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シュライアマハー『倫理学講義』1812/13

最終更新日2001218

18

最高善について

序論

1.倫理的プロセスは、理念的原理が、実在的原理に、完成された意識、すなわち認識の形式の下に、理性として内在的に与えられた後に、初めて始まる。

2.根源的合一の最小値−それと共に倫理的プロセスが始まるのだが−とは、そこにおいて自然が理性の器官であるような合一の最小値である。〈19〉すなわち、それを通して理性方の残りの自然に働きかけるような最小値である。

3.そのプロセスは、ただ理性の活動から生じる根源的合一の拡張と増加であるかぎり、したがって、そのプロセスは、全自然が理性を通して理性の器官となることによってのみ完成される。そして、理性の活動は組織化することである。

4.しかし理性は認識以外他の存在を持たないのである限り、自然に対する理性の働きかけや自然との合一も、自然の中に認識が入り込んで形成されることに過ぎない。

5.自然における理性が、ただ生の形式の下にあるに過ぎず、相対的に単独で定立された存在と、共同的に定立された存在の同一性におけるどんな生も、相互にあるいは〔時間的に〕前後に、自分自身に受け入れたり、自分から樹立したりすることに過ぎないのである限り、理性の存在もまたこの対立の下に属する。そして、印象付けという認識は、受け入れるだけの〔非生産的〕狭義の認識であり、より生産的な認識は叙述である。これは序論70と一致する。

6.理性の二つの主要な機能、組織化の機能と認識の機能は、実際には分けられず、いずれの行為も唯一の機能に包摂される。なぜなら、器官形成とともに認識が生じ、どの認識によっても新たな器官が定立されるからである。したがって、あらゆる叙述と共に認識が生じ、器官は全て同時に象徴である。

7.しかし私たちはそれらを意識的に抽象によって孤立化しなければならないが、それは、後により完全な生き生きとした直観にいたるためである。

8.両者は現実性においては結びついているので、学問的叙述において、両者の間に優先性というものは存在しない。諸器官は使用によってのみ形成されるし、認識は、器官を通してのみ生じ伝達される。

20

9.自然はそもそも理性の器官である。しかし、この器官は個性という形式においてのみ存在し得るが、その個性は普遍と特殊の対立にのみ基づく。したがって、この対立に理性が入ることも合一の根源的なものに、あるいはその本質的な形式に属する。

10.理性が普遍的なものとしては人間性に内在し、独自なものとしては個人に内在するというこの二つの要素は、現実においては分けられない。なぜなら、普遍性の性格なしには、存在は理性的存在ではあり得ないし、特殊性の性格なしには、行為は自然的なものではあり得ず、各人においては、ただ一方のみが現われ、他方は抑圧されて後退してしまうからである。

11.抽象においては、それらは分離されねばならない。しかし分離の後で、各人に対し対立する性格が、従属的なあり方で押し付けられねばならない。

12.後者の対立は形式的な対立として、質料的な対立としての前者の対立に干渉する。したがって、普遍的な性格が優勢な組織化の行為と特殊な性格が優勢な組織化の行為が存在する。認識の行為についても同様である。

13.普遍と特殊の対立は段階付けによって媒介されるので、このことは、自然を通してそこに与えられた全ての段階に妥当する。

14.個性における独自性は、理性の根源的存在を通して自然の中に置かれ、最小値として与えられる。同様に、個性が独自性へと形成されることによる独自性は、到達され得ない最大値である。しかし、所与のあらゆる状態には、個性と独自性の差異が定立される。

15.独自性を度外視した個性は、空間的時間的制約だけを含んでおり、これは〈21〉理性の根本本質を破棄するので、その行動において個性は定立されると同時に破棄されねばならない。

16.これは、時間の形式において共振(Oscillation)を通して起こり得るに過ぎない。この共振(Oscillation)は、上(5、序論70)で示された認識から叙述への移行、及び、器官から象徴への移行において起こる。

17.独自性の性格は個性には結びついていない。なぜなら、同一的なものも人格にあるに過ぎず、諸々の人格の大多数において同一である独自なものが存在するからである。そうではなく、同一的なものと独自なものとの対立は、有限存在の形式にあり、その存在は、統一性と多数性の相互浸透においてのみ与えられることができる。

18.個々の意識の形式の下で、個性自体の中にある、空間と時間におけるあらゆる理性的活動の制限は、次のことを妨げるだろう。扱われるものが、理性自体、すなわち、認識という形式のもとにある観念的原理の総体のためにそこにあるのを〔妨げるだろう〕。もし、個人的意識に対して、人格の総体における理性の統一性の意識が共に与えられることなく、それによって、全ての理性活動が、諸々の人格の絶対的共同に対する関係を獲得するならば。

19.あらゆる理性活動の統一性は、したがって、次のような契機の二重性の上に落ち着く。すなわち、その一方の契機には人格性が定立され、他の契機においては、自然的生における受容や排除の類比にしたがって、この行為のための共同へと歩み出ることによって、再び〔人格性が〕破棄されるのである。

20.現実には、両方の契機は決して分離されることなく、それらの共存においてのみ一つの行為が与えられる。しかし、ある行為においては一方の契機が、ある行為においてはもう一方の契機が支配的であるという具合である。

22

21. この二重性は、器官を形成する活動においては組織化と象徴化の共存にあり、認識行為においては認識と叙述の同一性にある。

22.他ならぬこの相対的な現われゆえに、完成された学問的叙述はここでもまた先述した抽象によってのみ伝達される。

23.同一性と独自性という二つの性格は、実在においても常に結びついている。なぜなら、最も独自なものも常に同一性―それは諸要素にあるか、その結合にあるかのいずれかだが―を基礎に持っているからである。この基礎がなければ、伝達ということはあり得ないだろう。また、本質的に全く同一的な行為にも独自なものは存在する。たとえそれが最小値であったとしても。

24.したがって、これら個々の諸点のいずれにも完全な倫理性が呈示可能である。その際、すべて他のものも一緒に叙述に現れねばならないが、しかし、他ならぬ一面性を形成する対立するものは、制限される。文化としての倫理性は政治的見解、知としての、理論としての倫理性は古代の見解、独創性〔天才〕としての倫理性は芸術的見解、合法性としての倫理性は法的見解、完全性及び幸福としての倫理性はフランス人の見解、社交及び共感としての倫理性はイギリス人の見解である。

25.対立する部分は、他の部分なしに一方だけを理解することはできない。しかし、抽象なしに直観は個別の直観として完成され得ない。したがって、必然的に先ずは、連関にとどまっている一般的な概観が先行しなければならない。その後に個をさらに追求する根拠が生き生きとした直観に置かれるのである。

 

23

1部 一般的概観

1.組織化〔有機化〕の機能から始めなければならない。なぜなら,それは,たとえ最小限の合一がすでに与えられているとしても,相対的に,自然への理性の参入を表わすからである。

2.根源的な有機的体系は私たちに至るところで与えられているように見える。しかし私たちはそれを、個々の人間自身が正に倫理的行為から成立するのと同様、理性活動の結果と見なすことができる。

3.器官の生成において、最初に示される独自な人間的要素は、次のような訓練、すなわち、それによって器官の生成が継続されるような訓練である。たとえ自然の側からその崩壊はすでに再び始まっているとしても。これに対して獣における完全化は、自然的成長の領域に限定される。

4.身体として与えられる人間性と、生の素材として与えられるその他の人間性の相対的対立は、器官形成のプロセスにおいて徐々に破棄〔止揚〕される。

5.地球自体も、地球上に単独である何かも現存しない限り、そのプロセスも地球に限定されることなく、他の諸々の天体の諸力や影響が、共に引き入れられる。

6.しかし、人間性が地球の産物に過ぎず、地球自体が宇宙の体系の産物である限り、地球も宇宙体系も器官にはなり得ない。

24

7.組織化の機能の境界線は、認識機能である。なぜなら、地球や他の天体の統一性が器官になるのは、それらが認識されることによってであり、その限りだからである。

8.私たちの存在はただ意識として与えられ、認識活動が根源的に定立される。しかしまた根源的な意識も、§2に従ってただ理性活動の結果と見なされねばならない。

9.広い意味での認識の根源的人間的形式は、主観と客観、すなわち感情と直観とが離れ離れに現われる特定の現われ方である。そこにおいて人間は一人の自我となり、その外部にあるものは、諸対象の多様性となる。それで私たちは獣には、真の自己意識も諸対象についての真の知も帰さないのである。

10.自己意識における対象の現われは、自由の常に更新される根源的行為である。対象における自己意識の現われは、献身の行為である。

11.直観における諸対象の個人(Persoenlichkeit)に対する関係は、感覚的表象において支配的であるが、(人間性と一般的自然との根源的一致による)本来の認識への導入に過ぎない。またそのような導入としてのみそれは倫理的で人間的である。しかし真の認識は、個を、全体性に対する関係において、したがって普遍と特殊の同一性において把握することである。それによって、個人の理性が個々の事物と一つになることにおいて、同時に、理性全体と、自然全体の同一性が与えられる。

12.混乱した客観と主観の分離は、両者が接触できる限りで広範囲なプロセスの進展である。

25

13.有機的な機能によって多くの客観は主観になるので、主観もまた再び客観になることが可能でなければならない。

14.認識の境界線は、心理的にも物理的にも、最も直接的な諸器官にのみある。それらは、有機化の活動時代に他ならず、したがって、それ自体が意識にもたらされることはない。

15.二つの機能は一つの円環をなし、どちらの機能も他の機能によって限界付けされているので、全ての行為において、両者の同一性がいかに必然的であるかを人は見る。

16.理性の同一性は、個人という形式の下でのその存在に対して、人々の共同を通して現われる。

17.自然の中に存在する理性に、固有なものとしての特殊が備わることは、人々の全体性に対して、人それぞれのかけがえのなさによって表わされる。

18.同一性の性格が、有機化する機能に最も多く備わるのは、その機能の表面的な操作、すなわち、表面的な自然対象を普遍的図式に従って理性的目的へ形成することにおいてである。なぜなら、そのように形成されたものは、その性質のゆえに、この図式を扱うことを知っているすべての人のために存在しているからである。

19.直接的な諸器官も、普遍的図式によって形成される限り、同様に〈26〉次のような結果をもたらす。すなわち、それを用いることを知る全ての人にとって同一であるような結果をもたらす。

20.存在の不可欠な部分としての諸器官によって、そのかけがえのなさは物理的に次のことによって示される。すなわち、それら〔諸器官〕は、人間の領域から出れば必ず失われてしまうということである。

21.したがって、同一性の性格は、普遍的図式を通して有機化のプロセスにおいて明らかになる。そして、この性格を担っているものが、共同的な慣習(=交際)の領域を形成しており、そこにおいて個々人は自分の諸々の要求を、能力や必要によって定めるのである。

22.既に18によって形成された諸々の客観も人の不可欠な部分としての器官によって形成された(20)のであるから、それら〔諸々の客観〕もまた独自性の痕跡を自らに担っていなければならない。

23.この性格が、形成された事柄に多く現われれば現われるほど、それらの事柄は直接的諸器官(20)にいっそう等しいものとなる。

24.独自性の性格は、組織化されたものにおいて現われるが、それは人におけるあらゆる器官の統一性に対する関係を通してである。そして、この関係をもっぱら悟性や意志、感覚や四肢によって自分に担うものが、誰に対してもその人に固有なものの領域を形成する。

