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最終更新日2000128

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シュライアマハー『倫理学講義』1812/13年 序

T.批判から実際の叙述への移行

1.個々の特定の学問の伝達は、正しい開始を持つことができない。

2.個々の学問は直接確実な命題をその頂点に持つことができない。

3.それは、より高次の力の演繹においても、ただ自らに対抗する知と同時に理解される。

4.この対立を立てることは、ただ考えとしてのみ現われ得る。

5.どの学問も複数の姿を持っている。すでにその開始からそのような学問の一つに基礎が置かれるが、この学問は、他の諸学と同時に歴史的に把握される限りにおいて知を保持する。〈6〉しかしながら諸学問の歴史は学問自体がなければ存在できない。これは循環を呈している。

6.人はどの学問についてもすでに通常の生活や通常の批判を通して知っている。

7.この影響は倫理学においては有利なものではあり得ない。それは次のような不都合な現象ゆえである。すなわち、複数の論じ方が全く違った前提で始まり、失望か学問的矛盾という同じ結果で終わるということである。

8.幸福主義の倫理学は、個人においては仮説的である。なぜなら、その目的は多様な実際には対立しあっているあり方で達することができるが、そこから一つのあり方が選ばれなければならないのである。したがって、個人においては技術的であるが、全体においては、その選択が傾向性に依拠しているがゆえに、せいぜい傾向性の解説に過ぎないのである。

9.カントの形式における合理的倫理学は、行為について念頭に浮かぶ考えを定めるが、ただ訂正したり完成したりできるだけであり、たとえ人がそれを完全に受けるとしても、初めから構築することはできない。

10.それはあらゆる諸形式において、存在を気にかけることなく、自然的なものとの対立における倫理的なものの特徴としての当為を定める。しかし、その現象は、自然的なものにおいては概念にも決してふさわしくない。そして倫理学にとっては本来対象であるもの、すなわちそこから個々の行為が生じるところの力は、倫理学において、存在するものとしても、そのような当為と同一的に前提されなければならない。

11.両方の論じ方は、内容的にも制限される。それらは、行為から生じるに過ぎない多くのものを、それを構築することなしに前提としている。しかし、その状況における正しい振舞いと、その状況の形成のための形式は、同一でなければならない。

12.したがって、倫理学は、およそ真に人間的な行為は全て包括し、書き留めなければならない。

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13.この増加によって、理性に適ったことと幸福との対立も消滅する。

14.およそ人生に現われるものに対して、倫理学は、それをその最高の性格において表現する形式を含まなければならない。

15.学問的方法にとって、合理性的な定式は、最もふさわしい定式であることは明らかである。

16.したがって倫理学は、さしあたって理性の生の記述であり、この生は、その必然的な対立においては、自然に対する行為である。

17.理性に対して、倫理学の対象として、個性が代わりを務めることはできない。なぜなら、個人の行為と共同的行為とは孤立させることはできず、人間の行為についての理論では、個人の対立は破棄されねばならないからで、その場合残るのはただ組織体における理性の生である。

18.もし理性の生が、自然に対する行為として理解されるならば、倫理学はそれに対立する学問、すなわち自然学と共に同時に把握される。

U.弁証法からの倫理学の演繹

19.補助定理1 弁証法から。知は全て、その範囲が小さくなればなるほど、諸対立の多様性によって一層規定される。その範囲が大きくなればなるほど、より高次かつ単純な諸対立の表現が多くなる。

20.補助定理2 弁証法から。絶対的知とは、対立の表現ではなく、その知自体と同一な全体的存在の表現である。

21.補助定理3 しかし、有限的意識の中には特定の知はそれ自体としては存在しない。すなわち、十分な仕方で諸概念または諸命題の多数性において表現されるような知はなく、〈8〉全ての特殊な知の根拠と源泉のみがある。

22.補助定理4 特殊な知は全て、したがってその体系、すなわち実在的諸学問も、対立の形式の下にある。

23.補助定理5 有限的なものとしての存在の全体性は、唯一の最高の対立によって表現されねばならない。なぜなら、そうでなければそれは全体性ではなく、寄せ集めであり、その知は統一性を持たず、混沌としている。

