強く対立しており、一つが示された場合には他の二つは存在できないのか、それとも、どの思考の契機−それは本質的に三つのうちのいずれか一つの形式に属するのだが−においても、他の形式の参加が可能であるのかということも、今は放っておく。というのは、私たちにとっては差し当たり次のことを確かめれば十分だからである。すなわち、もし実務的あるいは芸術的思考において、同時に純粋思考にも何かが属しているならば−そこに弁証法も適用されるのだが−、反対に純粋思考にも、弁証法の適用されることのない芸術的思考や実務的思考がくっついているということである。

 

4.      純粋思考は、思考する個々の存在において特殊な開始を単独で持つことはない。そうではなく、それは、特定の存在に達する以前に、各個人においてすでに他の思考において、また他の思考に即して存在している。

 

ここで結合されている二つの命題のうち第二の命題において主張されていることは、私たちがただ可能性としてのみ留保したものについてである。したがって、その根拠は第一の命題にあり、したがってそれも特に注釈されねばならないが、それにもかかわらず、第二命題の本来の意味もさらに詳しく説明されねばならないだろう。

(1)したがって、もし純粋思考が、その開始点をどこか次のようなところに持つと仮定したら、すなわち、総じて思考活動がすでに長らく活動中であり、それの活動の根源的な開始がある一人の個人であれ、複数の個人において同時にであれどちらでもよいのだが、そうした活動のどこかに、純粋思考が開始点を持つと仮定したら、常にそこには前もって、多かれ少なかれ、実務的あるいは芸術的思考が存在したのでなければならない。たとえわずかであっても、単に人間的な交際のみがこの領域に存在したのであるべきならば、この両者もすでに発話された思考であった。さて、純粋思考−それもまた形象から出発するにもかかわらず、本質的に常に発話された思考でなければならないが−が、根源的に成立すべきであるなら、それは実務的あるいは芸術的領域においてすでに活動中の要素と同じ言語要素を媒介として実現するか、あるいは、全く違った要素を媒介として成立するかである。両者の場合のいずれも起こり得ないということが証明されたら〈138〉それによって、すべての前提も崩れ去る。そして、概して純粋思考が存在すべきであるなら、残るものは、私たちがすでに第二の命題において立てたものだけである。そこで私たちは両方の場合を、この関連で吟味しなければならない。先ず、私たちが次のことを仮定するなら、すなわち、正に成立しようとしている純粋思考には、ただ新しい言語要素だけが使用されねばならないということを仮定するならば、その結果純粋思考は、常にただ次のような命題〔文〕や命題の連なりにおいてのみ見出されねばならないだろう。すなわち、ある時代に知のために形成されたような言語諸要素から排他的に成っているような命題や命題の連なりである。私たちはここで、新しい合成語の場合のような、単なる音調だけを主張しているのではない。なぜなら根源的な言葉は、他の言語からの言葉の転用においてであっても、形成されないからである。そうではなく、誰かが、伝来の言葉や語り方に、それ自体は変わらない同じものであっても、全く新しい意味を付加したときには、私たちはこれを新しい言語要素として承認したいのである。さて、同じ要素に、誰においてもただ何らかの学問的なものしか含まない多くの言語がある。しかし、それらは決してそれ自体で完結した完全な全体を形成することはなく、日常の使用において現れる言語との多様な結びつきにおいて常に現れる。したがって、純粋思考もそれら〔学問的言語〕にのみ含まれるということはできない。それにもかかわらず、私たちはこれら、確かに一般に承認されるべきではある事実に、まだ決定的な重点を置こうとはせず、目下の問題の可能性を認めたい。そこでそれは二つの仕方で生じる可能性がある。すなわち、純粋思考は自分自身の言語によって、またそれと共に、あたかも自然に適った精神の内的現象であるかのようにして自ずから生じるか、あるいは、探求された後に、技法に従って見出されるかである。なぜなら、そのような探求は、発話されずに表象されることはできず、少なくとも内的には発話されねばならない。欲求はすべて内的に発話されるからである。