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シュライアマハー「社交的振舞いについての試論」1799

底本:F.Schleiermacher, Versuch einer Theorie des geselligen Betragens, KGA1/2, S.165-184.

Zusammenfassung auf Japanisch von Kenji Kawashima.

最終更新日2001120

165

a.      自由な社交はすべての教養人にとって最も尊い要求である。世の煩いに振り回されている人は、その道を行けば行くほど人間存在の高次の目的に近づくのが遅れる。世の仕事は精神活動を狭い圏内に呪縛する。それがいかにすばらしいものであれ、世界への働きかけと世界の見方を、一つの立場に固定してしまう。最高の複雑な仕事も、単純で低い仕事も一面性と制限をもたらす。家庭生活はわずかな人としか出会うことができず、いつも同じ人と付き合うことになる。最高の倫理的要求もここではすぐに色褪せ、人間性とその行為の多様な直観の収穫は、倫理的家政学が完全になればなるほど少なくなる。したがってこれら二者〔職業生活と家庭生活〕を補い、他の領域から多様に切断する状況がなければならない。それによって他の未知の世界への展望を与えられ、人間性のあらゆる現象が知られるようになり、最も未知の心情の状態も親しみ易いものとなる。この課題を解くのが理性的で教養ある人々の自由な交際である。ここで問題なのは個々の従属的な目的ではない。自由な社交の目的とは何か。そこでは人は全く知的世界にあり、その一員として行為できる。彼の諸力の自由な振舞いに自らを任せつつ、彼はそれを調和的に再形成する。そして彼が自らに課す以外の法則に支配されず、すべての家庭的市民的関係の制約を、彼が望むままにしばらく追い払うことは、彼が自らに課した法則に依拠する。もちろん、この自由な社交はその現状では、この目的から遠く隔たっているが、それは家庭的な事柄や、市民的団体がその目的から隔たっているのと同じである。〈166〉社交的生も、抑圧的な形式やその目的に逆らうような副次物を持っている。ここにも至るところで不器用さや個々の忌まわしい行為が非難されるべきだし、根絶し作り変えられるべき多くのものがある。ただここでは公の力は必然的に欠如しているがゆえに、各人が自分の立法者であり、共同の本質が損なわれないように、あらゆる仕方で努めねばならない。したがって、各人が自分の社交的な振舞いを、その目的に適うように整えることが、あらゆる改善の出発点である。

b.      以上のことが理論によって成し遂げられるとは思わないが、しかし、この目的を理解せず、走破されねばならない諸点を知らなければ、この目的に確実に近づくことはできないだろう。理論なしに改革はない。社交的振舞いの少なくとも輪郭において完全な体系を叙述しようとするこの試論は、この理論に貢献するものである。

c.       社交の理論化というこのような企ては、その道の大家をも、また素人をも不愉快にするに違いない。彼らは理論家の批評によって妨げられるのを欲しない。彼らは言うだろう。思い上がった態度以上に繊細な振舞いに反するものはない。そして、このことについて全てを包括する一般的規則を与えること以上に思い上がった態度は存在しないと。しかし、私が注意したいのは、理論家がここでなすのは、大家を補足することに他ならないということである。〈167〉大家自身は、定式化され一般に妥当する規則については非常にわずかな考えしかもっていないのが常である。社交的振舞いの繊細なものはすべて、大家たちには非常に個人的に思え、最善なものも非常に小さな状態に依存しているように見えるので、人は一般的規則を信頼できないし、およそ独自な完全さは、確かな模範の予感か、自身の感情から生じなければならないと考えるのである。しかし、正にすべての行為がかくも多様なものによって無限を形づくっていればこそ、予感に先立つ反省によって、あるものを無視し、他のものには目を向けるということが行われなければならない。それが感情に基づくべきでないならば、私が何を無視し、何を反省すべきかを、それに従って判断可能な規則が存在しなければならない。感情自体は別の仕方で、理論の必然性を示している。人は道徳的事柄において良心に拠り所を求めるような確信をもって、社交の問題では感情に拠り所を求める。人はこの感情を、人間性の本質に基礎付けられた普遍的感情と見なす。この感情にふさわしい法則が、明確な諸原則に基づく体系に属するものとして、一般に認められることを人は要求する。そして、一般に認められている伝統的な諸規則は、自然の中にある共同の根本概念を示唆しているが、それは、実定法が法の規則を示しているのと同じである。つまり社交の問題は、この観点からすれば、倫理や法の問題と全く同じ地盤に立つのである。よって、社交の理論化は不可避である。理論がなければすべての行為は向こう見ずで脈絡のない経験になってしまう。理論家のみが謎を解く鍵を握り、様々な行為の最終根拠を求める。彼のみが社交的生を技法による作品として構築する。大家たちが美しい幻想と見なし、すばらしい、見事だと語るものを、一つの体系の中に位置付けることにより、理論化はそれを最終的に完成するのである。〈168〉大家たちのこの問題に対する従来の業績は児戯に等しい。なぜなら、彼らは技法〔芸術〕を、それ自体のために愛し敬うことなく、それによって世間に産み出される幸運を重視し、手工業者のようにただ利得だけを求めていたからである。