24.補助定理6 狭い意味での全ての有限的存在、すなわち全ての生は、絶対者の像として、諸対立が相互に入り混じったものである。

25.補助定理7 したがって、その全体性における実在的知は、最高の対立の二つの要素のポテンツの下で、全ての諸対立が互いに入り混じった存在の展開である。

26.補助定理8 したがって、存在するのは二つの実在的学問だけであり、その下にあらゆる従属的な諸学科は包括されねばならない。

27.補助定理9 その対立は私たちの間に、魂と身体、観念的なものと実在的なもの、理性と自然という形式の下に生まれる。

28.補助定理10 したがって倫理学は、理性のポテンツの下にある有限存在の叙述、すなわち、対立が相互に入り混じった存在において、いかに理性が行為の主体であり、実在が行為の対象であるかという側面からの叙述である。また、自然学は、自然のポテンツの下にある〈有限存在の〉叙述、すなわち、いかに実在が行為の主体であり、観念的なものが行為の対象であるかという側面からの叙述である。

29.補助定理11 有限な存在においても有限な知においても、絶対者の叙述として、その対立は相対的であるに過ぎない。したがって、その完成においては、倫理学は自然学であり、自然学は倫理学である。

30.補助定理12 したがって、途上においては、観念的なものの生は実在に対する行為であり、実在的なものの生は、観念的なものに対する行為である。

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V.生成において観られた倫理学

31.したがって、この同一性以前は、全ての学問は不完全である。他の学問の状態によって制約され、諸現象の多様性に分かたれる。

32.倫理学は直接自然学によって制約されるが、それは倫理学の実在的な叙述の根底に、扱われるべき対象、すなわち自然の概念があらねばならない程度による。

33.学問が間接的に心の態度によって制約される程度に応じて、心の態度は、自然に対する支配によって制約される。その支配は自然認識に依存しているから。

34.したがって、倫理学が自然学に勝るという時はない。常に両者は並行している。

35.学問が未完成である限り、それは多様な姿で存在する。それには普遍妥当的ということはあり得ない。学問的な不確かさは、見かけの多様性において明らかにされねばならない。

36.未完成の形式は、観点の一面性であり得る。ここにおいて最も多いのは、誤った確かさの感情であり、最も少ないのは、他者の正しい評価である。

37.未完成の形式はまた、諸々の根拠に戻る場合でも、結果を目指す場合でも、欠けの多い論述であり得る。ここにおいて最も多いのは、個別性の十分な実在性における恣意の見せかけであり、隠れた不確かさの感情である。

38.〔未完成の形式は〕あるいは確かさと不確かさの一様な共存である。ここでは正に目標への接近が最も多い。そして、確信と懐疑とがはっきりと離れ離れに現われるので、最も正しい他者の評価がある。

39.理性は自然の中に見出される。そして倫理学は、最初何によって理性が自然に入って来たのかを叙述することはしない。したがって、倫理学が叙述するのは単に潜在的にそこに入っている理性の形成作用であり、また〈10〉後半に広まった自然と理性の合一である。それは自然一般の一部としての人間存在に始まる。そこでは理性との合一がすでに与えられている。

40.自然と理性の完全な合一の叙述は、倫理学にも属さない。なぜなら、その孤立化した姿が止むならば、それはただそこに存在可能だからである。

41.したがって倫理学が叙述すべきものは、一つの系列である。その各部分はすでに生じたりまだ生じていない合一からなり、その代表者は、ある要素の増大と他の要素の現象を表現する。

42.命令的な倫理学は、合一が生じていないという側面のみを捉え、したがって、この要素が徐々に消滅していくことを表現しない。

43.相談的な倫理学は、合一が生じたという側面のみを捉える。なぜなら、合一が生じている場合にのみ、同じものを理性あるいは感性の形式で表現することが、どちらでもよいことになり得るからである。

44.したがって、完全な叙述は、両形式の対立を止揚しなければならない。

45.実在的な知は全て、観念的なものにおける有限存在の写しであるから、叙述や説明という形式以外の形式は存在し得ない。

46.自然学と倫理学は、互いに関係し合い、ただその素材の関係においてのみ対立しているのであるから、同一の形式を持つことができる。

47.現実に反理性(Antivernunft)は存在し得ないので−もしそのようなものがあれば、反神(Antigott)も存在しなければならない−、善悪の対立は、合一生成のプロセスにおける積極的要素と否定的要素の対立の表現以外のものではあり得ず、また、このプロセスの純粋かつ完全な表現において一番良く理解できる。