その探求は純粋思考に先立つべきであるので、それは〈139〉したがって、共通の言語によって発話されねばならなかったということになろう。しかしその場合、純粋思考自体は、仮定に完全に矛盾して、共通の言語に解消可能でなければならないか、あるいは、その探求が私たちから失われてしまうかのいずれかであろう。なぜなら、探求されているものと、その探求の間に私たちの思考に生じたものとを比較することは不可能だからである。したがって、探求と方法がなければ、突然か徐々にかという違いはあっても、純粋思考は、厳密にそれ自体として完結した思考として成立しなければならないだろう。しかし、それはこのような仕方では共同的なものであることが、根源的にも、伝達を通してもできないだろう。伝達を通してできないという理由は、純粋思考は、他者−そこにおいて純粋思考はそのように根源的に成立したのではない他者−に理解され同意を得るためには、ただ共通の言語によるしかないからである。しかし、これは仮定に対して論争を挑むことになろう。なぜならその場合純粋思考は共通の言語によって伝えられることになるから。したがって、純粋言語は共通の言語においても根源的に成立できねばならなくなる。しかし、同じく根源的に、純粋思考は共通な思考として生成することはできないことになろう。なぜなら、純粋思考が複数の人において一様に成立するとしたら、彼らがまたもや仮定に反して、共通の言語に逃げ場を求めるべきでないなら、次のことを確かめる手段がなくなってしまうからである。すなわち、彼らが実際に同じことを考えているかどうか、あるいは、彼らの音調は同じであっても意味が違ってはいないかどうか〔確かめる手段がなくなってしまうからである〕。したがって、この方法においてまだ残っているのは次のことである。多くのあるいは少数の個人において、純粋思考が、あらゆる他の思考からは切り離されて存在している。しかし、それは各人において、ただその人にのみ限定された確かさを持ってであり、したがって、もはや私たちが上で規定したような、すべての思考者において同一に存在し生成するようなものとしてではなく、その純粋思考は、自らの性質に従って、全く孤立した個人的な思考、各人にとってのみ完全に確かであるような思考である。同一の純粋思考における複数の個人のどんな一致も、単に偶然的な一致に過ぎない。− もう一つ別の場合に移ろう。すなわち、純粋思考が、かたや思考一般がすでに活動中であるときに、根源的で、それ自体独自な思考として成立するのだが、しかし、同じ言語要素において〈140〉自らを表現するという場合である。この第二の場合は、しかしながら、前の場合に引き戻されることは容易に分かるだろう。なぜなら、以前からの思考と純粋思考との間に要求された分離は、その分離の結果、純粋思考は、新しい別の思考として独自な開始を持つことになるが、それは次のような条件のもとでのみ成立するからである。すなわち、少なくとも同一の言語諸要素の使用方法が、新しい思考においては従来のものとは全く異なっているということである。そうでなければ、純粋思考は、その根源的表現において、従来の思考から説明可能となってしまい、したがって、純粋思考も、同じ思考によってまた同じ思考から成立可能でなければならなくなってしまうからである。そして、その場合には、純粋思考は独自な、単独に分離された思考ではなく、以前からの思考の継続あるいは更なる展開に過ぎなくなってしまう。したがって、誰かが、純粋思考の叙述、それがどのように知であり、知になるかという叙述を、新しい言語要素と、通常用いられている言語要素を新たに用いなおすこととの混合から形成する−これは哲学的体系の術語の場合に当てはまるが−ならば、そのような方法も次のような前提には一致しない。この知が独自な開始点から、したがってまた、それ自身で完結した特殊な知として展開するという前提である。しかし、またすでに世で行われている言語要素が、ただ全く新しい使用方法によって現れるに過ぎないのであれば、それらもまたただ外面的に、音調にしたがって同一であるに過ぎず、したがって、この同一性は全く偶然的で、意味のないものである。このような事例は第一の事例への完全な逆戻りであり、完全に分離された思考としての純粋思考も、自分にとって完全に独自な言語において現れることができるに過ぎず、しかし、その前提は、すでに見たように、自ら破棄されてしまうのである。