27

25.認識機能における同一性の性格は、その行為に伴う次のような要求によって明らかに示される。すなわち、各個人は、この行為をただ正にそのように遂行すれば、ただ正にその結果を獲得するのであり、したがって、同じ条件の下では他の人の行為と全く同じ行為を示すと言う要求である。

26.このような性格は、理性がイデーの体系として現われ、そして、普遍と特殊の共振(Oscillation)という図式の下に、結合の能力として理性が現われるような全ての行為の中に、先ずは存在する。

26.この性格はまた経験的なものの領域にも存在する。しかしその際には、同時に、器官の同一的な形成(19)が前提とされる。

27.このような性格の下に自然において与えられた理性存在の全体が、客観的認識あるいは知の領域を形成する。

28.認識の客観的な行為も全て、実在性においては、動揺する自己意識と結びついている。したがって、私たちはこの意識がなければ、その行為を根源的に産出されたものと見なすことはなく、機械的に模倣されたものと見なす。

29.動揺する自己意識はいたるところで次のようなことについての独自なあり方の表現である。すなわち、理性のあらゆる機能と自然が、特殊な存在においていかに一つであるかについての独自なあり方の表現である。したがってまたこの自己意識は、各人に固有なかけがえのない認識であり、そこから各人は全て他の人々を排除するのである。

30.このような性格の下に与えられた自然における理性存在の全体は、主観的認識や、心情の気分や動きの領域を形成する。

31.普遍的な図式(18)にしたがって形成されたものは〈28〉理性活動にとっては、それが個々人と結びついている限りで、器官として入って来るに過ぎない。したがってそれは、ある個人が定立され、それによって他の全ての個人が排除される限りで器官になるに過ぎない。このような孤立化は破棄されねばならない。

32.この破棄は、正反対のプロセスによって、個人の領域から共同の領域に入れられることによって起こる。

33.両者は本質的に同一である。各個人は自分の存在によって、理性の器官そのものに他ならないからである。しかし、各個々の行為においては、あらゆる相対的な対立においてと同じく、どちらか一方の要素が優越している。

34.これが習得者自身にとって破棄されるのは、次のような随伴する意識によってである。すなわち、自分は常に共同のための作業に携わっているという意識である。しかし全体にとってこれが破棄されるのは、その習得がこの作業によって本質的に制約される場合である。そのように規定された個人の定立は、権利である。

35.固有なものの領域に形成されたもの(2324)は、根源的器官のかけがえのなさという性格を想定するので、そのように形成された自然は、そのような独自性の外に定立された理性全て−その制約は完全に破棄されねばならないのだが−との統一性から完全に切り離される。

36.このことはただ次のことによって起こり得る。すなわち、それが理性全般に認識機能の対象として供されることによって。そのようにして形成されたものによってのみ、独自に改変された理性、すなわち、あらゆる理性の諸機能が個において一つである特殊なあり方や方法が、認識されえることによって。

29

37.このような破棄が、形成するものに対して起こるのは、彼の形成に伴う次のような努力を通してである。すなわち、形成されたものに象徴的価値を与える努力であり、自分の形成を、形成する理性の認識可能なしるしとなす努力である。しかし、〔このような破棄が〕全体性に対して〔起こるのは〕ただ次のことによってである。すなわち、独自な領域の形成が、同じものに対する認識共同体の形成によって制約されることによってである。

38.形成過程全体は、この両方の契機の同一性における倫理的なものの不可欠の構成要素に過ぎない。

39.孤立化された習得(Aneignen)においては、純粋に人間的な性格は失われるが、それは暴力という形式、すなわち、自分の他に個人を承認しないという形式の下でなされる。

40.孤立化された引渡し(Hingeben)においては、純粋に人間的な性格は失われるが、それは、怠惰、すなわち、自分の個性を定立しないという形式の下で起こる。

41.しかし両者は、矛盾を内包している。

42.同一的な習得が、引渡しによって共同の中へ制約されるあり方が、権利の状態を形成する。独自な習得が引渡しによって直観の中に制約されるあり方が、社交の状態を形成する。

43.知が先ず個人の意識において自らを生み出す程度に応じて、その他の理性が排除される。したがって、知が個人から出て共同体に入っていく方法が存在しなければならない。

44.客観的な知が表面化したものが語りである。

45.両者〔知と語り〕の同一性は、認識する者自身にとって根源的同一性である。認識というものは、〈30〉内的言語としてのみ成立し、内的言語は常に外的な語りの微分だからである。

46.認識は他の全ての認識との結びつきの中に定立されることによってのみ固定化されることができ、これは言語の領域による生き生きとした遂行においてのみ生じ得るのだから、この同一性は、そこでもまた全体性のためにある。

47.個人の定立と破棄の同一性は、認識の産出と伝達の本質的同一性の中にある。

48.したがって、この領域は、単により厳密な学問的領域だけを包括するのではなく、生におけるあらゆる経験的伝達をも包括する。

49.自己意識は、個人の中に閉じ込められるなら、倫理的行為ではない。なぜなら理性はそこでは自然のポテンツの下にあるからである。したがって自己意識は、これを止揚する反作用によってのみ生じることができる。

50.自己意識は、客観的なものと同様に、認識として外的にならねばならない。しかし、それは、独自なものとしてのみ客観的認識との共同に入ることができる。

51.他者に認識される為に、自己意識が外的なものとなるのが叙述である。そして、自己意識の倫理性は、刺激された存在と叙述の同一性にある。

52.この領域は、厳密な技法の領域−そこでは客観的なものは全て主観的なものの叙述に過ぎないのだが−のみを包括するのではなく、刺激された生の無形式な伝達全てをも包括する。

53.普遍的図式に従って形成する人は全て、自分の独自性を伴いつつ生成する。そして、どの思考するものにおいても独自性を共に考える。同様に、完全な所有物も最初から単独で形成されるわけではなく、〈31〉その成立は、同一的な形成過程に基づいている。そして、動かされ刺激された状態は全て、客観的表象を伴って同時に私たちに触れてくる事物を通してのみ到来する。したがって、同一的領域は、同時に独自なものに他ならず、独自なものは、同時に同一的なものに他ならない。

54.したがって、相対的な対立の実在性は次のことに基づいている。すなわち、端的な共同や端的な所有物が存在するわけではなく、共同的な所有物と独自な共同、あるいは独自な知、同一的な興奮状態と興奮の独自性〔といった対立である〕。

55.個人は、自らを定立する時に、これを自分の全本質を伴いつつなす。すなわち、自らを破棄するという傾向をも伴いつつなす。また、自らを破棄するときには、これを自らを定立するという傾向をも伴いつつなす。したがって、どの定立も破棄しつつする定立であり、どの破棄も、定立しつつする破棄でなければならない。同じことは全領域で言える。すなわち、共同的な所有と所有された共同性、全て固有なものを社交的に形成し、また全て社交的なものを固有性が形成する、全ての心情の形成を叙述しつつ、あらゆる叙述を心情が動かす。

56.倫理的プロセスの全体が、自然への理性の参入によって根源的に始まるわけではなく、理性は既に自然の中に存在しているものとして見出されるので、対立の諸要素の相互参入も開始するのではなく、〈32〉始めから既に見出されねばならない。そして、この所与が倫理的プロセスの基礎でなければならない。

57.〔理性と自然の両〕諸機能の根源的な相互存在は、魂と身体の同一性、すなわち個人自体に与えられている。したがって、それ〔魂と身体の同一性あるいは個人存在〕は、同時に倫理的プロセスの結果と見なすことができなければならない。

58.個人自身が倫理的プロセスの結果であるというそのあり方は、個人の定立と破棄との全ての同一性が依拠する基礎でなければならない。

59.個人は、性の共同における産物として倫理的プロセスの結果である。そして、この共同において個人の定立と破棄との根源的同一性が存在する。

60.家族において、家族を通して、55で要求された全てのことが実際に定立される。

61.同一的なものと独自なものの相互浸透的存在全てが基づく基礎は、魂と身体における同一的なものと独自なものとの根源的な相互浸透的存在でなければならない。

62.もし同一性と独自性とが絶対的であるならば、全ての人間は共同性との関係で同質の塊を形成しなければならないことになる。しかし、独自な共同性、また共同的な独自性は、分離された領域の二重性においてのみ存在可能である。

63.これらにあるのは、気候的な差異や人種、種族、個々の国民性における最小値、あるいは自然的諸条件である。

64.この家族から上昇していく段階の中に、54で要求されたもの全てが定立される。

65.人が抽象にとどまり続ける限り、個々の観察にとっては、個人自体だけが根底に置かれるべきである。もし生き生きしたものが直観されるべきであるなら、〈335963で定立された自然的条件から出発しなければならない。

66.国家は、所有された共同であり、共同的な所有である(55)。そして、その組織のより詳しい独自性としての国民性と密接している。

67.学問的な協会は、言語形成的な認識(55)であり、領域の同一性に密接している。

68.自由な社交は社交的な所有物(55)であり、様々な圏を把握する。その最も広い圏は、ただ形成の歴史性を通してのみ限界付けされるように思われるが、それは活発なまた不活発な種族が、互いに社交に入ることはできないということによってである。

69.教会は興奮状態と表現の独自性である。というのは、すなわち、感情の最高の段階は宗教的感情であり、あらゆる芸術〔技法〕の頂点も、宗教的芸術だからである。その自然的条件を規定することは最も困難である。

70.次のことは理解できる。すなわち、その性格が優勢な同一性である相対的領域の自然的点が、独自性という性格を持つ領域よりもはるかに容易に固定化されるということ〔は理解できる〕。

71.家族は4つの相対的領域−それらはさらに広く広がることによってはじめて分離するのだが−全ての萌芽を含んでいる。

72.個々の国家や言語等々は、再びより高次の意味での個人である。したがって、それらの共同によってのみ理性の全体性は叙述される。

73.しかし、この共同は、人類の統一の下以外、いかなる高次の特定の形式一般の下に包括されるべきではない。

74.これら諸領域のいずれもが、一面では、全て倫理的なものを自分の中に捉えていると見なされる。根底にある公式のように。どの領域もある意味で、全て他の領域を自分の中に持っている。すなわち、国家、どの程度までそれらが表面的な存在を持つか、〈34〉教会、どの程度までそれらが心の態度に基づくか、学問、どの程度までそれらが同一的な媒体を持たねばならないか、普遍的紐帯としての自由な社交、そして、全ての個々の国家等々は、自らの下で、ただ自由な社交の関係にあらねばならない。

75.個々の叙述を国家、教会、学問的一般的な社交団体といった大きな形式に限定することは、人がその生き生きとした生成を直観しなかったなら、理想的なものを与えるだろう。

76.同様にしかし、その叙述は、その大きな形式の生成全ての状態や個々の全ての姿を論じ尽くすことは殆どできないだろう。なぜなら、その場合にはその叙述は歴史的なものを一緒に含んでしまうからである。その叙述はただ多様性の原理だけを一緒に把握しなければならない。そして、その他のものは批判的な諸学科に委ねるのである。

77.このようにして、倫理的プロセスにおける前進を示している全ての経験的なものはその場所をその叙述において見出すだろう。しかし、そこにおいてこの前進が破棄されているようなもの、すなわち悪は、一般的なものにおいて直観されねばならない。

78.善の非存在と悪の存在の差し迫った差異は、もし人が合一のプロセスを統一と見なすならば、それを人は見出すことができないのだが、その差異は、その合一のプロセスの分裂−機能の差異と、性格の対立とへの分裂−から理解できる。同一の主観において一方の機能において定立された倫理的なものが、他方の機能においては定立されないというのは悪である。