d.      これに対し以下の試みでは、自由な社交が、あちこちうろつくことのない自然な傾向と見なされ、すべての人に自ずと存在するその最初の概念−その根源的な特徴においてすでに目的と形式が結びついている−から出発し、社交的振舞いのすべての法則を導出することが試みられる。

e.       社交がそれ自身のために求められ、それ自身道徳的傾向以外の何ものでもないならば、社交的振舞いの完成とは、交際の物理的可能性が与えられているところに、現実に交際を形成し、それを維持する熟練に存する。両者は不可分である。なぜなら複数の人が一つの空間に社交的目的で存在していることは、交際の体に過ぎない。それは各個人の活動によって活性化されなければならない。なぜなら、それは全く自由な活動であり、この生はただ、その活動の不断の継続によってのみ維持できるからである。社交的振舞いの理論において、交際はその振舞いの対象として二重に顧みられる。すなわち存在しかつ生成するものとして、あるいは社交の完全性の制約でありまたその完全性によって制約されるものとして〔という二重性である〕。すなわち、交際の根源的イデーが先行しなければならない。なぜなら、そのイデーによってのみ振舞いの法則は制約され規定されるからである。しかし、実行においては振舞いが先行しなければならないので、その法則を適用する規則が存在しなければならない。そして、この適用による交際の実現は、理論において同様に予示されねばならない。したがって、研究は二重の経過をたどる。すなわち1〕交際の概念から求める諸規則を導出する。2〕その諸規則を思考の中で活動へと定めることにより、〈169〉その諸規則から交際そのものを構築する

f.        〔交際概念について〕交際における自由な社交の最も本来的な意義は、複数の人間が相互に作用し合い、その作用は決して一面的であってはならないということである。したがって、演劇鑑賞のために劇場に集まっている人々や講義を聴講している人々は交際しているとは言えない。舞踏会も交際ではない。もし私たちが、この一般の相互作用という形式の下で達せられるべき目的に目を注げば、目に入るのは、ここでは個々の特定の目的は全く問題ではないということは、自由の術語〔内容〕に存するということである。そのような目的は、活動を物質的・客観的規則によって規定し、制限するだけである。それは特定の行動を共同で行うべきではない。交際の目的は交際の外にあると考えられてはならない。各人の働きは、他の人々の活動を目指すべきであり、各人の活動は、他の人々に対する作用であるべきである。〈170〉しかし、自由な存在への働きかけは、その存在が独自な活動へと刺激されること、その活動に一つの対象が提供されること以外にはない。そして、その対象とは、要求の活動以外ではあり得ない。したがって目指されるものは、思考と感受性の自由な働き以外ではなく、それによって、すべての構成員は互いに刺激し合い、活性化しあう。その相互作用は内省しつつ完成される。その〔相互作用という〕概念に社交活動の形式も目的も含まれている。そして、相互作用は交際の全本質を成すのである。これについては以下の研究で二つの見解が区別される。それは先ず形式と見なされ、社交活動の形式的法則を提供する。また相互作用するものはすべて素材であるのだから、物質的法則を相互作用は供する。

g.      以上のような一般的交際概念から、社交の本質も一般的に規定される。しかし、求めているものは現実的理論であるから、特定の現実の交際を考えねばならず、私たちの立法はまだ終わらない。すなわち、すべて個々の交際は、この本質によって、ある特定の量を持たねばならない。そして、それが量を持つ限り、個体として存在するのである。人が刺激しあう仕方、その領域は無限に多様である。しかし、一つの現実の交際となるためには、ある有限な量として、他から分離されねばならない。したがって形式的法則と物質的法則と並んで、第三の法則として量的法則が存在する。そして、この第三の法則は、前二者の法則の適用可能性を条件付ける。〈171〉そこで先ず量的法則から検討する。