(2)したがって、私たちは最初に懐疑主義的な思考様式を放棄したように、今や、私たちの企てが成功を収めるべきであるならば、同様な仕方で、純粋思考のこの完全な孤立化を放棄しなければならない。そうして私たちは、私たちの更なる方策において常にただこれら二つの点の間の領域で動くことができ、それらとの関係の外に留まるのである。〈141〉この最後の放棄の本来的な意味について、私たちはさらに詳しく説明しなければならない。そこには特に二つのことが含まれている。第一に、次のような対立すべて、すなわち〈認識と表象〉、〈知と思念〉、〈普通の立場と高次の立場〉、〈思弁と経験〉などその他どのように表現されようと、それが次のように考えられている限り、すなわち、一方の要素は〔純粋思考以外の〕残りの思考全体を、もう一方の要素は純粋思考を表すべきであり、しかも純粋思考を、他の思考から完全に分離され、他の思考に端的に対立する思考と表すべき−純粋思考がそうでない思考から展開することができないように−である限り、私たちはこれらの対立を先ず放棄する。なぜなら、私たちは上述したことにしたがって、各人に対して他者の言語の外に立っている人々の間には、技法に適った対話遂行に対する可能性を見ないからである。というのは、知が偶然に等しい仕方で自ずと表現されたような人々の間では、本来の対話遂行が起こることは困難だからである。しかし私たちが考えるのは、知を持つ二人の人、すなわち彼らにおいては純粋思考が異なって表現されたような二人の人か、一人は知を持つ人で、もう一人は純粋思考がこれから初めて展開すべきであるような人である。だから上記に従って、二人の間には言語の共同性が存在しない。しかしその際私たちが、純粋思考の領域において前もって留保しなければならないことは、私たちはそれ〔純粋思考の領域〕を、他の領域との関連に置くとしても、それにもかかわらず、従属的な諸対立を証明することであり、おそらくそれらをも似た表現で特徴付けることである。それらが一層多くを意味する限り、それらは拒絶されたにもかかわらず。第二に、私たちはしかし、次のような人々のやり方をすべて放棄する。すなわち、彼らは、そこから更なる知が展開するような知の本質的なものを含む命題の総体を立てることによって、彼らがそれを知識学、あるいは論理学、自然哲学、その他何と呼ぼうと、ここにおいていわゆる根本命題を−それによって知が必然的に開始するようなものとして、それは端的に受け入れられねばならないものなのだが−頂点に据えるような人々である。その際それはすでに〈142〉思考されたものに含まれたことはなく、そこ〔すでに思考されたもの〕から展開されるということもできないのである。なぜなら、彼らは皆同じような状態にある。すなわち、この点から出るすべてのものを、すなわち純粋思考としてすべて他の残りの思考から孤立させる。その結果、そこで共同的になる思考は、単に何か偶然な思考と見なされるに過ぎないのである。そして単に他の人々がその命題の表現において同じことを考えるかどうかに依存する。そしてそれを、それが伝達されたように、自分自身のものとして模倣することができるのである。したがって、私たちが知の完全な孤立化を放棄するならば、私たちはこのようなやり方を称賛することも、模倣することもできない。私たちはむしろ次のように主張しなければならない。そのような試みは同様な権利を持って常に新たに繰り返すことができる。しかし、そのような試みのどれもが、すべての論争を終結するという確かな希望のうちに企てられるにもかかわらず、それによっては論争の解決はいささかも成功しないと〔主張しなければならない〕。もし私たちが、ただそのような開始がどのように成立したかだけを吟味するならば、[]次のようなことが明らかになるに違いない。その課題が妨げられずに刺激されつづけるなら、常により多くの様々な開始が、そのように扱われた思想家たちにおいて生じるに違いないということである。この感じやすい方法が、彼らに分配されるその程度によって、個人の魅力が同時代の人々に及ぼすことのできる影響も常に弱くならねばならない。その結果、後からきた達人は、先行する達人に比べて、全く同じ内的力によって、事柄に参与している人々のより小さな部分を自分のものとできるに過ぎない。もし私たちがまだ次のことを懸念するならば、すなわち、これらの開始が、最も深い感激から現れたにもかかわらず、その成立の仕方によれば、それらは包み隠さず話すための思いつきなので、自由な思考または芸術的な思考の領域に全く従っている〔ということを懸念するならば〕、私たちは次のような説明をためらうことは許されない。そのような開始の更なる展開は、〈143〉芸術作品として高い価値を持つことができると見られるが、それにもかかわらず、それらは知自体の叙述と見なされるよりは、むしろ、芸術的思考から純粋思考へ、あるいは詩から哲学への移行と特徴づけるのがふさわしい。その時それらは他の種類の試み−それらに対置されるような試みであり、実務的思考から純粋思考への単なる移行と見なされるべき試み−に対して完全に十分正当である。