79.組織〔有機〕化の機能において定立されたものが、認識の機能において定立されないという場合にこれは正に当てはまる。その逆も同様である。同じことは、対立する性格や契機にも当てはまる。

80.一般的な意志に対して個々の意志が衝突することに悪を定めることは、不当な公式である。なぜなら、倫理的全体の前進はすべて個々の衝突から生じなければならないからである。

35

81.個々の存在は、共振(Oscillation)の形式における諸々のモメントの系列からなっている限り、以前のモメントに存在したものは、もう一つのモメントに定立することはできない。そしてこの非定立も経験的良心−それは諸々のモメントの系列において倫理的意識の平均を表わしている−の前では悪である。

 

2部 各論

T.有機化機能

1.      一般的概観

1.有機化の機能は、認識の機能によってのみ理解されるべきである。全て自分の中に取り入れたり、自分の外に立てたりすることが、イデーに対する連関を保持すべきであるように、有機的行動に対しても、その個々の契機や結合において、この方向性が刻印される。この性格が生成において把握される限り、それらは純粋に人間的なものに過ぎない。

2.動物的なものとの類比から見ると、有機的機能の継起的上昇における本質は、イデーのポテンツに固執する。

3.受動性と自発性として見なされた有機的機能は、したがって、全ての感覚や才能の理性による形成であり、それによって、理性の中に、その自然における存在の可能性として定立されたもの全ては、自分の器官を獲得する。

4.個人は合一の開始点に過ぎず、有機化は、ここから、習得によって、外的自然の上にも広がっていくべきなので、自然は〈36〉粗野な素材と見なされるべきである。このことは、この側面から混沌の神秘的表象を説明する。

5.外的自然にから、非有機的なものは、最も直接的に形成能力や形成欲求として有機化の機能に属している。これに対して有機的なものは、既に形成されたものとして認識機能に属している。[...]

6.超自然的なものが、地上的な力になる限りにおいてのみ、その存在にしたがって自らを認識可能なものとし、その認識されたものを有機的に利用できるするように、すべて地上的なものも、その認識されたものに従って器官として用いられる。

7.悟性と意志―それらもその形式に従えば器官であるのだが―からの直接的感覚と才能の理性形成は最も広い意味での体育である。

8.そこでは、悟性と意志とがその形式に従って形成されることのみが可能であり、同時に、認識と叙述の内容がもたらされることにより、有機化の機能と認識の機能の同一性が直接直観される。

9. イデーへと強まる為に、恣意的でない自然的器官は高次の生の中心から遠く離れているその程度に応じて、その器官は体育の最後の目的を形成する。

10.非有機的自然を感覚や才能の道具に形成することは、最も広い語義における機械学(Mechanik)である。

11.機械学は認識する機能と相互作用の関係にある。なぜなら、認識されたもののみが形成され得るからである。したがって同様に機械学は体育とも相互関係にある。なぜなら、形成された直接的器官のみが、間接的器官を形成可能であり、また間接的な器官が再び直接的器官の形成を助成するからである。

12.より低次の有機的自然を、高次の有機的自然に対して有用な関係に形成することは、農業という最も普遍的な要素によって特徴付けられる。

37

13.個々の存在を破壊することは、それが、〔その個の属する〕ジャンルの保持や向上に対する活発な関与と結びついているだけであるならば、有機的自然の神聖さを冒すものではない。

14.ジャンルに対する個々の存在の関係がまだ認識されていないところでは、恐れ〔臆病〕もその個々の存在に達しているか、あるいは、有機的自然の神聖さがまだ意識化されていない。

15.全ての事物−有機的なものであれ無機的なものであれ−は、その個別性において普遍がその全ての段階において直観されることにより、装置あるいは小宇宙として編成されることを通して有機的に使用可能となる。

16.この部分は、同様に先の二つの部分と相互作用の関係にあり、有機化の機能と認識の機能の同一性を表現する。

17.もし人が理性内容に向かう内向きな傾向を除去するならば、この内容を通して必然的に結びついていたものは崩壊する。1)直接的器官の形成(職業教育Ausbildung)と間接的器官の形成(仕込むことAnbildung)が対立するようになるが、それは個人との関係で、各人が一方によりいっそう傾斜すればするほど、それによって他方は代用可能と考えるようになることによってである。この対立から強壮な生の様式と自堕落なそれとの対立が生じる。2)より多く外部へ向かう機能の形成、熟練や器用と、より多く内面に向かう精神的能力の形成とは、それぞれ単独で何ものかとなる。そして、一方の形成の過剰は、個人の幸福のために、他方を代用できる。

38

18.もし人が外へ向かう傾向を除去するならば、内向きな傾向は無に収縮し、理性は剥き出しの裸で、自然において何も伴わず、何にも向かわないだろう。然り、悟性と意志の形成も矛盾したものとなる。なぜならそれらも確かに外的なものだからである。そして、人がそれらを定立するならば、人間自身と、人間の外に定立されたものとの間に、差異を確定することができなくなってしまう。

19.自然に対するキニク派とストア派の論争は前者の崩壊状態〔171〕に関係している。そこでは外的機能の過剰が、重苦しい依存状態になっており、人間は事物において失われている。しかし、引き返す論争は不毛で受動的となり、認識機能を実在的なものや経験的なもののために持ち出すこともできない。

20.文化に認識の欠如と臆病を帰する最近の論争は、熟練の崩壊〔172〕と関連している。そこでは大衆は機械的な仕事によって高次の意識を失っている。また、欲望の内容とも関係している。それはただ残っているだけだが、それからあらゆる手段によって救われることを望んでいる。

21.機械学と農業とは、その結果として、私たちが富と呼ぶもの全てを自らの内に包含している。したがってこの富は、客観的に見て、軽蔑されることは許されない。この論争が問題にできるのは次のことだけである。すなわち、もしその結果が活動なしに求められる場合、あるいは、各人がその富に価値を置くのが、それが自分個人と結びついている限りであるとする場合である。これは主観的な側面である。

22.文化に対する論争全ては、何らかの仕方で、強く表出している欲望内容と関係している。これはしかし、排他的傾向としては全く不自然である。したがって、〈39〉最も表面的な仕事からも、完全な無関心や倒錯が支配的でなければ、その仕事に対する純粋な欲求がいたるところで展開する。

23.諸活動や能力は、課題自体と同様に、無限の中へ分割可能であるので、まだ非常に小さな才能であっても、それが自分の精神において、関心を持って行使されるなら、倫理的活動を表示する。仮に全体との連関の意識はまだはっきりしていないとしてもである。これに対して、最も重要な才能も、この条件がなければ非倫理的な活動を示すに過ぎない。

2.対立する諸性格において

a)支配的な同一性について

α)全般における

24.同一性の性格は図式において示される。すなわち、客観的な知は、それ自体が定立されることによって、全ての人に妥当するように定立されるように、全ての形成活動も、全ての人によって同一のものと見なされるように定立される。

25.ここから次のことが結果する。この図式の痕跡を自ら担っている全てのものは、人格から始まって、全てのその働きを通じて形成されたものと認められ、したがってまた粗野な素材として要求されることはない。

26.懐疑的方法への傾向は、ここでは個人に囚われていることを暗示している。個人の理性は、自らを個人の外にも求めなければならない。そして、その再認識を愛を持って信頼しなければならない。

27.この承認は、それが形成されたものを形成のプロセスから排除する限り、あらゆる法〔権利〕の基礎である。

28.さらに次のことが結果する。個人における理性は、全ての人における同名の才能を、〈40〉自分自身と同じものと見なす。したがって、次のことが定立される。どの器官も、その理性によって利用されることが可能であり、同様に、その理性の器官が他の理性によって利用されることも可能である。このような要求は、それが個人に対する全ての排他的な関係を破棄する限り、あらゆる共同の基礎である。

29. 権利と共同の両者は、同じものから生じるように、それらはまた互いに制約し合っている。前者は形成されたものの存続に、後者は継続教育の行為に関係していることによって、また、形成なしに形成されたものは存在しないし、既に形成されたものを前提としないような形成はないということによって。

30.どの人も、自然における理性存在の外的な仕方での叙述として、(すなわち、独自性を形作る内的原理は度外視するとしても)、諸々の外的ポテンツの様々な影響によって制約されている。そしてこの制約は、道徳的活動のどの点においても所与の制約なので、それはある一方の方向へ、他よりもより多く作用することができる。

31.形成する活動が個人に関係するならば、この制約を破棄することが目指されねばならない。なぜなら、人間の諸々の必要はあらゆる領域で同じような形式で撒き散らされているからである。もし形成する活動が、理性全体に関係させられるなら、先の制約は(個々の器官の自然な規定として)その同じものの図式となる。そして、これが仕事の区分の基礎である。

41

32.この区分は、あらゆる文化領域を貫いているが、個々の才能が趣味や個人的性癖として現われるような装置の領域において最も強く、体育において最も弱い。なぜなら、誰もが自分の器官の完全な所有に至ることを求めなければならないからである。

注釈。自然的制約は、個人的組織体が形成の主語である限り、定立され確保されねばならない。個人的組織体が形成の客体であるならば、その程度に応じて自然的制約は破棄されるか制限されねばならない。

33.各人は、ある場合には理性の代表であり、ある場合には理性の器官である。各人が理性の代表として仕事の区分を得ようと努める程度に応じて、各人は、理性の器官として、理性活動全体による保持において確かでなければならない。

34.仕事の区分によって、必要と技能の釣り合いが破棄される程度に応じて、その保持はそれによって危機にさらされる。

35.優勢な活動の諸々の産物は、個人の圏から出てこなければならないし、保持の手段は入ってこなければならない。

36.形成された器官と形成する器官との間の相対的な対立を考慮することにともない、仕事の区分は、交換の可能性によって制約される。そしてその交換は、事物を引き離し得るということによって制約され、また、一方の有機的能力を他方の目的のために用いる可能性によって制約される。

37.そのように制約された交換の中に、権利と共同の同一性がある。理性と、理性の代表としての個人も、全てが再び交換に至ることが可能であるなら、個人的権利を承認できるに過ぎない。理性の器官としての個人は、〈42〉彼が理性から全体の承認を伴いつつ受け取る限り、共同にのみ専心できる。したがってまた、彼が同じものを再び受領するか、あるいは、その専心を客観的な理性目的のために必要なものとして承認する限り、人は個々においても専心できる。

38.あらゆる伝達の可能性が、図式の同一性に依拠するように、その現実性は説得に依拠する。すなわち、ある人自身にではなく、他の個人の中に成長したある振舞いが、そのプロセスの本質的要素として承認されるべきであるような場合、伝達の現実性は説得に依拠する。

39.伝達の現実性は、個人が自分の個性の圏を減らすべきである限り、貨幣という概念においてのみ完全に現実化されるものとの等価に依拠する。

40.貨幣と品物は相関概念である。貨幣は、それが品物ではない程度において貨幣である。したがって、貨幣が歴史的に殆ど至るところで、貴金属において実現しているとするなら、それは、貴金属が文化の過程において直接持つようになった価値に依拠するのではなく、その理由は他に求められねばならない。貨幣が硬直や輝きその他そこにあるものの結合であったとしても。