h.      1の量的法則。これは自由な社交を互いに求め合う人々の制約性に基礎付けられる。すなわち、君の社交的活動は、常にその枠内に保たれねばならない。そこにおいてのみ特定の交際が一つの全体として存在可能な枠の中に〔保たれねばならない〕。

i.        各人はそこにおいてその人だけが考え、また行動できる特定の領域を持っている。そして各人は、自分の領域内に、他の領域にはないものを持っている。もしある人が、他の人に対する対話において、その人の領域には全く見出されない点に触れるならば、それによって彼は、他の諸点が二人の一方のために説明される度合いに応じて、その人か自分自身を交際から排除してしまう。二人の人が、その二人にとっては共通でも、他の人には全く未知のものについて語るならば、彼らは他の人々からは分離される。その場合その交際は全体であることを止める。そこで、「適切さの戒め」とも言えるものが規定される。それは〈すべての人に共通の領域に属さないものは、提供されるべきではない〉という戒めである。その際に私たちが着手する仕方はすでに与えられた。すなわち、私たちの法則を完全に把握するために、先ず一つの交際が与えられているということから出発し、その共同的領域−その承認によって交際は初めて交際となる−がすでに規定される。そして、いかにしたらこの場合、法則の要求が十分に果たされるかを問うのである。次に、法則の要求から出発して、それに従ってすべての個々の場合に、すべての人に共通の領域がいかに決定されねばならないかを問うべきである。〈172

j.        〔T〕先ず、共同の領域は既知のものとして仮定され、その内部に常に私たちを保つという要求がいかに満たされるかを問う。

k.      このような要求は自由な社交の目的と矛盾する。すなわち、この目的はすべての人に向けられている。ある人が交際の成員であるのは、彼がこれやあれやの個々の特質や知を持っているからとか特別な階級に属しているからとかではなく、彼が他ならぬ彼の個性と独自性をもたらすからである。そこにのみ彼の思考と感情の自由な働きは基礎付けられる。しかし、ある人が個体であるのは、すべてが彼の中で連関し、中心点を持ち、相互に規定され説明される限りにおいてである。その人から彼の原則や考え、自己を表現する仕方の一部を取り去ってみよ。彼は個性を失い、もはや私たちに人間性の独自な見方を表象するのに適さなくなるだろう。したがって、〈私は私の領域の一部を交際から省くべきだ〉ということは〈私は交際において個体であることを止める〉ということを意味する。これが交際の目的に矛盾することは明らかである。同じことは私たちの研究の経過においてさらにしばしば現れる。

l.        この矛盾は相互に対立する二つの誤った格率へと誤り導く。1〕ある人々は一般的命題にとどまる。彼らの主張によれば、人は至るところで自分の個性全体を持ち来たり、表明できる。そして、交際が私たちに課そうとする制約を可能な限り無視する資格がある。そこにあるイデーは、その人々自身が中心点であり、ある交際の大きさは、そこにおいて彼らの引力に従うことがどの程度可能かによって決定されるべきだというものである。このような格率は、それが普遍的ならば、より卓越した交際の下に、〈173〉絶え間ない抗争状態を結果し、それは交際自体の没落に終わるに違いない。本質的目的は達せられないままにである。2〕他の人々は反対に特殊な法則にとどまる。その主張は、人は交際が最善になるために自制しなければならない。そして全体の中間的平均以上によいあり方はない。そのためにすべてが、一般的自然的法則に向かって努力するのである。これを超えて目立つものは不正であり、削ぎ落とされねばならない。すべての独自性は内側へ引き入れられ、そもそも交際のために存在する必要はない。すべては滑らかな表面に行き着く。それはわずかな圧力にも屈する。そして不適切な摩擦によって一般的運動に決して逆らわない。この格率は、全体的品格が入り込むために、単に交際を十分広くするだけで、交際の最終目的を完全に解消してしまう。そして空虚な努力をする。以上二つの格率の対立により、当然のことながら社交の要求〔それは事故活動と自己制限戸から成り立っている〕は、すべての個々の諸点で、誤解され、人は一方を他方に絶対的に従属させることになった。両者を統一するすべを知らないのだから。第三の道がないわけではないが、ただ両者を二重に受取るというのでは、一面性を回避できない。