(3)純粋思考の孤立化の場所で私たちが定立しようと求めるもの、そして、純粋思考が以前には、それだけで現れるというよりも、思考の他の二つの方向性と一緒に含まれていたということをどのように理解すべきか、さらに詳しく説明すべきである。すなわち、私たちは次のところから出発する。思考の三つの方向性が等しく根源的に存在する。なぜならこの三つは皆人間の生にとって本質的だからである。しかしそれらは最初は徐々に規定されて互いに区別されるようになるが、私たちがそのうちの二つを互いに区別できるようになるや否や、第三の方向もまた、その二者に即して、その二者と共に見出すのである。最初の人間の状態にあるのは萌芽である。したがって、これら三つの方向は互いに混沌と交じり合っていると言える。それゆえ私たちにとって、このような状態はその混乱性において、無意識と境界を接しているように見える。しかし、感受性と欲求の状態が、表現を獲得するや否や、それは今は正当か不当かにかかわらず、純粋に機械的反応としてしか現れないが、私たちはこれらの状態は表象されるということを前提とする。そして、これが個々の存在とその周囲の諸関係を、それらがどのような状態か、そしてどのように熱望されているかを総じて表現している限り、これを私たちは実務的な思考に帰するのである。これと並行して、私たちが夢を、内的感受性の状態の機械的作用に依存することなく前提とするところでは、自由なあるいは芸術的な方向の最初の痕跡を、内的形象として認識するが、ただそれは、思考の絶え間ない経過から自らをその都度排除する状態としての夢が、〈144〉私たちの観察からも排除され続けてはならない場合に限られる。睡眠と覚醒が完全に離れ離れに現れた後で、覚醒においても類似した形象や表象が成立し、固く保持された感覚的印象に基づくあの別の形象や表象から、存在の現実性をその尺度ほどには持っていないものとして区別されるや否や、これらは真実にすでに、自由な形象や表象として定立され、そこからは、さらに、芸術的な所産の開始が展開するが、それは他方の形象や表象において、すでに実務的思考の諸要素が定立されたのと同じである。しかし、この区別はただ次のことに基づく。すなわち、最後に言及された〔実務的思考の諸要素〕においては、常に同時にすでに諸対象が固定化されており、そこでは自由な表象は問題にならない。自由な表象はむしろ対象定立の否定として振舞い、表象する活動そのものとして現れる。しかし諸対象の定立及び外から規定される存在の定立には、すでに知及び存在の規定への方向性がある。なぜなら、正にこのように記述された主観の関心は、その同じ主観の状態、すなわち、主観の外部の現在の変化によって規定されたその同じ主観の状態と関わるからである。したがって私たちがこの関心を取り扱うとき、確かに私たちは対象の存在を前提できるのだが、しかし、私たちが対象を定立できるというこの意識の事実は、意識の中にその起源を持つのではない。同様に、自由な表象において、規定された存在が外から否定される場合、次のことも一緒に否定されるわけではない。すなわち、自由な表象には、その下に事物も定立されるところの一般的な姿形が取り付いており、それによって把握される〔ということも否定されるわけではない〕。なぜなら、この領域からはるか離れて保持される自由な諸々の形成物、例えば翼のある人間といったような人間と獣の様々な組み合わせや、他方では、私たちがアラベスクという名で呼ぶのが常であるようなものを、私たちは、夢の遊戯にさらに密接に結びつけるからである。この分離の真の内容は、明らかに次のようなものである。