41.貨幣と説得も相関概念である。そして、貨幣はしたがって、そこに説得が−貨幣を等価と見なすために−属していない程度において貨幣である。

42.〈硬貨〉と〈距離がもたらす不確かさを調節する両替〉とは、貨幣の極致である。紙幣や貨幣としての言葉は、すでにこの極致の下に沈んでいる。

43.各人は常に同時に両者、代表であり器官であるので、どの交際も両者、貨幣と説得に基づいている。しかし、非常に異なった関係においてであるが。

44.Aが等価に反対して、Bの個人的圏内に入ることを許すことにより、彼〔A〕はBに、〈43〉引き渡された事柄についてのさらなる方策に対する責任を譲渡する。そして、Bの側からは、彼Bpersona turpisではないという以外、Aの説得がそこに属することはない。

45.説得は一方において、代償を押し出すことによって確かさが減少すればするほど、増大する。

46.BAを、Bの個人的な圏によってのみ存在し得る行為のために直接的有機的に活動するように説得することによって、その間、Aの個人的な圏のために中断された活動の代用以外の貨幣は不要である。

47.貨幣もなく、納得もしていないのに、所有から出して渡すことは非倫理的である。それは平凡な善行として弁護されるのはただ次のことによってである。すなわちa)仕事の区分においてある人は制限され、他の人は優遇されていると仮定することによって、b)全体を通して等量を受け取ると仮定することによって。善行はただ取り引きと見なされるべきである。

48.金銭の観点からのみ出発するものは、説得の最小値より大きいものによって汚される。説得の観点から出発するものは、金銭の最小値より大きいものによって汚される。(詐欺と買収)

β)個人の共振(Oscillation)における

49.個人の中への受け入れは取得であり、外へ出すことは断念である。

50.個人の成長においては、文化のプロセスの始めから起算すると、取得の優勢が定立される。なぜなら、個人的な諸領域はほとんど触れ合わないからである。

51.十分成人した状態では、釣り合いが可能な活動の程度によって規定され定立される。それによって、どの個人も、自分の圏の同一的な完全において保持される。

44

52.この釣り合いは、諸々の個人の拡大と収縮の共振(Oscillation)において相互的に現れることのみが可能である。

53.これ〔共振(Oscillation)〕が、均衡状態に近づけば近づくほど、文化状態は完全になる。ここにも様々な部門における相対性がある。

54.個人の領域としての文化の定立と共有財産としての文化の定立が同一的であり(2937)、すべての人が各個人的領域の定立を自分の行為と見なし、各人がおよそ形成されたものの定立を、共有財産としての自分の領域にとっても、自分の行為と見なす限り、そこに契約という状態がある。

注釈。個々の契約や交易行為すべては、先ずはそのような状態に依拠する。なぜなら、そのような状態無しには、この種の申し出は考えられないからである。

55.個別領域と共有財産との間にある相対的対立は、始めは緊張関係にあり、次第に離れ離れになっていく。所有と共有とがはっきりと離れ離れに現れ、また相互に結びつく以前に、ここには先ず所有を伴わない共有があり、あちらには共有を伴わない所有がある。

56.このような様々な状態が同時に地上に存在するので、ある人が、すべての人と一つの同一的契約状態になることは不可能である。したがって、この状態が一様なものとなり、この状態の全体に対する関係を媒介するようなより狭い領域が必要となる。

45

57.契約の不完全な状態から徐々に完全な状態へ移行していくことの中には、それによってその〔不完全な状態の〕領域が狭められ、不完全な形式が終わるようなものは何もない。

58.気候的な差異によって、文化プロセスの形式は必然的に異なるので、唯一のプロセスが全てのプロセスに対する仕事区分の関係において生き生きと考えられるということはできず、同一の形式の一領域によって媒介されるだけであり、それによってその領域のために、決定的な原理が独自性の要因においてだけ求められるべきである。

59.したがって契約状態は、国家によるよりも早く完成されることはない。国家の法的に定められことと、契約の完成とは同一である。

60.金銭と納得とは全ての条約の動機であり、同時に国家の枢軸である。後者〔納得〕は立法の条件であり、前者〔金銭〕は、行政の条件だから。

61.納得は、諸々の同一的表象の集積に依拠し、形成活動は、ここでは、認識活動に依存する。

62.この集積は、全ての個々人から、あらゆる方面に徐々に減少していく。そして彼はすべての人に対する納得の等しい関係において考えることができなくなる。

63.この徐々に減少していくことは、混沌とした減少であり、それを対立によって組織化する努力、すなわち、より広い領域の中に、再び独自な共同であり得るような、より狭い領域を定める努力が必要となる。

64.金銭はその厳密さによって承諾の確かさに基づいているが、それ〔承諾〕は全世界に広まって与えられることは不可能なものである。

46

65.ここには恣意的な境界によって設定された領域が十分存在しているように見える。(たとえ所有の保証に国家を関係させる多くの人が、国家を考えに入れるとしてもである。)しかし人は、なぜそのように境界が設定され、他のように設定されないかという根拠に常に駆り立てられる。しかし、これはただ独自性の領域にあるにすぎない。

66.したがって全て見出されたものは、それ自体では不完全である。そして、その完成は、同一的要素と独自な要素との結合によって初めて期待される。

b)独自性の性格について

α)全般における

67.独自性の性格とは、主観の形成活動においては、その活動がそれによって他の主観の活動ではあり得ないような性格であり、形成される器官においては、その器官がそれによって他の主観の器官ではありえないような性格である。

68.独自性は同一性と別の領域にあるわけではなく、両者共に同じ領域にある。したがって、実在性のいたるところで相互に浸透し合っており、ただ多いか少ないかである。したがって、独自性は、あらゆる形成活動及びその諸々の結果においてのみ、主観の差異に対する関係である。

69.もしある器官においてただ図式の同一性のみが私に立ち現れるならば、それによって私がそれを〈47〉私のものではないと認識する手がかりは何もそこには定立されない。そしてこの混乱は全ての個人的諸領域を破棄してしまうだろう。同様にもしある形成されたものにおいてただ移行不可能性、すなわち疎遠な性質だけが私に立ち現れるならば、それによって私がそれを形成されたものと認識する手がかりは、そこに何も定立されないだろう。

70.ここで根源的なものとして定立されねばならない最小値は、したがって、人間的有機組織の個別性と共に定立された差異、すなわち、獣的なポテンツよりも高次のポテンツにある他の全てのものの差異である。

71.同じく最も低い概念の下にある他の全てのものと、獣の差異を私たちは、個々の諸々の機能に対する外的な働きかけの産物として定立する。したがってその個人性は本質的に不完全である。

72.人間においてこの差異は、ここの才能相互の関係ではあるが、しかし、外的作用に基礎付けられるものとしてではなく、内的原理に基礎付けられる。この原理は、同じ関係を外的作用無しに、それに抗して、常に生き生きと再生産する。

73.したがって、独自性は、ここでは才能の特定の調和に存する。

74.独自性は、あらゆる完全な行動においても、またあらゆる結合においても、あるいはある結合から他の結合への移行においても同様に現れる。

75.活動がこの〔独自性の〕性格の下に付着している根源的所与は、気質である。それは諸々の対象との交流の経過において傾向性の体系へと形成される。

76.しかし、形成行為における独自性、理性の独自性とその活動は、倫理的形成過程に関係させられることによって、気質は性格に、傾向性の体系は独創性に高まる。〈48〉そして両者の共存は、有機的側面から見られた倫理的個体の完成となる。

77.外的自然によって教え込まれたものは、教え込んだ器官の性格を受け取る。したがって、同一的な図式あるいは他の独自性に作り変えられること無しに、すなわち最初の形成の破壊なしに器官は別のものになることはできない。これによってそれは、交易の領域に属することのない狭い意味での所有に同化される。

78.事物にこの性格が不完全に内在する程度にしたがって、それは交易の領域に優勢に属するが、しかし、創始者への関係は、創始者の独自性がそこにおいて模写される程度に応じてとどまる。そして、ある事柄の交易領域は、独自性がそこで突出すればするほど一層限定されたものとなる。

79.家屋敷が支配的な独自性の領域を表しているように、そこに属するもの全ても手放すことはできない。それは所有物の倫理的不動性を形作っている。

80.もし独自性が、私たちがそれを要求する程度に応じて欠如しているならば、私たちはこれを粗野な言行あるいは旧習と呼ぶ。

81.全ての文化領域に、独自性がそこに表れるような美や芸術が存在する。

82.独自な生産には仕事の区分は生じない。なぜなら、何らかの機能において、その全ての諸機能全体に対する関係が明らかにならないことを欲することは、誰もできないからである。また誰も自分の独自性を部分的に他者によって産出させようと欲することはできない。

83.人がその行動に目を向けるならば、独自性は同一性の領域に属するもの全ての基礎でもある。

84.人がその産物に目を向けるならば、普遍性は、普遍性から徐々に生じてくる個体性全ての基礎である。したがって普遍性は常に最大の集積物を形成する。

49

85.個々人が器官として、絶対的に譲渡不可能な個人的領域を目指して努力することによって、彼は、代表者としてすべての人の形成活動との共同から出ようと欲することはできない。

86.しかし、二つの性格の対立が、その活動において離れ離れになればなるほど、この共同がなお通商の共同であることはいよいよ不可能になる。

87.組織化されたものは、自ずから理性に対して、先ずは認識の対象として対立して現れる。そして独自なものは、認識にとって論じ尽くしがたい。したがって、所有の領域が理性に対し認識のために開かれていることによって、理性は交易の欲求に決して達することはできない。

88.個人の所有の倫理性は、客を手厚くもてなすことによって制約される。また客を手厚くもてなすことはこの意味で、個人の所有によって制約される。

89.両者の同一性は社交の本質であり、そこにおいて人の最高の形成活動は、その活動の根底にある形式についての理性の自己意識と合一される。

90.客を手厚くもてなすことからは、先ずは独自な領域の承認のみが生じることによって、理性の関心は次のことによって初めて完全に満たされる。すなわち、独自な領域が自らを生産的なものとして、通商の領域に対して示すことによって。

91.これは二重の仕方で生じる。1)独自性の発展は、人間の存在自体を高めるので、これがその人の同一的な活動にも流れ込むことによって。あるいは彼の器官が独自に形成されればされるほど、彼はどの領域においても、それによって一層多くのことを成し遂げられるということによって。

92.あるいは2)直観された独自性は、その独自性を他者の中にも引き起こすことによって。つまり〈50〉その独自性は個々のプロセスを模倣的に、そのプロセスにおいて多かれ少なかれ展開された独自性に適用するからである。

93.このようにして二つの形成領域の間に均衡が形成されるが、それは一方の独自な形勢領域が他方のそれを必要としつつ、再び次には後者が前者に反対に働きかけることによる。

β) 個性の共振(Oscillation)における

94.習得は、伝達との同一性においてのみ倫理的であるならば、個々のどの行為にもこの同一性がなければならない。これは、習得によって個性が定立、すなわち拡大され、伝達によって〔個性が〕理性自体の中に受け入れられ相対的に止揚される―つまりこれは断念と見なされ得る―ことにより、先のモメントの二重性に対応している。

95.両モメントの同一性は、両者の登場の時間的な同一性ではあり得ない。なぜなら、この同一性を誰も一面的に産出することはできず、ただ意識と内的行為の同一性でのみあり得るので、全ての習得は伝達に、全ての伝達は習得に関係させられる。

96.性格形成の時期としての若さは、この同一性から独自性が徐々に個別的に現れてくることによって、伝達に対して習得が優勢である。

97.教育に適していることの放棄、単なる維持活動による個人的領域の継続的生としての老年は、所有がそれに対して開示されているところの多様性において、伝達が優勢である。