m.    この矛盾はいかに解決されるべきか?もし私たちが一般的かつ特殊なあり方で着手しようと欲するならば、両方の対立を端的に合一するしかあり得ない。私は私の個性を、性格を持ち来たり、また交際の性格を受け入れるべきである。両者は同じ瞬間に生じ、一つになり、一つの行為において合一されるべきである。私たちがこの戒めをより詳しく見るならば、そこには他の戒めがある。すなわち、個人の性格を形づくるものは〈174〉交際では単に偶然的なものに過ぎず、また交際の本来的性格が存在しているものは、個人においては偶然と考えられるべきである。両者の対立を合一しようという要求には、それを実現する唯一可能なあり方以外考えられないという要求がある。そして、実際そのように考えられる。すなわち、個々の人間を人は、その人の思考や行為に関して特徴付けるとき、その素材によってすることはない。素材は多くの人に共通で全く偶然的である。そうではなく、その人がその素材をいかに扱い、結合し、形成し、伝えるか、その仕方によって特徴付ける。これが個人を特徴付ける本質的なものである。私たちはそれを交際との関係で流儀と呼びたい。これに対して素材とは、人がそれによって交際を様々な種類に区分したり、その性格を規定するものである。人がある交際を記述しようとするときに先ず口にするのは、それが新しい出来事、道徳的叙述、芸術、文学や哲学に携わるかどうかということである。また個人の流儀から生じる特質とは、機知に富むか、月並みか、静かか、生き生きとしているか、仰々しいかだが、それを人は、特質を表すとは見なさず、それによってその種類を決めもしない。それらの善さの程度、それらのあり方における卓越性を決める。同一の素材が支配する二つの交際を比較するとき、常に人が口にするのは、それらは種類は一つだが、一方はより優れているということである。また流儀はかなり同じだが、素材が全く異なる別の二つの交際を比較するなら、両者は等しく優れているが、性格は全く異なると言うだろう。このように素材によって決定される交際の性格を、私は、用語法としては必ずしも適切でないかもしれないが、その交際のトーンと呼びたい。この区別によって先の矛盾は完全に解消する。そして適切さの法則は、次の意味を持つ。私は交際のトーンを保持すべきである。そして、素材に関しては、交際によって導かれたり制限されたりする。その際、この領域内では、私の独自な流儀に完全に任されている。交際において全く束縛されない状態を求める人々は、この境界を越えてしまった。ここから生じるのは次のことである

n.      1)適切さの本来の対象は、流儀ではなく、素材である。重要なことは、この素材を顧みて交際がそこに囲われねばならない境界を見出すことであり、鋭い感覚でその輪郭を発見することである。それらはしばしば予想外の仕方で互いに組み合わされている。政治と歴史、文学と批評、演劇と身振りは間違いなく類縁的な対象である。〈175〉しかし、全く繊細な交際の大部分にとって、その両半分の間に乗り越えがたい分裂が確立されている。そして、その一方が重要であったところで、他方を示すことが、しばしば不適切なのだが、人はそれを予見することはなく、現れてからはじめてその作用によって認識するのである。これに対して、少なくとも適切さのために、自分の独自な流儀に当惑する人はいない。その交際の成員が、対象についての見解や、対象を扱う流儀において、可能な限り多様にお互い相違しているということは、正にその交際の完全性に属している。なぜなら、そのような交際においてのみ、対象は社交との関連で論じ尽くされ、交際の性格は完全に形成され得るからである。自分のあり方をあるがままに任せることへの恐れは、たとえそれが従属的で、誤ったものであっても、交際にとって最高度に有害な臆病である。彼の礼儀正しさの証明において味気なく、会話において散漫で、その着想において平凡であることは、もちろん誉められたことではない。しかし、それは適切さに反対することでは全くない。それは訓練によって改善される。それゆえ私は、各自が自分が何であるかを明るみに出すことは、交際との関係においても、個人自体を顧みることにおいても、正に必要と見なしている。自分の不快な特質を隅に押しやることは、他人の問題であり、彼らはそれに気を使う。誰も自分の要素を避けないように。誘惑の女神サイレンとしてではなく、友としての思いから私は、この状態にあるすべての人に、すばらしい成果を持って呼びかけられることを願う。〈あぁ、君は魚が地上でどんなだか知っているか。君があるがままに下に飛び降りるなら、君ははじめて健康になるだろう〉。