すなわち、前者の活動〔表象活動そのもの〕では、純粋思考に親和性のある自由な形象が定立されているが〈145〉後者〔人獣の合成やアラベスク〕ではされていない。純粋思考はその萌芽によって、すでに諸対象や事物の定立において存在しているとすれば、私たちはそれ〔純粋思考〕を、そうした対象事物を求めることに遡ることができる。〔対象事物を求めるということで〕私が言いたいのは、視線の恣意的なさ迷いである。それはある部分では実務的思考に属し見えるものの魅力にしたがい、しかし同時に純粋思考にも属し存在者を熱望する。同様に純粋思考は、自由な表象の幻想的な形成物を、すでに受け入れられた存在の諸形式にふさわしい自由な形象から区別することにも存在している。また、同じ仕方で実現する知覚の確保においてもそうである。それは一方で自由な形成に属して、これに諸要素を適用するが、しかし他方では、純粋思考から出発して多様な仕方で移動可能な一般的形象に上昇していく。それを私たちは図式とも呼んでいる。そしてそれにしたがって個々の知覚が類型化されるのである。この意味で私たちは次のように主張する。それは、ここで単に事例的に引用されたものによって何かを結果のためにこっそり獲得するというようなことではない。すなわちその主張とは、純粋思考の方向はすでにあの初期の〔思考の〕未分化な状態において明らかに現れているということである。そこでは、それは個別化された自立性においてはまだ現れることはできない。なぜならそれは本来的な思考、つまり自らを表明する思考にさらに先行しているからである。というのは、純粋思考の自立性は、言語の所有と結びついており、それがここにおいて初めて一般的な命名という卓越した仕方で自らを示し、これは人間に対する事物の関係によってではなく、自らの下でのその内的関係によって整えられるのだが、こうしたことは、先の初期の〔未分化状態の〕契機の継続的発展に過ぎないのである。したがって、もし人がこの点を見過ごして、何かある行為を初めて純粋思考の開始と定めようとするならば、常に次のことが証明されるだろう。すなわち、この行為自体はすでに純粋思考が存在していたより早い行為に基づくということが〔証明されるだろう〕。したがって、私たちはこれをただ〈146〉すべての思考において進歩しつつ実現する根源的方向として理解することができる。純粋思考は、その全行程において常に同時に他の二つの思考−それらは常に純粋思考の結果によってのみ進展するのだが−のためにあるように、それはまた始めから、単独で根源的に存在すると共に、それら他の二つの思考において存在した。これらの関係がここでは受け入れられず、さらに貫徹されることはできないということは、すでに語られたところから予想されねばならない一方で、純粋思考のどの行為にも、他の二つの思考の方向が常に何らかの仕方で共に定立されている。そして、今、すべての活動に伴う意識の発展状態において、思考のいずれの状態に属するかを決定することが容易であるとしても、この決定が、最初の意識状態の混乱から現れるのは、全く徐々にであって、純粋思考がまだ存在していなかった契機と、すでに存在している契機という二つの契機を証明することは不可能である。したがって、私たちはただ次のような仮定から出発できるに過ぎない。すなわち、知への欲求は、最も小さいものとしてではあるが、人間の生の最初の活動においてすでに常に共に定立されているという仮定であり、また、その知への欲求は絶えず発展しているのだが、この欲求が通り抜けるあらゆる変化にもかかわらず、何らかの新しい開始が、それ以前のすべての開始をさながら元通りにし、破壊してしまったほどにかつて身をふり離したことはない〔という仮定である〕。