98.生の極致は、独自な統一の意識において、習得と伝達の際立った均衡と、急激な交代である。

51

99.このプロセスの倫理性は至る所で対立の両要素の同一性の中にあるように、このプロセスにおいて対立自体はこの対立の展開の程度に従って、対立する性格から形成される。

100.独自性が個々の暗示において言わば非有機的にまだ存在している限り、存在しているのはただ習得と同時に客の歓待の最小値のみである。

101.適切な習得なしに現れ出る客の歓待は、予感に基づく先取的で空虚な形式に過ぎない。そのような形式によっては、ただ同質の集積物だけが寄せ集められるに過ぎない。

102.適切な伝達なしに現れ出る習得は、密かな小売業、あらゆる身分制度の基礎であり、文化プロセスの従属的段階においてのみ保持し得るに過ぎない。

103.習得と伝達の対立−そこにこの〔独自性という〕性格の完成は存するのだが−という緊張によって、この性格の領域とそれに対立する領域の均衡も展開する。(9192)

104.独自な個人的領域は、その成立に従えば、同一的な個人的領域に依存しているので、同一的な個人的領域もまた、独自な個人的領域同様に、ただ同一の諸条件の下に、普遍妥当的に包含されている。(5663)

105.社交の状態は、習得と伝達の同一性と伝達の相互性にのみ存し、独自性の展開のあらゆる状態の共存においては、遅れている者は、〈52〉進んでいる者を理解できず、進んでいる者は、遅れている者の領域を眺めるという関心は持っていないので、社交は、状態が同じ形式である領域に限定される。

106.独自性の非伝達性は、そのように〔独自に〕形成する行為の根底にある表象と関係しており、その活動の直観はその表象の追構築以外ではあり得ないので、現実の社交の状態は、諸々の独自性が持つ直接的な親和性や同一的な諸表象の大きな集積の共同によって、限界付けされている。

107.どの人も代表としては断片に過ぎない。すなわち、どの才能もただ符合する自然の側面のある部分に対して向けられているに過ぎない。しかし、独自性はそれらの諸々の行為から認識し得るに過ぎないので、社交状態は、諸々の傾向性の親和性によっても限界付けされる。

108.このようなこと全てが示しているのは、すべての人に対する一人の人の関係において、社交の状態は完全には規定されておらず、別のところに由来する区分や規定の原理が必要だということである。

 

U.単なる個人の制約下にある認識機能

1.      一般的概観

109.ある機能は、相対的な対立関係にある他の機能によってのみ理解することが可能である。

53

110.形成機能が代表している行為とは、それによって理性が自然を自らのものとし、自然に言わば入り込んでいく行為である。同様に、認識機能が代表している行為とは、それによって理性が自然において存在し、自然の中に自らを表すような行為である。

111.もっとも理性は形成行為においても自らを表すのであるから、これが起こるのは、理性が自然を自らのものとすることがすべて継続としてすでに存在を含んでおり、どの形成行為も、認識によって始まることによる。総じて両機能はどの行為においても本質的に結合しているのである。

112.そこに理性が存在しているような存在とは、有機的体系の両側面、すなわち受動的側面と自発的側面とが、その全範囲において器官として−すなわちそれらが最初に形成された程度によらず−存在しているような存在である。

113.倫理的プロセスのいかなる側面も、絶対的に始まるものではないので、認識の最小限は、根源的に、しかし認識機能の結果として定立される。それによって、多くは獣に近い状態で定立された行為にも理性的内容が存在するのである。

114.この最小値に、認識のポテンツへの高まりがすでに、客観と主観の特定の対立的現われによって定立されている。なぜなら、ここにはすでに統一から対立の展開があるからである。

54

115.このプロセスの範囲を見出すために、私たちは根源的な所与を超え出て、動物的要素と合理的な要素を分離されたものとして定立するならば、認識のプロセスは二つの定式において現れる。すなわち理性の内容は全く有機的行動に移行する。そして、有機的行動の中にある全てのものは理性内容によって貫かれる。

116.後の定式は、全ての行動により多くの共同的性格を表示するように思われる。それによってこの定式は人間的な定式となるが、同時にそれは、どの有機的な行動も、分析的に無限な行動であることによって、最高の完成を示している。

117.前者の定式はプロセスの完成をより多く示しているように見える。しかし、それは同時に共通の性格を示している。なぜなら、どの客観的統一の中にも全ての関係の全体が、したがってまた、イデーの全体系に対する関係も定立されているからである。

118.動物的な形式に最も近く、理性内容の最小値しか含んでいないものが、最小値として定立されるならば、他の一方の終点は、イデーの内容の最大値があり、有機的行動は最小値に過ぎないようなところである。

119.有機的内容が全くなければ、理性内容も体系ではなく原理に過ぎない。すなわち、〈55〉絶対的統一性として与えられるだけである。そして、理性内容は、認識のプロセスに現れることもできない。

120.絶対的統一性としての神性は、私たちの認識に現実的な行為として存在することはない。しかし、神性は、そうであれば私たちの認識において、傾向として、現実の行為として、ただ有機的な最小値と結びついている。

121.イデー的な内容がなければ、感覚的内容は、私たちの中に現実的行為として存在できない。なぜなら、そのような場合、感覚的内容は際限のない有限の多様性に過ぎないからである。

123.現実の認識において、起点の境界(terminus a quo)としての絶対的多様性に関係しているもの、したがって、単なる量をそこで表現しているものは、数学的なものである。

124.現実の認識において、絶対的統一性に関係しているもの、したがって、知における最高の形式であるものは、そこにおける超越的なものである。

125.理性内容と有機的なものの共存を表現しているものは、どちらか一方が優勢なものとして定立されることにより、倫理的なものとなったり、自然的なものとなったりする。

56

126.したがって両者は、それが有機的な内容を持ち、また、数学的に意識される程度で完全な知であるに過ぎない。古くからの命題:数学だけが知である。

127.両者は理性内容を持つものとして、それが超越的に意識される、すなわち、弁証法的、あるいは宗教的である限り知である。

128.実際にはこれらの領域は全く分離されない。なぜなら、人が量自体あるいは絶対的統一性自体を対象となすなら、この課題は次のような個々の行動の系列においてのみ解決される。すなわち、そこにおいてその対象が直ちに実在になるような、すなわちそれ〔対象〕に対立するものへの関与もそこにおいて獲得するような個々の行動の系列においてのみ解決される。

129.私たちは、獣的なものとの類似から可能な限り有機的なものを剥ぎ取ったものに至るまで、そのプロセスを一つの連続体として、一つの定式の下に見出したので、ここで学問と生の間に対立が定立されることはない。

130.この対立は単に従属的な対立であり得るに過ぎない。なぜなら116にしたがって、絶対的完成に至るまで全ての行動には、まだ浸透されていないもの、意識されていないものが存在しなければならないし、また117にしたがって、動物的なものに最も近いものも含めて全ての行動の中に、理性的内容はその全体性において見出されるからである。

131.四つの領域は次のような系列を形成することはない。すなわち、終点としての2点が、体操と器具のように、形成機能への一層密接な親和性を持っているような〔系列を形成することはない〕。そうではなく、各系列は同一の機能を直接自らの内に保持している。

57

132.しかし、数学的なものと超越的なものとは包括的で正に無制限である。各人はそれらを、私たちの認識には到達できない全てのものに対しても有効に定める。

133.実在的なものは、私たちの機能の有機的側面によって制限される。これ〔有機的側面〕に直接与えられないものも、ただ数学的超越的に認識可能なものである。

134.無規定な多様性の無限なるものから見られた認識のプロセスは、その多様性における統一性の定立である。それによってのみ規定された認識は成立できる。

135.静止した存在の側から、理性におけるイデーの体系の側から見ると、それはそこから数多性を定立することである。時空間の多様性において理性の統一性を定立すること全てと共に、その無限の再現可能性が一緒に定立される。

136.これら両側面−それらの引き離された存在は虚構に過ぎないのだが−を孤立化することから二つの対立する一面性が生じる。ア・プリオリな側面とア・ポステリオリな側面である。あるいはスコラ的に言えば、唯名論的側面と実念論的側面である。それらは、全ての認識を一方の側面からだけ、他方を排除することによって産出しようとする。しかし、実際は、その第一歩からすでに他方無しには進めないのである。なぜなら、知的な〈58〉要素がなければ統一はないし、感覚的要素がなければ行為の現実性はないからである。

137.しかし、現実の行為においては全て、人は感覚的な側面価値的な側面のいずれかを優勢に把握する。それによって、1〕唯一の統一性が、一般的数多性の可能性を伴いつつそこに定立されるか、2〕一般的な統一性が、唯一の数多性の可能性を伴いつつそこに定立されるかである。

138.両側面の純粋な同一性は、現実の認識においては、存在する同一性として定立されることはない。そうではなく、先の二重の優勢の間を釣り合いを取りながら揺れ動くことによって生成する同一性として定立される。

139.活動の経過において形成される二種の統一性の間で調停が必要である。それは、両者の間の同一性と差異の定立として現れる。

140.したがって異なった諸形式とは、個の定立と普遍の定立、個から普遍への上昇と普遍から個への下降である。

141.これら両側面自体は現実において分離することはできず、ただ差別化できるだけである。したがってこれらの形式も分離はできない。同様に弁証法的に確かなことは、全ての実際の定立は、上昇と下降の両方にあり、全ての上昇下降は、その定立においてのみ存在する。

142.認識のプロセスは、次のような場合は拡張的な方向で経過する系列である。すなわち、117で観察された定式その全体性において、多様なものの無限性による遂行よって叙述される場合である。

59

143.認識のプロセスは、次のような場合は集約的な方向で経過する系列である。すなわち、動物的なものに類似する段階において、全てが個人に関係させられ、個の関係がおよそ理性に対する関係において完全に現れるべきである場合である。

144.したがって認識はどれも、理性のポテンツへのプロセスの高揚の特定の度合いについての結果のみを、つまり真理と誤謬の共存を表す。

145.有機的機能への関係が支配的である諸々の単純な立場は、次のような状態に固く与している。すなわち、それらは決して完全に除去されることはなく、真理には常になお誤謬が付きまとっているということである。

146.その調節はここであらゆる領域において良心によって行われるが、この良心は、その強さを、満足の欠如を感じさせることによって不完全に定立する。これが懐疑の本来的倫理的根である。

147.そのプロセスの拡張的な方向性は、人間の全体性によってのみ完成できるのだが、その結果、a)各人は、他の人々もすでに産出している多くのものを産出するのだが、しかしb)各人は自分の領域内に、他の人々にはない諸点を持っている。

148.したがって、どの個々の意識にも、個々の行為の時間的系列における拡張的な進展が定立される。

149.個々の行為自体の内容とそれらがつなぎ合わされる定式という二つの契機をここで区別するために、行為の統一性がどこに定立されるべきかということが先ず規定されねばならない。

150.もっぱら有機的側面に関わるような見解は、無限に小さなものの統一性以外他の統一性を知らない。そこで全てを結合として表現しようと努力するが〈60〉そのような仕方では、決してその行為が完成されるようなところに至ることはない。

151.もっぱら知的側面に関わるような見解は、イデーの統一性以外他の統一性を知らない。そこで、そのような見解は、分析的操作を一般的態度(Position)の部分と見なし、統一性として定立された知の大きな集積がどのようにして生成したかというその仕方を逸する。

152.このプロセスの真の叙述は、ただ結合の中に、すなわち、これら一面的な構成を相互に制約することにある。

153.独自な統一を伴わず、単なる集積が定立されているに過ぎないようなものを完全な行為と見なすことはできない。また、すでに定立された統一性の中に対立や多数性が見出されるならば、行為の統一性ではなく多数性としか見なすことができない。