48.産物における自由と自然的必然性の対立は、次の二つの要素を暗示している。すなわち〈11a)理性において、あるいはb)自然において優勢に基礎付けられている要素、そして行為においては、a)行為者の内的性格を、あるいはb)外的なものとの共存を表現している要素などである。したがって、この対立は、全体性において理性と自然の共存を観察することによってのみはっきりと洞察可能なのである。

49.自由と道徳的必然性の間の対立は、特に、個と、その個が属する全体との差異においてはっきりし、そこでは、個の個人的な合一の度合が自由を代表し、全体の合一の度合が必然性を代表するので、この対立が正しく把握されるのも、ただ次のような叙述においてのみである。すなわち、個と全体の生成がいかに相互に制約し合っているかを示すような叙述である。

50.理性と自然の共存の叙述としての倫理学は、歴史学である。

51.倫理的発展の全体は、単に実践的な側面においてばかりではなく、理論的側面にも存在している。したがって、倫理学においても、単に狭義の行為だけが問題なのではなく、行為としての知も問題になる。

52.自然科学は、自然の固定的な諸形式も、流動的な機能も共に理解できるようにし、両者を相互に制限する。それと同じように、倫理学も、家族や国家等の倫理的存在の固定的形式や、またそれらの流動的な諸機能や様々な倫理的能力をも等しく説明し、両者を相互に制限する。

53.倫理学は、理性自体の直観−それは絶対的に単純であり、絶対知に属する−ではなく、対立形式の下で多数の諸機能において自然となった理性の直観であるが、それ〔倫理学〕はまた、個別現象−それは普遍の下に包括されはするが、普遍から確かに構成されることはできない−の直観でもない。

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54.倫理学は、絶対的ではないということでは実在的知であり、経験的ではないということでは思弁的知である。

55.純粋倫理学と応用倫理学の違いは事柄にその根拠があり、それが数学から借用された形式において基礎付けられるなら誤りである。

56.倫理学の諸原理は、その完全な規定性によって、倫理学の領域外に存在するものには、決して応用できない。

57.およそ倫理学において構成されるものは、無限の量の諸現象の可能性を含んでいる。そうした諸現象の経験的把握の他に、さらに経験的なものと思弁的叙述とのより密接な結合の必要が生じる。すなわち、個々の現象がイデーの表現として程度においても独自な制限においてもどのような状態にあるかを判断する必要である。

58.これが批判の本質であり、したがって、倫理学と結びついている批判的諸学科の循環が存在する。

59.個人が自分の倫理的な能力によってその現象の生産に携わる限り、彼は特殊な対立や特殊な自然の制約の中に置かれる。そして、これらがどのように扱われるべきかという必要が一緒に立てられねばならない。

60.これが技術の本質であり、したがって、倫理学から生じる技術的諸学科の循環が存在する。

61.重要な事例は、国家、政治学と政略、技法〔芸術〕−倫理的生産は全て技法〔芸術〕と見なすことができる−技法論とは技法のための諸々の実践的な指示である

62.思弁的ではあるがしかし実在的である知として、倫理学は自然と対立する純粋な理性と関わり、さらに理性と対立する純粋な自然と関わる。

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63.倫理学は、対立形式一般を通して、絶対者との共同に媒介される。その対立の実在に向かう側面とは、他の要素なしにある要素は存在しないということであり、絶対者に向かう側面とは、全ての存在者が、両者の同一性において絶対者を表現するということである。

64.あらゆる証明された実在的なものにおいて、全体性に移ることにより、絶対者を証明する高次の批判的プロセスは、実在的知と絶対的知との媒介である。

65.倫理学においては、純粋な自然と純粋な理性は現われないので、全て倫理学において現われるものは、理性的な自然と、自然的あるいは有機的な理性である。

66.相対的な同一性が、生成の形式の下に表現されるべきであることにより、その表現の一方の極点は、生成されたものの最小値であり、他の一方の極点は、生成されたものの最大値である。

67.倫理学は、生成の最小値、すなわち自然−そこにはすでに理性が存在している−の定立と、理性−それはすでに理性の中にある―の定立によって始まる。その相互浸透的存在は、各々の姿の下で、より以前の存在に戻る。