 

5.      私たちが純粋思考の状態にあるのを見出す各点から、争いを解消し、したがって、知への欲求をその目的へと導くことの指導は、ただ次のような試みによってのみ開始することができる。すなわち、各純粋思考活動の内容から、争いの外にある思考がどのように展開し、分離され得るかという試みである。

 

(1)この命題の詳しい解説の前に、前に言われたことは何を引き起こすことができるのかという懸念を先ず取り除かねばならない。すなわち、人は次のように言うことができる。弁証法は、私たちがそれを§1で規定したように、非常に役に立つものであり、〈147〉純粋思考の領域で、あらゆる個々場合に、論争が現実に生じる場合には、〔弁証法を〕使用することは不可欠である。弁証法はまたここで立てられた前提に戻ることができ、そしてその前提をどうにかして基礎に置くのである。ただ論争から自由な思考自体を発展させることは、この課題が純粋思考自体の領域の内部にあることによって、これは弁証法の内実ではあり得ない。しかし弁証法は、取り方次第では、実務的あるいは芸術的思考に属する。これら二者を私たち自身は純粋思考から分離するのだけれども。なぜなら、一方において、論争を調停することは一つの実務であり、したがって、そこにおいて適用されるべき規則も、実務的思考を帯びるに違いないからである。他方において人はまた、この実務には増大する一致による満足が根底にあると言うことができる。したがって、弁証法的規則がこの特定の実務の本質から理解されるべきである限り、それは芸術的思考に所有されるものとなる。なぜなら、論争の調停とは、そこにおいて主観が、回復された一致の意識に、特別な仕方で時間的に満たされる、そういう一瞬の行為でもあり、他の技術的な命題と同じく弁証法の諸規則も、どのような方法でこの〔一致の〕意識が到達されるかについての十分な観察に基づくからである。§3によれば純粋思考は存在に対する関係に先ず自らの本質を持つのであるから、この意味で論争とは無縁の思考を展開することは、決して弁証法の仕事にはなり得ない。弁証法は、思考という行為に携わる思考する主観同士の諸々の関係にのみ関わるのである。−両者、すなわち、論争の調停が一つの実務と見なされ得るということと、弁証法的に引き起こされた一致が、芸術作品におけるのと類似の満足を生じるということは、共にある従属的真理を有している。しかし、そこにあるのは、私たちがすでにすべての純粋思考に対して付随的に認めたこと、すなわち、純粋思考には他の二つの思考の方向性が〈148〉常に同時に共に定立されているということの、弁証法に対する特殊適用に過ぎない。というのは、私たちが、論争とは無縁な諸々の純粋思考活動を一つの全体に編成することを考えるなら、この編成はそのような満足を引き起こすが、その際に、これら諸々の思考活動がその内容から見て存在に対する関係を持たないということが、そこから結果するということはないのである。同様に、以前はただ一般的に定立されただけに過ぎない知の場所−例えば生の概念を充填するために地上的生の様々な形式を秩序に適って編成することのような−を充填することすべてを、実務と見なすことは可能である。したがって、同様にして、純粋思考におけるすべての方法が、他の二つの形式の下に収められるということが可能である。そこから確かに生じることは、この異議が多すぎることを示しているということである。なぜなら、懐疑主義に与していない人であれば、純粋思考を、先の二者とは異なる思考における第三の方向として承認することによって、妨げを受けることはあり得ないからである。しかし、もし私たちが、弁証法に純粋思考の領域におけるその場所を確保し、それによって同時にその試みの権利を確保するために、その異議にも反対しようとするならば、私たちはただ、実務の性質や、ここで問題となり得る思考する個人の諸関係の性質をより詳しく観察するに過ぎない。というのは、前者に関して言えば、すでに示したように、思考についての論争が遂行されるのは、思考が存在と関係する限りにおいてである。したがって、弁証法的な規則において何かが実務の本質から生じなければならないとするなら、正にそれは、存在に対する思考の関係に関係しなければならない。これを認めることへの反感と、狭義の論理学と呼ばれるものを形而上学と呼ばれるものから分離することは、本質的に一つの同じことである。この枠内に的確に保持された論理学は、ただ思考における方法についての規則−それは思考の何らかの内容に全く関係しないような規則だが−のみを提示できるに過ぎない。そのような規則が関係できるのは形式だけであり、したがってせいぜい自ずから見えてくる誤解を暴露できるに過ぎない。しかし、それらは〈149〉本来の論争解消には程遠く、新たな論争の素材の成立を妨げることはできない。なぜなら、ある人はAbと共に考え、もう一人の人は、bを排除するcと共にAを考えるという場合、そこからは遅かれ早かれ必然的に論争が生じるに違いない。したがって、矛盾は、論理的規則の適用によって直接発見されるわけではなく、bとcを相互に還元し合うという誘因が生じて初めて発見されるのである。したがって、これらの規則は、あらゆる根源的な共同思考においては、その職務を拒絶する。