154.したがって二つの異なる進展のあり方が定立される。ある統一から他の統一へと進む綜合的なあり方。そして、一つの統一の内部で、そこに定立された多様性へと進む分析的なあり方である。

155.第三のあり方が集約的な方向(143)から生じるが、それはある態度(Position)を、その認識が可能な限り強められるまで放棄しないよう努力する。

156.新たな二重性が、すでに定立されたものとまだ定立されていないものの違い(147)から展開するが、それは人が、一方において、人が、新旧の区別なしに個人の意識の充満を求めることができるからであり、他方において、理性のためにまだ全く定立されていないものだけを求めることによる。

157.これら多様な結合の諸定式は、その諸々の態度(Positionen)自体と同じ重要性を持つ。

 

2.      対立する諸性格において

158.態度の内容そのものに関しても、結合の定式に関しても、両者の性格とそれらの差異に目を向けねばならない。

159.現実の人間の認識においては、知覚と感情、あるいは客観的側面と主観的側面は、確かに離れ離れに現れることによって、次のことは明らかである。すなわち、私たちは全ての直観を、それが接している以前の行為によってそれ〔直観〕に生来内在しているものや、その直観の主観的なものが混入しているものは度外視して純粋に定立する限り、あるいはその直観が単純な態度である限り、図式の同一性の性格と共に、したがって、すべての人において同一であり、すべての人に有効なものとして、私たちは全ての直観を定立する〔ということは明らかである〕。これに対して感情は全て、その完全性においては、〈意識が個々の存在ではなく、より大きな領域の器官あるいは部分としての存在を代表しているようなところにもし人が甘んじないならば、〉独自性の性格と共に定立される。それによって、両方の性格の質料的なものは一般に規定されるのである。

160.その下で認識が総じて成立する形式は、進展であるので、それらの性格の相対的対立もそこ〔認識が成立する形式〕には見出される。

161.およそ分析的な進展、すなわちそれによって従属的な諸々の統一の全体が、一つの統一性に定立されるのだが、そのような進展は、自らに図式の同一性を担っている。すなわち、次のことが要求される。第一歩を模倣する人は皆、全てを模倣し、同一の結果を獲得しなければならない。

62〉全ての綜合は、この要求をなさねばならないが、それはその綜合が分析の内部に定立される場合に限られる。これに対してもし独自性が分析の中に混入するならば、そのような分析は無秩序を引き起こすだけである。

162.純粋な数学的分析はここから除かれる。というのは、単に無限に分割可能なものは特定の統一を自らにおいて提供しないということにより、これは真の分析ではないからである。したがって、数学的な分析には最も多くの発見がある。

163.ある統一から、その統一の外にある別の統一への綜合的な進展は、独自性を表現している。すなわち、それは誰においても違ったものであるのだが、それは様々な方向性が、その人の中で、あるいはその都度の瞬間に、その人の才能や傾向性に従ってある状態によって異なるからである。

164.数学的な綜合−それは真の綜合ではない−は、ここから除かれる。なぜなら、無限に分割可能なものは分離を提供せず、その綜合的な方法は、全く機械的だからである。

注釈:純粋に数学的領域は、分析的なものと総合的なものとの対立に敏感ではない。

165.質料と形式は互いに至る所で一致しているように、ここでも先ず感情は、その都度綜合的方法の原理である。なぜなら、人はある特定の認識において自分自身をある特定の状態で意識するが、それは個々の行動が、同時に引き起こされた全てのものとの連関において、各人に独自な仕方で定立された認識の課題とどういう関係にあるかによるからである。

166.客観的な態度あるいは直観は、至る所で分析的方法の原理である。なぜなら、従属的なものは全て最初の態度から、最初の態度との関係で定立されるからである。

63

a)図式論の同一性

α)全般における

167.どの人間も完結した意識の統一である。したがって、理性がそこに認識を産出することにより、それは意識としてただその人のために産出されるのである。〈63〉しかし図式の性格の下で産出されたものは、すべての人に妥当するものとして定立される。そこで、たった一人の人における存在は、このような図式の性格には一致しない。

168.したがって、このような産出へと来なければならず、それと同一的に定立されなければならないのは、個人の範囲からすべての人の共有財産へと産物が出てくることである。

169.プロセスのこの側面の倫理性は、経験と伝達の同一性にある。この同一性は伝統の領域を形成するが、これは次のような形式である。すなわち、その下にプロセスのこの面の全体性が個人を通して現れるような〔形式である〕。

170.注釈1:経験は、次のことによって、知の超越論的な側面にも、同様にまた経験的な側面にも等しく関係する。すなわち人はここでも個々の時間的な表象を、理性の中に永遠的な仕方で定立されたものを全く区別しなければならないということによって。

171.注釈2:経験と伝達の同一性は、実在性においては、ある場合にはほんのわずかであり、ある場合には大規模である。それは認識が、様々な関係において、完成されたものと見なされることにより、あるいは、伝達可能なものと見なされることにより、異なってくる。

172.注釈3147aの場合、伝達への衝動は、経験の同一性の意識によってすでに静められており、伝達の特殊な行為は空虚である。147bの場合、各人が素材を自分のやり方によっても加工できるように、認識ができる限り速やかに伝達にならないならば、その認識は空虚である。

173.すべての人は、自分の独自性−それはここでも組み合わせの影響ゆえに考慮される−の外でも、断片的な叙述でもある(30を見よ)。〈65〉したがって、ここでも仕事の分割が唯一の倫理的形式である。

174.注釈1:認識の連関は内的な連関なので、誰にとっても認識は、その人の外的制約によって重くなる欲求になることがあり得る。しかし、当然のことながら、現実の分割によって、欲求と熟練との釣り合いは、さらに一層破棄される。34を見よ。

175.注釈2:ある人が、ある対象を直接自分のものにすることが相対的に不可能であるということはあり得る。しかし、他者の認識プロセスを模倣することは全く可能であり、伝達が真の補助になり得るということは、それに基づいている。

176.伝統という形式の下にある認識は、ある意識から他の意識への移行の可能性に基づく。この可能性は次のことによって制約される。すなわち、元来は内的なものとしてのその行為が、外的なものになるのだが、それは、それをもたらす人にとって、表現として現れるように、他のどの人にとっても記号として存在し、それによって彼は、図式の同一性のゆえに、内的なもの、あるいは元来の行為を認識するということである。

177.あらゆる認識行為の全体が、イデーの叙述として一つの体系を形成するように、記号もまたその体系に対応するものとして、一つの体系を形成する。

178.意識の内的なものは、組織体の多様性においてのみ外的なものになることができる。そして、個別の行為に対応している外的なものは、組織体においてのみ運動であることができる。

179.この組織的運動は、図式の同一性の性格の下にある認識能力としての意識行為の表現であり同時に記号であるが、この組織的運動の体系が言語である。

180.注釈1:言語は、人間が真の認識の共同にあるところでは、話し言葉としてどこでも現れる。〈66〉それ〔話し言葉〕は、その他に特定の意味を持たない独自な有機的体系に基づく。

181.注釈2:言語としての身振り(すなわち、図式の同一性を表現するような身振り)は、代用品として次のような不完全な状況においてのみ見出される。すなわち、a)話し言葉による伝達が有機的に妨げられているような場合、b)最も初期の幼児期、そこでは表象の不完全さゆえに、言葉や記号もまだ不完全であり、したがって補足的な二重性が必要、c)母語の異なる人々が一緒にいる場合。

182.注釈3:最後の人々(母語の異なる人々)が、常に同時に共通の話し言葉を創り出す試みに携わるように、子供も、知覚と感情がはっきりと離れ離れに現れるようなところから、音節を分けてはっきり発音される言語の産出に携わる。言語が子供にとって、受容よりも早く来るように見えるとすれば、それはただ、子供を取り巻く特定の言語にのみ関係することで、話すことへの自発性は総じて、受容と同時的である。

183.注釈4:発展の漸進についてのあらゆる観察の基礎は、子供の知覚が、その話す行為と共に先ず十分に客体化されることであるように、すべての人において、表象の完全な形成と言葉の形成は同一である。後者は私たちにとって、先ず、伝達へと熟する行為形成の度合いを示している。内的に話すことは、言うなれば、外的にはなすことの許可である。また後者〔外的にはなすこと〕の意欲は、前者〔内的にはなすこと〕と同時に定立される。

184.ある人の中に、自分を伝える必要が生じたとき、これは他者の産出と同時にはあり得ない。したがって、産出の瞬間についての認識プロセスの行為と、形成機能の行為とを固定化する手段が存在しなければならない。この手段が記憶である。

67

185.特定の個々の行動を固く保持しようと欲することは、常に伝達と関係する。個々に記憶の倫理的なものが存する。

186.注釈:人はそもそも自分自身のために記憶を必要としない。彼には、彼がそれを必要とするたびにその結果が、初めて彼のところにやって来たと同じように再来しなければならないが、それはすなわち、根源的な産出において表象が完成される、すなわち、超越論的なものと経験的なものとの同一性に達した限りにおいてである。

187.言語自体は、伝達においてより多く結果のためにあり、記憶はむしろ結合のためにある。しかし、行動の統一性は結合なしにはあり得ないし、またその逆も言えるように、言語も記憶なしにはあり得ないし、その逆も言える。

188.注釈:記憶は経験的主観の統一性をも構成する程度に応じて、それはまた愛の力であり、伝達への傾向性である。なぜなら、理性自体にとっては、空間的分離も時間的分離も同じ意味だからである。

189.内的に語ることは記憶の言語である。文書は、記憶であり言語の伝承である。それによって言語ははじめて完全に客観的に定立され、伝達は産出の時間に依存することなく独立に定立される。

190.いたるところで与えられる最小値、それはしかし倫理的プロセスの結果とも見なされねばならないのだが、ここでは、思考と内的発話、主観の同一性の結合と確保の同時的存在である。

191.全領域との関連で、その完成がその下で理解されるところの定式も同じである。なぜなら、1.発話されることのできない思考は、必然的に不明瞭な混乱した思考であるが、それは言語の不十分さについての非難が、独自な〈68〉認識の領域にのみ属するからである。2.固定化する反響によってすぐに伴われることのない結合は、同一性の性格をもただ不完全にしか自らに持つことがないからである。

192.注釈1:新しい認識は確かに新しい表現をも要求する。しかし、それは常に言語においてすでにあるものとして現れねばならない。そして、純粋な認識と表現の発見とは常に同一である。

193.注釈2:思弁的領域において言語における新たな産物が非常にすばやく入れ替わることは、より高次の直観に対する言語の不適切さを証明するものではない。そうではなく、単にここでは諸々の統一性によるのではなく、全てを結合として理解する必要性を示しているに過ぎない。

194.注釈3:記憶に固定化されることのない全ての結合にとって、常に何か新しいものが生じる再生産は、以前のものが不完全であったということの証明のために必要である。完全な分析に形成される全ての結合は、自ずから記憶に刻まれる。なぜなら、それは対象の直接的概念自体と同一だからである。

195.注釈4:思考の伴わない語り、すなわち認識行為が対応していない語りは、伝達ではなく、子供において見られるような理解の試みに過ぎないか、あるいは空虚な定式の使用として、何か無意味なものとして現れるに過ぎない。もし言語がその単一性と真理性を失うならば、個はすべてそれ自体においても、使用においても全てと連関しているのであるから、伝達全体が不確かになる。

