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底本:Henriette Herz in Erinnerungen Briefen und Zeugnissen, herausgegeben von Rainer Schmitz, Insel Verlag Frankfurt am Main 1984. S.87-93.

 

〈 〉内の数字は、底本のページ数

 

シュライアマハーの思い出

ヘンリエッテ・ヘルツ

(日本語要約 川島堅二)

87

私がシュライアマハーを初めて知ったのは1794年のことだった。まだ彼は当時、ゲーディケの主導で建てられた教職養成専門学校にいた。アレクサンダー・ドーナ伯爵が、彼を私に紹介したのだった。しかしながら、この最初の邂逅は、通り一遍の挨拶で終わってしまった。彼は間もなくヴァールテ河畔のランズベルクに牧師補として赴任し、そこにおよそ2年留まったからである。彼がそこから戻ってきた後、1796年になって、私たちの結びつきは、もっと密接なものとなった。シュライアマハーはシャリテの牧師となり、〈88〉その構内に居住していた。あのあたりはまだ荒地で、建物もなく、舗装されてさえいなかった。しかし、彼は、ケーニヒ通りに近い新フリードリヒ通りに住んでいた私たちのところにほとんど毎晩やって来た。冬の夜など、私たちのところへ足を運ぶことは、骨の折れることだった。特に帰り道は大変だった。シャリテ改築中、今のオラニーエンブルク街道(Oranienburger Chaussee)に引っ越した時などは、さらに遠くなり、冬の夜などは危険でさえあった。当時、街灯もなく、わずかな人家が離れ離れに点在しているような場所だったからである。しかしながら、彼はすでに私の夫や私と親交が深まっており、彼の方でもそれを十分に意識していたので、そのことが毎晩の来訪の妨げになることはなかった。私たちは彼を案じて、彼に小さなランタンを贈った。それは上着のボタン穴に引っ掛けられるようになっていた。冬の夜はいつもそのようにして、この背の小さな彼は、私たちのところから帰っていった。

当時、彼はまだ知られていなかったし、うわさにさえなっていなかった。彼の文筆活動の開始は英語の説教の翻訳だったが、その程度の活動では、名を知られるには至らなかった。しかし、夫も私も、非常に早くから彼の重要性を認識していたと言うことができる。

フリードリヒ・シュレーゲルがベルリンにやってきた時、私は早速、彼をシュライアマハーに引き合わせた。両者が親しくなることは、有益に違いないと確信していたからである。シュライアマハーの小さな体に、いかに大きな精神の宝が秘蔵されているかを、シュレーゲルもすぐに見抜いた。二人の関係は時を経ずして親密なものとなった。シュレーゲルと私は、シュライアマハーを、私たちのかけがえのない宝石と呼んだ。私たちは、どちらが先に彼を自立した著述家としてデビューさせられるかを競って、シュレーゲル兄弟が編集していた雑誌「アテネウム」に寄稿するよう彼を誘った。これが、最初に活字となった彼独自の仕事となった。その後、すでに1798年の夏には、彼とフリードリヒ・シュレーゲルとの間に〈89〉プラトンの翻訳についての最初の申し合わせがなされたが、これはシュレーゲルからの提案だった。しかし、この提案はほとんど前進しなかった。その責任の大半はシュレーゲルにある。彼は1802年にベルリンを去ったからで、その後、シュライアマハーも宮廷牧師としてシュトルプへ赴いた。それ以降シュレーゲルは、シュライアマハーとの関係を絶ってしまったので、彼は仕方なく困難を承知で、この仕事を独力で継続する決心をしたのだった。こうして1804年に第1巻が刊行された。

シュライアマハーの最初の大きな単著は『宗教論』だった。彼はそれをポツダムで、1799年の2月中旬から4月中旬にかけて執筆したのだった。彼がポツダムに滞在している間、その滞在は5月まで延びたが、私たちはほとんど毎日文通をしていた。彼が『宗教論』を執筆中には、彼はほとんどすべての手紙で、この作品の進捗状況を報告してきた。そして、書き上げた部分を私に送ってきたので、それを、たいていの場合、フリードリヒ・シュレーゲルや、私たちの共通の女友達だったドロテア・ファイトに伝えたのだった。それが校閲され出版される前のことである。私たちは、彼の求めに応じて、この作品の出来上がった部分についての意見を率直に語った。しかし、彼のとは違う私たちのこれやあれやの意見が、何らかの変更をもたらすことはなかった。なぜなら、彼は著述に取り掛かる前から、その内容には確信を持っていたからである。変更はただ、このような大著の企てにはつきものの表面的なものに限られた。しかし、このような変更についても彼は、私たちに釈明を与えたのだった。