o.       2)適切さの法則に対応する社交的完全性は二つの要素からなっている。先ず、ある種の順応性で、人が交際に提供する表面的なものを、要求に応じて引き伸ばしたり、一緒に引っ張ったりする熟練さで、人は多くの対象を所有しなければならず、もし交際が流動的なら、その多くを容易にすばやく通り過ぎることができなければならない。それから再びすべて残りのものを容易に忘れ、小さな素材に十分とどまり〈176〉そしてそれを種々の仕方で忍耐強く展開するすべを心得なくてはならない。この順応性はしかし、次に、ある種の貫通不可能性と結びついていなければならない。自分の力やあり方は、いたるところで同じ程度に存在していなければならない。そして、活動的、反作用的に自分を表さなければならない。素材の大小、周知、疎遠に関わらず、両者を合わせて私は器用さと呼びたい。最も器用な人とは、最も多面的で同時に独自性のある人、すべての素材に入って行ける人、そして、最も微々たる疎遠な素材にも自分の独自性を押し当てることを知っている人である。

p.      〔U〕さて次に、適切さの法則の要求が前提され、それからいかに私はあの共同の領域−その内部で私は自分を保持すべきなのだが−をどんな場合にも規定しなければならないかが問われる。なぜなら、その領域は私に、人間と同時に与えられることはなく、適切さの法則の要求のための特別の圏を持つ努力によってのみ、私のイデーにおいて実現可能だからである。交際自体はただそのような共同の空間の承認によってのみ全体として成立するのだから、もし、複数の人間の集合によって、交際の可能性が与えられる場合には、その内部でのみ、その交際が存在可能な社交的素材の量を正しく構成することは必然的課題である。この未知のものを見出すために、人は既知のものから出発しなければならない。既知のものとは、複数の人間がそこにいるということ、彼らが交際に入ることを欲しているということである。前者から与えられることは、市民的世界における彼らの状態であり、表面的作法の中にある彼らの教養程度の目印である。後者によって与えられているのは、しばらくの間その市民的関係から出て、彼らの知的活動の自由な働きに余地を与えるという彼らの意図である。というのは、すべての人が交際を目的そのものと見なし、そこにはそれ以外のものを求めないということを、人は前提としなければならないからである。これら二つの論拠は、互いに対立する。一方は市民的関係を指し示し、他方は、そこから私を引き出すのだから。〈177〉両者のどちらから出発すべきかという問題は、以前発見された党派の精神における二つの対立する格率に再び通じている。

q.      〔第1の格率〕すなわち、ある人々は言う。課題は現存する人々にふさわしい交際の性格を見出すことにあるのだから、彼らが一つの交際に入ろうと欲しているという申し立ては、出発点とはならない。なぜなら、ただ普遍からだけでは、その下に把握される特殊を規定することは、周知のとおりできないからである。したがって残るのは、人々の現象自体から出発することである。したがって課題は次のことに還元される。各人が自分の現象自体によって提供する素材から、共通のものを見出し、それを交際の性格として確定することである。この方法の明らかな長所は、それが私たちをすぐに求められた規定に導くことである。しかし、それはまた個人の自由を不正に制限するという短所を持つ。それによってその社会は目標を達せられない。例えば、私が、ある人は商人で、ある人は資本家で、ある人は農夫であることを知っているとして、これらの規定から出る共通のものはすぐに見出されるとしても、しかし、私が、人の市民的状況の単なる概念からその人の才能や知識、教養について知っているものは、その人があり得るもの、すなわち、彼がその職業ゆえに必然的にそうであるに違いないものの最小限に過ぎない。これら三人の人は、自分たちの職業とは全く関係のない他の知識やイデーをさらに多く持ってはいないだろうか?もし私がただここにとどまり、その共通なものだけを、私がそこから出てはならない領域と見なすことを法則となすならば、私はこの怠惰な理性の作業によって、交際の性格を制限し、交際を、それが可能な段階よりも低い段階に留めてしまう。この格率の直接的帰結は、交際の構成員が、その職業に関して同質的になればなるほど、彼らの立場の対象は、歓談の領域を一層形づくることになる。なぜなら、それがそのような規定から生じる第一のものだからである。それ以上を求めなくとも十分豊かだからである。また、彼らがこの点で異質になればなるほど、すべては一般的な政治的観察に一層傾くに違いない。なぜなら、職業的な立場が異なる場合には、特定の国家や市民的世界の状態がなお最後の共通のものであり、そこにとどまることができるからである。〈178〉この格率がいかに一般に守られているかは、学者や職業人または婦人たちのみが集まるところで、前者〔歓談〕がしばしば生じていることにより、また、異質な人々が混在する交際では、何よりも政治が支配的な話題であることにより明らかである。人がこれに飽きるに従い、その構成員は、それぞれの立場に従い、さらに小さなサークルへと結晶化していくが、それでは、人をして一時職業的観点から引き出すという社交の最終目的は果たされないから、社交を損なうことは確かである。〔女性たちの社交の問題性を指摘〕