β)個人の共振(Oscillation)における

196.全て完全な行為には、両方のモメントが同時に存在している。内的な発話もすでに〈69〉個人の止揚であるが、それは考えが言語の中へと入れられ、共有財産として定立されることによってである。

197.大きなせいのエッポクにおいて現れるような両モメントの見かけ上の不均衡が成立する理由は、幼児期においては不完全な諸々の行為が支配的であるためであり、老年においては、優勢な伝達が単なる残響に過ぎないからである。純粋な均衡があるのは生の頂点においてである。

198.同様に、およそ個々の大衆においても純粋な均衡は最高点である。全体の生成においては伝達は相対的に抑制される。後に繰り返される叙述は、それが上昇をもはや含まない限り、残響に過ぎず、操作の老化を示す。

199.完成された伝統の状態とは、各人が一様に自分の認識を言語から受け取り、また言語へと収めていくような状態である。

200.すべての人に対する一人の人の関係においては、これは不可能である。なぜなら、一人の人において互いに離れている集約的方向の諸点では、他の人の見解に対する関心は存在できないからである。そして、そこには前者の思想に対する鍵は存在しない。

201.事物が統一性において理解されるのは、その諸関係の全体性において以外にあり得ない。しかし、この全体性は、自然に対する人間の立場が変わるにつれて異なって形作られる。したがって、対立する諸点においては、異なった認識体系が生じる。

202.伝達は同一的な諸々の運動の集積に基づき、自然の立場は言語という道具をも変化させる。したがって、同一の運動がどこでも同じ意味を持っているわけではなく、同一的なものの集積は徐々に減少しなければならない。

70

203.したがって、これまで見出されたものも不完全に過ぎず、多元性によって統一性を描くためには規定する原理が必要である。しかしこれは個人の単なる形式には存在し得ない。

 

b)独自性

α)全般における

204.この〔独自性という〕性格によって産出されたものは、人間(Person)にのみ妥当するので、それは理性によって産出されたものとのみ見なすことができる。

第一に、認識の独自性が体系を形成する(したがって、個々の偶然的なものと見なされることはできない)程度に応じて。その体系において理性は自然として生成されて現れる。

注釈:したがって、独自性は全て、他の全ての独自性を前提することに基づいている。

205.第二に、この全体性が、意識という形式の下で理性のためにも存在していることによって、認識の独自性が、可能な限り自らを伝達する、すなわち直観によって伝達する程度に応じて。

206.認識の独自性のこの共同は、形成の共同と正に同様に、社交的であるが、より直接的で内的な社交である。

207.この共同の範囲内に特定の自己意識=感情そして163にしたがって真に綜合的な結合も属する。

208.これは実在において分離している二つの要素というわけではない。なぜなら感情は全て、内的原理の統一性に対する外的な働きかけの結果だからであり、また結合は全て、不規定的に多様な客観の中への内的原理の結果だからである。したがって、両者は情念〔Passion、受動の意識〕と反作用のように常に共存している。

71

209.綜合的なプロセスに属しているのは単にある認識行為から他の認識行為への移行だけではなく、ある形成行為から他の形成行為への移行もそうである。というのは後者には、常に認識が原型として先行しているからで、その結果、両機能は相互に関わっており、また形成機能は認識機能の下で捉えられる。

210.独自性の産出においては、仕事の分割は起こり得ない。なぜなら、各産出はそれぞれの人間を全く貫いており、各人間は再び宇宙との完全な結合の中に立っているからである。その制限はここに存在してはいても、望まれることはできない。

211.社交の可能性は、同時に表現でありしるしであるような伝達要素にのみ存在し得る直観に独自性をもたらす可能性に基づいている。

212.全ての特定な心情の興奮は、自然な表現としての音調や身振りに伴われている。

213.注釈:音調はここでは言葉としてではなく、楽曲としてであり、身振りとはここでは概念の間接的なしるしとしてではなく、直接的なしるしとしてである。両者は、純粋に内的なものが自然的必然的に表面化したものである。

214.しかし、感情だけは、この全領域を示すことがないので、綜合的な結合のためにもう一つのしるしが存在しなければならない。

72

215.ここでそもそも叙述されねばならないものは、互いに続いている両者のみが現実的なのであるから、個々の現実的な行為ではない。そうではなく、特定の場合に関係させられてそこにある法則である。

216.この法則とは、全て個が、その個体に対して持っている相対的価値のための普遍的定式に他ならない。

217.状態を確保したり解消したりするために、各感情が行為においてどのように現れるかというあり方は、〈73〉すべての行為は表現であるという限りで、人は、生自体をも芸術と呼ぶにもかかわらず、非常に不完全なあり方において表現であるに過ぎない。

218.したがって、その自発的な側面から見られた特定の興奮は全て、本来的に叙述する行為としての想像力の形成に伴われている。

219.注釈1:この行為は感情の単純な表現に密接している。なぜなら身振りや音調が系列として定立され、たとえ不明瞭にではあっても、前もって思考され起草されるならば、それらは正にそのような叙述する形成だからである。

220.注釈2:想像力は綜合的能力であり、しかもあらゆる段階においてそうである。個人的な完成は想像力であり、理性も想像力である。しかし、どの領域でも諸々の綜合的な結合は、それらが分析的になることを欲しないという点では、叙述する想像力に属している。

221.幼少期の初めにおいてすでに、身振りや音調が現れ、それによって初めて外面的人間の独自な性格が展開するように、すでに早くから想像力の形成は現れ、そこから〈74〉内的人間の独自な性格が展開する。前者によってと同様これによっても、その後で、個々の諸々の表現は制約されるのである。

222.この形成は、その特殊な性質において、支配的な感覚に依存しているが、この感覚と形成とは、才能としては同一である。

223.ある特定の興奮に自らを関係させる叙述の他に、別の叙述が、支配的有機的側面の永続的意識に関係している。

224.詩的創作の最初の展開においては、全ての気分は歴史である。そしてこれは本質的に一貫した性格でもある。

225.したがって叙述の様々なあり方は(言語という客観的側面のための唯一の体系の代わりに)一つの体系を形成するが、そこにおいては芸術の要素となり得るすべてのものが把握される。

226.注釈1:他の残りの芸術の性質は、もし人がそれら全てを言わば詩の結果と見なすならば、あまりにも比ゆ的で隠されている。画家が先ず歴史や土地を見ることは決してない。そうではなく先ず見るのは絵である。同様に詩人は表面的な姿を見る必要はない。

227.注釈2:感情が形成する行為や作用する行為の中に現れるのは、より低い段階である。そこにはまだ相対的な対立において一面性が支配している。その一方に生きる者は、他方を軽蔑する。

228.これによって、想像力の形成が、その登場において、またその登場と共に、芸術であり、理性内容が〈75〉独自な認識において宗教であるならば、宗教に対する芸術の関係は、知に対する言語の関係と同じである。

229.注釈1:単に狭い意味での宗教、弁証法的なものに対応しているものだけが宗教的なのではない。そうではなく全ての実在的な感情や綜合−それらは精神として自然的領域にあり、心として倫理的領域にある−も、両者が個人を超えて統一性と全体性へ関係させられる限り〔宗教的である〕。

230.注釈2:独自な認識が、生成する宗教に過ぎないように、その叙述も内的に与えられた理性内容の濃淡を示すことができるに過ぎない。

231.注釈3:その断片的性質ゆえに、各個は芸術の個別的な部門によって示されるに過ぎない。したがって叙述の領域では、諸々の仕事の分割が起こる。

232.注釈4:したがって叙述手段そのものに対して特別な親和性を持たない人には、その重要性はしばしば理解困難であり、空虚な見せかけが生じるに違いない。

233.注釈5:芸術に感情が集まり、瞬間的な表現が固定化され、客観化されるべきならば、全ての感情が芸術に収められ、各人は自分の伝達し、伝達される存在を、そこから受け取るだろう。その結果、どの叙述においても、何かが伝達手段の伝統や改善に関係することになる。そしてこれが、達人性として特に現れてくるものである。

234.注釈6:これは、叙述行為の中にその瞬間が退いたり、永続的な自己意識が支配的才能の意識として現れたりするのと同じ基準で生じる。

235.注釈7:感情と叙述は本質的に結びついてはいるが、しかし、純粋に均衡状態にあるわけではないので、〈76〉その興奮が単にまだ軽い誘因として現れるに過ぎないような叙述衝動の支配が存在し得る。

236.注釈8:叙述の手段はその客観性においてある対象についての独自な認識の道徳性の平均を表現する。したがって、特別に芸術家として現れるような人々の最も強い興奮は叙述できないことがしばしばである。そのためのアルファベットは失われているかまだ発見されていないかのいずれかである。

237.両契機が完全に分離された状態、すなわち叙述の伴わない感情や感情の伴わない叙述は、非倫理的なものとして定立できるに過ぎない。

238.注釈1:個人や空間に対する関係が途絶える程度に応じて、時間に対する関係も途絶える。したがって倫理性は、感情と叙述の瞬間的同一性にあるのではない。そのような同一性はより低い段階で要求されるに過ぎない。そうではなく、全ての興奮を伝達の領域に関係させ、その領域のために保つような意識の中に倫理性はある。全ての瞬間が、生き生きと作用しつづけるものとして立てられる。

239.注釈2:同じ理由から、叙述の倫理性は、興奮した瞬間から直接生じるものにあるのではない。人は通常それを感激という言葉で理解するのが常であるが。そうではなく、それによって叙述が産出において何か実在の独自な本質に関係させられるような内的真理に叙述の倫理性はある。

240.注釈3:多くの場合、叙述が先ずあるイデーを表現しているならば、このイデー自体が正に綜合として〈77〉感情の表現であり、叙述自体の中に、純粋な客観性において捉えられることはできない。

241.注釈4:それにもかかわらず感情が叙述を伴うことなく定立されるところでは、叙述の外的側面が欠如するということのみが可能である。なぜなら、その内的側面は自然的必然性によって共に立てられるからである。したがって、人は、正しいあり方と方法がまだ求められるとだけ考えることができる。そして、倫理性はこの求めの中にある。

242.注釈5:叙述が感情を伴うことなく定立されるならば、行為の後ろ半分が、前半分なしに定立されるだろう。後者が不可能であるように、行為はそもそも、そこに前半分が存在する人の行為なのである。そして叙述者は、組織化する諸々の機能の共同ゆえに、その人の器官であるに過ぎない。

243.全ての伝達、感情の再認識は、ここではただ類比的な方法によって起こるに過ぎない。すなわち私自身の中に現れる似たようなものに向かう叙述運動であったり、私の根底にあるものへ向かって起こる感情であったり。

244.この方法は、同一性に基づかねばならないが、それはここでは人間の有機組織の構成の同一性以外のものではあり得ない。したがってここでも個的なものは、普遍的なものの基礎に基づいている。

245.その様々な枝における叙述の体系は、伝達する塊を形成するに過ぎない。そこから各人は自分の個性の認識を受け取り、またその中へ各人は自分の個性を認識のために置くのである。

246.注釈1:広義の芸術には誰もが、広義の知と同じくらいに十分関与する。そして叙述するものは全て、全ての経験が本来的な知に属するように、本来的芸術に属する。

247.注釈2:その叙述が才能に基づく限り、各人は自分の表面的な生産性によって、ただ個々の〈78〉部門に限定される。しかし、その受容性はある意味で一般的でなければならない。