68.観念的なものと実在的なものの同一性の次に低い段階にある自然は、動物的自然であるので、倫理学の根本直観は、人間性それ自体の直観であり、そこにおいては、純粋に動物的なもの、単に素材に過ぎないものは、何も示されない。

69.人間的なものと動物的なものとの本質的な差異は、先ず、知覚及び感情の感覚作用において示される。同様にしかし、動物的植物的生の諸機能においても想定される。

70.理性は、自然におけるその存在を度外視すれば、個別的なものとして定立されることはできず、各個は、しかし、〈14〉全体に対して相対的に対立しているものとして、生において、受動性と自発性の共存を形成する。したがって、人間性における理性の根源的に定立された存在は、人間性の受動性に理性が沈められた場合には悟性として現われ、人間性の自発性に沈められた場合には意志として現われる。

72.この形式の下での理性の現われは全て、すでに生成されたものとして、すなわち、より以前の理性存在の低い度合として定立されており、したがって、単なる能力としてではなく、その活動を伴った能力として。

73.理性と自然の同一性は、倫理学においては生成の形式の下にのみ現われるので、その最大値は、理性と自然の隔たった状態の最小値に過ぎない。

74.この相対的な対立において、自然は、積極的側面では、理性の器官および象徴として現われるが、それは、同一の事柄の二つの異なった観点に過ぎず、否定的側面では、課題、すなわち生の素材として現われる。

75.倫理的プロセスは、したがって、あらゆる方向に、この生の素材が最小値として消滅するまで継続されるべきである。

76.理性が、根源的に有機的象徴的自然において、悟性と意志として、根源的倫理的に定立された状態は、人間の個々の存在において理性が定立された状態である。

77.この開始を同時に一般的な定式と定めたり、理性を決定的に個人的なものと定めたりすることは、心の態度の誤謬である。この誤謬は、学問的には次のことによって明らかになる。すなわちa)個においては、理性の器官あるいは象徴として何も真実に現われないことによって。b)全体においては、理性が完全に自然のポテンツの下に現われることによって、自然学と倫理学との本質的な差異が破棄されてしまうことによって。

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78.個体は、理性の根源的な器官また象徴としてのみ定立されるべきである。しかし自然に対する理性のその行為は、自然全体に対する全理性の行為である。倫理的プロセスが完成されるのは、自然全体が、人間性を通して、有機的あるいは象徴的に理性のものとされる以外にはない。個体の生は、個体自身のための生ではなく、理性の全体性と自然の全体性のための生である。

79.理性を倫理的プロセスにおいて、個人の仕事に使うということは、直観を感情に従属させることであり、知を単に快楽の手段としてだけ認めることである。そして同時に、理性と自然の対立における均衡が破られることによって、絶対者をも実在の側へ引きずり込むことである。それは唯物論に通じている。

80.倫理的プロセスの叙述−そこにおいて自然と理性各々は、端的に一つのものとして定立されるのだが−は、したがって、全ての倫理的生成の全体性を端的に一つのものとして定立する。すなわち、自然の様々な諸機能と理性の様々な方向性とを一つの生成において、有機的全体として定立する。

81.理性は、個性の形式においてのみ存在するので、個性によって完全なものとなった理性が、根本的な力−そこから倫理的プロセスがその全く完成して生じるような−であるとはどういうことかを示すことによってのみ、対立する見解は破棄される。

82.理性の行為は、個性において、時間と空間の制約の下に定立される。もし理性の行為が、空間的時間的諸規定の中に埋没して、絶対的に個別化されるならば、全ての行為において、倫理的プロセスの全体性は否定される。したがって、理性はこの〔個性という〕形式の下でも、自己自身と共に等しいものとして叙述され、次のことが示されなければならない。すなわち、あらゆる行為において、その理性的なものによって、倫理的プロセスの全体性が定立されるということが示されなければならない。

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83.倫理的に生成したものはどれも、一つの善である。その総体は唯一の善、最高善である。したがって、倫理的なものの客観的叙述は、最高善のイデーの叙述である。

84.理性能力に高められた人間性の働きが徳である。したがって、その間接的な叙述の最初の部分が徳論である。

85.生の全体からある行為を捉え、現在の制約から引き出して際立たせることは、それによって、その行為が義務概念に一致するということである。したがって、間接的叙述の他の部分は、義務論である。