r.       2の格率は、社交の目的概念を守り、それゆえ第1の格率の方法を否定する。この格率は言う。人は共同の領域を決定するために、人々の第1の現象や市民的状況から出発することはできない。自由な社交において人は、正にそのようなものを越えようと欲するのであるから。この点から出発する人は次のように主張する。すべての人が共に一つの交際に入ろうと望むという命題は、十分に確かであると。この方法は、交際を可能な限り高く定めるという賞賛すべき最終目標を確かに持っている。しかし、その欠点は、それがこのような仕方では決して実現しないことである。〈179〉どちらの点から出発しようと、その都度交際の目的か、求められた法則が欠如する。

s.       したがって、この要求の解決は、与えられた二つの命題を端的に合一し、その合一から出発する以外にはない。これにより一方の命題を他方の命題によって制約するのである。私たちは人物の直観から出発しつつ、そこから生ずるものを自由な社交の目的により制約するのである。この合一にあるのは次のような事態である。ある特定の人々の合一が可能にする素材の量を見出すために、その人々の市民的状態が、そこに必然的に存在しているものとして指し示す素材から出発しなければならないということは、彼らがその素材を、自由な社交の目的にふさわしいように磨きをかけるということである。それは彼らが、一般に興味深く、本来の職業・生業の域を越えた見方や知識に達することによってなされる。「集められた人々の職業に共通するものについての一般的イデーは、社交の自然かつ根源的な素材である」。同様に私たちは他の点、自由な社交の最終目的から出発する。そして、先の点によって見出されたもの、人物の直観を制約できる。第二の格率の要求は、各人が共通に関心を持って最大の完全性において与えることのできるものすべてが、社交の素材としてもたらされるべきであるということで、これを私たちは全く実行不可能と見たのだった。今度の方法はこの無理な要求に対して、私たちに境界として統合された市民的立場を提供する。すなわち、市民的関係はすべてそれが一つの対象との間断なき関わりを前提とする限り、一般的形成の部分−それが、正に対立する方法を要求したり、先の対象と最も遠く隔たったりしていればなおさらのこと−との関わりを妨げる。したがって、今や命題は次のようになる。「交際の領域の規定においては、社交的素材の全体から出発せよ。ただし、交際からほとんど必然的に知られることなく存在しているものは除いて」。したがって私たちは、私たちの合一によって、二つの点のそれぞれから出発し、一方を他方によって制約することによって、再び二つの異なる規則を持つ。〈180〉その両者とも同じ指示によって構成されており、したがって、私たちに同意に対して等しい要求をなす。私たちは両者を個々に扱うのか、それとも先と同様に結合するのかという問題は、次のことに注意することで決まる。すなわち、第一の規則は最小の概念を、他の規則は最大の概念を表現するということである。厳密に言えば、私たちは両者を合一すべきである。それが可能であると私たちは知っている。両者から出発するとは、両者の間を揺れ動くことである。そのように規定された一方の概念によっては、その限界以外に何も規定されない。それは厳密に見出されず、ただ接近によって見出される。したがって、私たちの探求の有限な真の帰結はこれである。交際の領域を、与えられた境界の間で、常により正確に規定することを求めよ。したがって社交の完全性とは、交際の最も外側の境界点の間を軽快に動くことである。本来会話の機微を形作るのは、このような技法である。