248.注釈3:才能が現れない限りは、人は疎遠な叙述を自分のものとする。

249.感情と叙述のこの同一性において、この機能全体は、個人に対する関係から理性の統一性と全体性に対する関係へと高められるべきである。そうして全ての快不快が宗教的となる。しかし、その際区別されねばならないのは、弁証法的なものに抗して単独で現れる宗教的なものと、倫理的な諸感情()や自然的(精神)に含まれる宗教的なものである。

250.注釈:この関係によって、全ての快が宗教的になるべきであるという要求は、その不審を拭い去られる。なぜなら、それは否定的に次のように表現することもできるからである。いかなる快も単に動物的、感覚的ということはないと。

251.両者もまた全体性へと至るべきである。あらゆる可能な感情の変種が現れるべきであり、そうしてまた叙述の体系もあらゆる部分において論じ尽くされるべきである。

 

β)個性の共振(Oscillation)における

252.他の場合には同一の形成段階にある個の不等性は、見かけほど大きなものではない。なぜなら多くの個は、単独で叙述ではなく、繰り返しに過ぎず、人が叙述の欠如から感情の欠如を推論するところではしばしば、常に同時に内的産物であるところの疎遠な叙述をわがものとすることは、強度な興奮に属しているからである。

253.人間が動物的段階に最も接近している点から、独自なものが最初徐々に働いて普遍的なものを脱し、〈79〉同一的なものと独自なものとの相対的無差別の状態−その状態は類比の基礎であるが−を脱する。

254.感受性、趣味、自発性が並列に、あるいは相互浸透的に様々な関係において形成されるが、全体としては至る所でその叙述は感情の背後にとどまる。

255.老年には、感情の側で新しいものが産み出されることはほとんどなくなる。その理由は、興奮の可能性そのものが減少するからであり、また、時間の型が変わるために、共同的な生から一層退くようになるからである。

256.これに対してよく組織された心情においては、古い様々な刺激が保持されており、その記憶が叙述において不意に出現する。その叙述はしたがって、感情に重きを置く。

257.人生の花の特記すべきものの本質は、正に上の諸規定の下での感情と叙述の均衡にある。

258.集中的な前進の諸点が互いに遠く離れたところにいる人々は、感情と叙述の共同を持つことができない。

259.あらゆる興奮において、内的興奮可能性と外的能力とが互いにどのような関係にあるかということを知るために、そこにはもう一つ特別な共通点が属する。これが与えられないところでは、類比による理解は生じない。

260.組織体において重要な相違が生じるところでは、単純な叙述の最初の諸要素はすでに別の意味を持っている。そして、叙述の手段の共同的体系は生じない。

261.複合的な叙述は、諸々の共同的根本直観の集積によって制約され、同じ主観的重要性を持つ。したがって、上のことはそれにも当てはまる。

80

262.内的社交はただ、精神と心という感情の両側面の関係の程度に応じて生じることが可能である。両者は類比的か、あるいは伝達において分離されるかである。

263.したがって内的社交は、諸領域の多元性においてのみ可能であるが、その規定や分離のための原理を私たちはここでは持っていない。

 

3部 完全な倫理的諸形式について

序論

1.倫理的なものが個人において単独で完成することがないように、個人もまた単独で与えられることはなく、そのあり方と共に生成する。すなわち、性別や、人種や国民性の特定の形式を伴う。

2.先の普遍的形式と同様にこれら特定の諸形式を演繹することは、思弁的自然学の課題であり〈81〉倫理学の課題ではない。しかしこの演繹が示すことができるのはただ次のことだけである。すなわち、いかにして性の違いが特定の自然の諸機能に関係するのか、またそれら特定の諸形式が、大きな類比によって様々な土地に関係するのかということである。

3.しかし、ここでは両者は所与と見なされるならば、次のような問いが生じる。すなわち、理性は自然と一つになるべきであるなら、いかにして理性は、これら諸規定とも一つになるのか、そして、これら諸規定に倫理的に一致しているものは何か。

4.この一致は、従来のものの外部にはあり得ず、それはただ呈示されたものの完全に規定されたあり方であり、そのあり方の下でその一致は現実となり、そこから生じるのである。

5.性の違いと結合の結果が家族である。これは、性の二つの性格における二つの倫理的機能の根源的かつ基本的なあり方でのみあるべきである。

6.両機能は同一の性格のもとにあると、国民性というより狭い型により多く関係する。両機能は独自な性格ののもとにあると、人種というより広い型により多く関係する。

性や家族について

7.性別による性格は、個人と共に同時に与えられ、しかも性機能においてのみならず、身体全体を貫いている。

8.誰もが、身体的な器官においても、したがってまた、理性が根源的に自然に同化するあり方においても、その相違を所与として承認している。

82

9.その相違の本質は性の機能から最もはっきりと現れる。すなわち女性的なものにおいては感受性が優勢であり、男性的なものにおいては自発性が優勢である。したがって、次のようになる。

独自な認識:感情は女性的、想像力は男性的。習得は女性的、発明は男性的。

独自な形成:習慣に従うのは女性的、習慣を超え出るのは男性的。

同一的認識:形成の継続よりも受容が多いのは女性的。

同一的形成:独自な領域により多く関係するのは女性的。純粋な客観性をより多く伴うのは男性的。

10.有機的側面において性差と結びついているのは、独自な共同への衝動である。その共同にはジャンルの保持が結びついており、性差の漸進的展開によって形成される。

11.どの性とっても異性は、発展の程度に応じて精神的面に関しても疎遠である。この感情は、性の一面性を先の共同において、それが性の混合〔Geschlechtsvermischung性交のことか〕と出産の同一性である程度に応じて抑制しようとする衝動に出てゆく。

12.性の共同の独自なものは、一時的な意識の合一と、出産という要素から生じる永続的な生の合一である。

13.性の共同を、私たちはその規定性と共に倫理的に見出すが、それは、その共同が二人の人を包括できるからである。なぜなら、個々の行為において、全ての必要が満たされ、他の要素の活動の前提において同時に、共通の産物〔子供のことか〕のための共生が成立するからである。

83

14.性の共同とその不解消性の統一と同時に定立されるのが、婚姻の真の概念である。

15.個性がまだ作り出されない限りは、各人は個人の中にただ性の代表だけを見ており、したがって人格との結びつきを感じていなくても、子供を共有することにより人格に結びつくのである。

16.そのようなよりいっそう普遍的な婚姻は、子供を共有することによって解消しがたいものとなる。そしてそのような婚姻は、ただ一方の部分で共通の養育を不可能にするような何かが展開したときだけ分離が可能となる。

17.個性がすでに支配的なところでは、個人的選択の魅力は、性衝動の倫理的側面をも指導する。

18.このような魅力は、軽率さによって誤った結果を与えることがある。その軽率さの原因は、通常、肉体的なものに重きを置きすぎたり、〈84〉偶然的なものによって本質的なものを見逃す虚栄であったりする。

19.自分で決定を下すために十分なものが何もないような不当な臆病によって、そこからは何も結果が生じることができない。なぜなら、人間の自然状態には、そこにおいて自分の倫理的使命を達成する可能性がなければならないからである。

20.したがって、独身が可能なのはただ次のような階級においてである。すなわちそこにおいて個人が現れ、そこでもまたただ特別な生の状況によって、また望ましくない状況としてのみ許容されるのである。

21.個人的な選択の魅力は全て友情なので、友情の形式と同じくらい多くの形式が個人の結婚にはある。

22.別の人とならもっと完全な結婚ができただろうというような考えが後になって入り込むことは許されない。それは子供をすでに共有しているからであり、あるいはすでに現在お互いを共有しあっている〔夫婦生活の〕ゆえである。

23.結婚の完全性の尺度は、性の持つ一面性の除去であり、対立する性の性格に対する感覚の発展である。

24.曖昧で一時的な性の共同は非倫理的である。それは性交と出産を分離するからである。性衝動の心的なものを共に競い合うならそれは放埓であり、肉体的魅力のみが作用するならそれは動物的である。

25.同性の間で性の機能を満足させることは、肉体的側面自体の内部ですでに不自然である。従ってそのような行為〔同性愛〕は、そこに倫理的なものが到来することによって高められるということは全くない。

26.この倒錯は、それが大衆において現れるなら、一般的な倫理的不適当さを引き合いに出す。それが性のもつ性格の身体的心理的側面の不規則な発展であれ、あるいは、規則的発展において〈85〉自立的な生の形成に表面的な諸条件が噛み合っていないというのであれ。

27.このことは個人にとって、不純な意志の正当化となることはない。個人存在と共同存在の相互関係において、ある人の救済が他の人において始まらなければならないことによって。

28.性行為と共に、相互の選択的魅力の完全性の承認ゆえに、結婚が定立される。これによってその行為は持続的関係として定立されるからである。したがって不妊は結婚の不解消性を何も変えることはできない。

29.人間においては、性衝動は時期に左右されない。したがって、自然に対してもここには自由な活動空間が与えられているので、人は不妊を常に何か一時的なものと見なすことができる。

30.不妊を不自然であると容易に断罪し、少なくとも有機的側面と知的側面の不釣合いに帰しててしまいがちであるが、しかし、不妊は自然のより大きな自由の中に、例外として本質的に共に定立されている。

31.性の共同の同一性と出産に、一面性の根絶が定立されている。前者〔性の共同の同一性〕においてはより多く感覚として、後者〔出産〕においてはより多く衝動として〔一面性の根絶が定立されている〕。

32.子供が徐々に内的なものから外的なものに、意識された自己の一部分から直観の対象になるように、自己の感情の継続である母性本能によって、直観能力は導かれ続ける。〈86〉そして、子供は本来の認識の媒介点となる。

33.反対に父親にとっては外的なものが根源的である。しかし、彼の母親との関係のあり方によって、内的なものが彼に生じ、総じて彼の感情の活動に対する媒介点が生じる。

注釈:彼は祖国をも保持し守るべきものとして感じる。

34.結婚前の男性には、その状態では女性的に現れる特殊な所有に対する衝動が欠如している。その表示はしかし結婚において、女性から出て、真の共同的な行為となるが、それは男性が共有の領域に、また認識機能の独自な側面に関わるようになるからである。

35.結婚前の女性には、男性的なものとして現れる法の領域に対する衝動が欠如している。(したがって、女性は全ての同一的な産出行為に対しても、たとえ表面的にのみではあっても、装飾として美を加える。)結婚によって彼女に、法の領域に対する感覚が開かれねばならないが、それは男性に対する感覚と、その独自な領域に対する関係による。

36.生き生きとした全体としての家族は、従来不確かなものとして見出されてきた全てのものにたいして、境界付けの原理を保持しているわけではなく、生き生きとした結合を保持している。この結合がなければどの開始も純粋に恣意的なものとなってしまう。倫理的開始というものは、時間空間によってではなく、ただ内的根拠によって確かになり得るからである。

37.両親と子供の同一性は、器官の根源的共同である。したがって、この共同によって自然形成の図式が始まる。そして子供たちが独自なものになることは、この図式に従属しているが、個的領域が一般的領域から自らを際立たせる根源的あり方である。

38.子供たちと両親の共同によって、すでに与えられた言語に対する彼らの思考は形成される。そして彼らの〈87〉根源的言語形成は少なくとも家族の中に、その独自な思考を通して収められるが、その思考自体を両親は、根源的同一性を通して理解できるのである。

39.家族の全ての構成員の下に、根源的なあり方で、所有された共同と、共同的な所有はある。

 

民族的統一性について

国家について

知の民族的共同体について

国民性についての最終見解

両機能の独自な側面に関係する倫理的諸形式についての一般的緒言

教会について

自由な社交について

結論