86.歴史的にはこれらの諸形式は無意識な仕方で常に一緒に存在していた。しかしながら、古代においては、善のイデーが最も支配的であり、義務は最も後退していた。現在は、善のイデーはほとんど全く消滅しており、義務概念自体が、徳概念の上に君臨している。

87.最高善のイデーの下での叙述は単独で自立的である。なぜなら、そこでは産出行為と産物とが同一的に定立されており、倫理的プロセスが完全な叙述に至るからである。

88.徳論においては、その産物は、現象に現れることはなく、暗に定立されるに過ぎず、不可視的である。それは人間性における理性に過ぎず、あるいは同じことであるが、理性能力に高められた人間性である。

89.義務論では、諸定式の体系だけが、直接定立され、産物は、曲線がそれら〔諸定式〕の機能においてほとんど現れないように、現れない。

90.最後の二つの叙述〔徳論と義務論〕は、したがって、最初の叙述〔善論〕を引き合いに出し、それら自体としては不完全である。

91.それらは必要に応じて生じたのである。徳論は、個人の理性を隷属させる見解に対する論争である。なぜなら、この見解は、人間を傾向性の体系と見なすが、徳論は、これに対して人間を、諸々の徳の有機組織として立てるからである。したがって、徳論は論争的なのである。

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92.義務論も必要性に根拠を持つ。なぜなら、各人の中に先の誤った見解〔人間を傾向性の体系と見なす見解〕が起こり、あらゆる瞬間に完全に指導可能な倫理的プロセスの静穏な進展において彼を妨げることがあり得るからである。

93.客観的形式から最も主観的な形式への歴史的移行は、後退ではない。なぜなら、そのようなあり方の最初の試みは、貫徹されなかったし、貫徹できもしなかったからである。倫理的プロセスにおける前進する活動は、先ずは物質をこちらへもたらさねばならなかった。

94.徳の形式は、技術的関心から生じる。倫理的プロセスにおいて成果をもたらす働きをすべき人はどのようでなければならないかということを、それは示すからである。

95.義務の形式は、批判的関心から生じる。それが、倫理的に実在的なものと、倫理的に空虚なものとして示されるべきものを分けるからである。

96.したがって、徳の形式は、生産的な時代の自然な産物であり、義務の形式は、空虚な反省の時代の業である。

97.自然と理性が一つであるような存在は全て、したがって、全ての徳は、最高善の叙述においても現れなければならない。

98.義務の本質、すなわち、どの倫理的行為にも、倫理的プロセスの全体性への関係が存在しているということは、客観的叙述においても現れねばならない。なぜなら、全ての有機的要素は、ただ全体性に対する関係において、また関係と共に定立されるからである。

99.したがって、下位の叙述が、高位の叙述と並んで存在しているということは、学問の制約的な状態を示している。すなわち、理性存在の制約された形式を自然において単独で眺めるという必然性である。

100.外へ向かう理性的個人の叙述としての徳論は、倫理的小宇宙の叙述である。

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101.理性的なモメント〔瞬間/契機〕の叙述としての義務論は、倫理的プロセスにおける無限に小さなもの、要素の叙述である。

102.最高善としての倫理的なものの叙述は、諸形式の全体性としての自然の叙述と並行している。

103.徳論は、諸力の体系としての叙述と並行している。それもまた技術的関心から成立し、そこにおいて世界もまた暗に定立されるに過ぎない。

104.義務論は、諸々の動きの全体性の形式の下での叙述と並行している。それは受動的見解の産物でもあり、そこにおいて、諸力の特殊なものも終には消滅する。

105.全ての倫理的形式が、ただあらゆる徳の全体性を通してのみ生じるということを、徳論が示す限り、徳論は理解される。

106.全ての倫理的行為自体が、全ての倫理的形式の全体性への傾向性をもつということを、義務論が示す限り、義務論は理解される。

107.最高善としての叙述は、その形式に従って、禁欲的有用さを要求することはない。他の二つ〔徳論と義務論〕も同様に、そのような要求をほとんど持たない。

108.最高善の叙述が必然的に先行しなければならず、徳論と義務論がそれに続く。

 

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