t.        私たちは私たちの意図に従って、量的法則についての二つの見解を検討し、それらによって要求される社交的振舞いの完全性を規定し、そこから大きさとしての交際の性格を導出した。まだ欠けていることと言えば、両半分を一まとめにし、全体へ結びつけることである。しかし、その際に新たな困難が生じる。すなわち、第一の見解は次のような戒めを含んでいる。私たちはいかなる瞬間にも、交際の性格を表現する素材を超え出るようなことをすべきではない。また第二の見解では、この性格自体が決して完全には規定されないものとして現れ、その性格をより厳密に見出すために、あらゆる瞬間に何かを為すように命じられている。これら二つの見解が、一つの全体を為し、適切さの概念を完成すべきであるのだが、両者は矛盾しているのである。それゆえ、その一方にのみ十分なことが為され、他方は完全に無視されるということがしばしば為される。そこから生じる誤謬は、適切さの概念にその全体性において反している。その不適切さは、個々で笑うべきものとして現れている。人が自らを高い領域へ高めようとする会話の自然な努力を全く抑圧し、彼がはじめにあったところに頑固にとどまり、他の人々をも力づくでそこに押さえつけようとすること以上に笑止なものはない。そのような態度が人生全体の経過において、学問のサークルで、あるいは政治のサークルで見られるならば、それは、〈181〉それに関与する者たちを苦しめることによって、第三者にはもっとも笑うべきことに見えるのと同様に、夜の一時のまどいにも、小さな会話の場にも作用するのである。少なからず笑止なのは次のような人である。傲慢な新参者がそうするのが常であるように、声の調子を次第に荒げて、交際に談話を楽しむ余裕を与えようとしない人である。明らかに片方を全体のために受取らないことに存するこのような迷いを避けるために、私たちはこれら二つの戒めを、等しく互いに合一しなければならない。どちらも私たちの時間全体を独占し、したがって、両者は一つの同じ行為において満たされるべきであるゆえに、どのみちこれは私たちの課題に存する。交際の性格の外に出ないということと、その性格をより厳密に規定することとは、一つにならねばならない。社交的な法則を与える第一の部分全体に、結局は資することになる後半部分に再び二つの規則が存在する。1〕交際の領域のより詳しい規定は、その領域の外に出ないということであるべきだということは、私はこの作業において、言及された大きさから出発すべきでは決してなく、最小のものから慎重に、より大きなものへと自分を動かして行くべきであるということ。古いホラーツ風の格言におけるように、高い調子で始まって尻つぼみになる漸降法〔アンチ・クライマックス〕の優美な表現が時折見られはするが。2〕共同の領域の外に出ないということは同時に、その領域の厳密な規定をすることでなければならない。交際を第一の見解の規定に従って維持するために私が為すすべてのことは、同時に、交際を、第二の見解の規定にしたがって、さらに継続形成していくという意図を持たねばならない。これによって私には、いかにしたら交際の性格が厳密に規定されるかを試したり、その性格が強く緊張させられたりするのを試みるために、自分で行動したり語ったりすることは許されておらず、交際を維持するためにそもそも私がなすことは、副次的業務に過ぎない。これによって、すべての交際の言表は二重の傾向、二重の意味を持つのでなければならない。一つは一般的意味で、直接維持には関係し、その目的を必然的に誤りなく達する。もう一つは、より高次の意味で、それを誰かが受け入れたかどうか曖昧に示すに過ぎず、そこに含まれている暗示を、さらに追及しようと欲する。これがいかに種々のあり方で起こり得るか、ここで数え上げることはできないだろう。ただ一つ、この規則には二つのジャンルの弁護が存している。それらは俗に悪く言われているが、実際は正しく用いられるなら〈182〉適切なものの頂点に位置するものである。すなわち〈ほのめかし〉と〈当てこすり〉のことである。前者、ほのめかしとは、あるイデーが表現されるあり方に、他のイデーの既知の表現に対する関係があり、この他のイデーがが別の領域にある場合である。後者当てこすりとは、何か一般的意味にしたがって真面目に言われたことが、同時に他の意味を示すのだが、それがある種のからかい、おふざけを含む場合である。このような言表やイロニー、パロディーについてなされる不利な判断の理由は次の二つである。1〕人は次のことを前提としている。その対象であるべきなのは常に一人の人、しかも現存の人物であること。もしそうでなければそれは交際の存在にとって危険な処罰されるべき企てである。2〕それによって、それを理解する者たちの間に、他の人にとっては非常に不利なある種秘密裏の交際が作られることになる。そして、それは拒否し得ない。これを正当化するために私たちは、人が社交目的で一室に集まるあり方を区別しなければならない。

u.      社交目的で集まるあり方は次の三つ。1〕偶然、2〕すべての人の選択意思(Willkühr)3〕ある個人の選択意思。〔それぞれについての考察が続くが省略〕〈183/184

v.      交際はすべて統一的で、一つの全体であるべきだという主張は、その実行がただ漸近的に可能な理想である。

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