そして、思考における進展はすべて、これらの規則によっては吟味され得ないような開始を持つものだけが残る。すなわち、私たちは、知のあらゆる領域において恣意的な開始と向き合わねばならないのである。なぜなら、人が要求を拡大して、ただAbAcといった言明だけが、互いに結び付けられてよいこととなり、そこで言明されたbcは、直接互いに還元し合うことが可能となるなら、思考におけるあらゆる増大する進歩は止み、すべては恣意的に始まり、吟味されることのない思考の自分自身におけるあるいは自分自身からの展開に過ぎないか、自分自身の下で結びついていない複数のそのような思考行為からの展開に過ぎない。したがって、どの思考する個人存在も、完全に自分自身あるいは自分が順応する他の人の唯一性に囚われている。このようにして当然のことながら事態は次のようになる可能性がある。すなわち、複数のそのような根源的な根本思想の多様性において、その間の選択は趣味の問題となり、その一致による満足は芸術作品における満足と似たものとなり、それが教える経験も、大多数の哲学諸学派においてや、様々な根本仮定から生じる他の諸学問における諸体系におけるのと同じになる。したがって、この異議の両部分は確かにそれ自身の下で連関しているが、しかし、ただその誤っているものによってである。なぜなら、それは、私たちが他の部分を単独で観察するときのような状態だからである。すなわち、私たちが次のことを問うならば、純粋思考の領域における対話遂行では、思考する個人存在のどのような関係が問題なのかと問うならば、〈150〉それはその唯一性を表現するようなものでは決してなく、むしろ、純粋思考の領域におけるこの唯一性の作用が、芸術的あるいは実務的側面に属するようなものにおいてのみ示されるほどに、広く止揚されるべきである。なぜなら両者〔芸術的側面と実務的側面に属するもの〕は、思考されたものの編成に与り、それを保持するが、その編成は、一部は特定の目的のために整えられ、また一部は、全く芸術作品自体の性質を帯びてもいる。これに対して弁証法が関わるのは個々に争い合いながら生成する思考を整理することであり、そして弁証法がそこにおいて自分の業を果たす限り、思考者の差異性は止揚されるが、それは、言語による論争の解消によって確かなものとなった思考が、その言語圏その他における思考者の存在の同一性(Selbigkeit)を表現することによってである。したがって、私たちはここでも、ある特定の瞬間における思考者の個的存在自体を満たすことには何ら関わらない。確かな個的存在は、あらゆる瞬間にただ同一のものとして定立され得るから、必然的に無時間的存在にもなるからである。むしろ純粋思考の領域におけるどの一致による満足も、思考する存在の同一性という現象による喜びに過ぎない。その際、これが他者における一致であるかどうかということは、全く考慮されていないのである。これに対して、趣味の問題における一致はすべて、常に次のような意識である。すなわち、異なって感じるということが、主観性の刻印を自らに担いつつ結合する力を表現しているという意識である。この違いを見落とすならば、その場合には当然のことながら人は次のようなところに行き着くだろう。すなわち弁証法もまた単にある特定の趣味のためだけに設立し、その特別な原理を弁証法は自らの頂点に持つが、それは次のような一つの命題としてである。すなわちそれを受け入れるのは常に少数の者たちであり、他の者たちはそれに対して別の命題を対置するのである。したがって、立てられた異議の二つの側面から私たちは、次のようなところに到る。私たちの課題はすべての特殊性の影響を排除するが、それは、私たちがそれ〔課題〕を実務と見なす場合も、あるいは、私たちの目指すものがその実務の解決にまとわりついている満足である場合も同様である。したがって、弁証法は始めから終わりまで純粋思考の領域に留まる。そして、この瞬間から、弁証法がそれによって始まらねばならない試みに対して、何も異議を唱えることができないのである。

(2)しかし、以上のように言われたところからさらにまた生じることは、知が端的に新しい開始点から展開できないということであり、私たちがすでに見たように、同様に私たちは私たちの目的をほとんど達成しないということである。もし私たちが、すでに存在してはいるが、抗争し合っている純粋思考から、個々の任意の命題を、論争とは無縁なものとして取り出し、頂点に置こうと欲するならば。このことは、私たちにとって必然的に特殊性の領域に戻っていかねばならないからである。なぜなら、私たちがこのためにある方法を求めるなら−その方法なしには、その処置は単なる思いつき、すなわち最も特殊なものであるに過ぎないのだが−、私たちは先ず次のことを確認するだろう。すなわち、誰も自分自身にとってすでに論争的になるような命題、あるいは、それを彼が論争的な思考との関連で知っているような命題をこのために選ばないだろうということである。しかし、他の結合点も考えられないので、自ずから生じるのは、ここから生じるすべての選択は、選択する者の特殊な思考の歴史と連関しているに違いないということである。

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