1798年から1804年にかけての私と彼との間に交わされた書簡は、シュライアマハーの内的にも外的にも重要な活動の時期について、この卓越した人物の精神や心情に対する最も生き生きとした証言である。私たちがベルリンにいた頃は毎日のように会い、離れ離れになってからは、文通がこれに代わったのだった。彼はこの頃しばしばベルリンに不在であったし、その後丸2年は宮廷牧師としてシュトルプに居た。他方、私は、彼がベルリンに居た間、夏を大部分郊外ですごしていた。このような事情が、多くの手紙を交わすきっかけとなった。〈90〉また、彼の中には、自分を友人たちに分かち合うこと、彼らに、心と感情の細かい襞までもすべてを開きたいという強い衝動があった。また、彼には友人たちのいのちと愛の証しが必要だった。彼はひとたび友情を確信すると、友人たちを過剰に重んじた。私もそれに浴したのである。私宛の彼の書簡の一つにある次の箇所は、深刻な感情にもかかわらず、彼特有のユーモアを交えて、そのような状況にあるこの人の特徴をよく示している。「あぁ、愛しい人、私に善をなして下さい。私に頻繁に手紙を下さい。それが私の生を保つに違いないのです。私の生は、孤独の中では全く生きることができません。誠に、私はこの地上で、最も依存的で、一人ではいられない存在です。私は果たして一つの個なのだろうかと疑うほどです。私は愛を求めて、自分の根を、枝葉を、伸ばします。私は愛に直接触れなければなりません。もし愛を、私の中に存分に取り込むことができないなら、私はすぐに乾き萎れてしまうでしょう。これは私の最内奥の性質です。これに反対する手立ては存在しないし、望んでもいません」。

そういうわけで、彼は、あちこちで、愛に欠乏した男だと言われたが、それは単に、彼が論争において、自分にふさわしく印象的な相手が現れない時など、時折、イロニーの形式を用いたからに過ぎない。このイロニーは、事柄にのみ向けられたものであったにもかかわらず、相手の人物をも不愉快に刺激した。しかし、他の形式であったとしても、事態はさほど変わらなかっただろう。

私とシュライアマハーは、頻繁に交際していたので、二人が戸外でも目に留まるということはしばしばだったと思われる。大柄で、当時はかなり人目を引く女性であった私と、小柄で痩せて貧弱なシュライアマハーとのコントラストは、こっけいだったに違いない。それで、ベルリンでは、私たちを題材にした風刺画さえ現れた。このようなものは当時はここではまだ極めてまれな風刺の表現方法だった。すなわち、私がシュライアマハーと散歩しているのだが、私は彼を、当時流行した小さな折り畳みの日傘として、手でかかえており、同時に、彼自身のところでは、同じような日傘がもっと小さな形で、かばんから顔を出しているという構図であった。この風刺画は、私たちも知るところとなった。そして、私が〈92〉思うに、シュライアマハーと私以上に、この絵で大笑いしたものはベルリンにはいないということである。というのは、この風刺画がたいそう廉価だったからである。

また、私たちの親密な関係を知って、そこに友情以外の感情を推測する人々も、少なくなかった。そのような人は間違っている。シュライアマハーとの関係以上に、あからさまにお互いの関係について、公言できる人はいない。私たちの関係を、自らに、また他の人々に、明確にしようと努めたのはシュライアマハーであった。そうすることで、美しく、礼儀に適ったものである実際の関係を、いかなる迷妄も曇らせることがないためであった。私たちはお互いに対して友情以外の感情を持ったことはなかったし、今後もつ事もないということを、しばしば表明したのだった。[]

シュライアマハーは、特に、精神的に刺激的な会話を喜んだが、しかし、自分と同等の精神的高みにいないような、精神的にはさほど重要でないような人々とも喜んで交わったが、それは彼の偉大な内的善意のゆえだった。彼を最も魅了したのは、人と人との交わりの暖かさだったからである。それゆえ、彼の社交関係は非常に広く、彼に多くの時間を費やさせた。彼が自分の講義を出版できなかった原因も、おそらくそのためである。確かに彼は、自分の自由になる時間に仕事ができたし、常に仕事に十分注意を集中し、どの仕事も最大限にはかどったが、正にそのゆえに、彼は、実際に持っている以上に時間が残っていると考えてしまったのである。彼が招待を断ることは滅多になかったし、同様に、多くの人を自分の家に招いた。しかしもちろん、彼は、盛大な宴会や晩餐会の直後でも、晩餐会の後は、しばしば深夜になっていたが、机に向かうや深い思索に没頭することができた。翌日が説教の日なども、同じような具合だった。夜会を催し、客間にいるときに、彼は15分位,暖炉に向かって座り、ひとり思索にふける。〈93〉彼の親しい友人たちは、彼が翌日の説教を考えていると知っているので、彼の邪魔をしないようにそっとしておくのだった。そして、まもなく、彼は会話に戻ってくるのである。小さな紙片に、彼は鉛筆で23行書きつけると、それが説教の準備のすべてだった。そのような一見粗略な準備しかしていないのに、翌日には、彼が、思想的に非常に豊かで、心のこもった説教をするのを、私は、しばしば経験した。

シュライアマハーほど、その精神力が、肉体にも等しい力を及ぼしたような人はいなかった。死の床にあっても、あと数時間しか生きられないと知っていても、彼は、自分の内面の祝福に満ちた状態について語り、はっきりとした意識で彼の愛する人々へ、そう見えるほどには苦しんでいないと伝えた。彼の最後日々は、夫人が書いているように、今わの時まで、自らをはっきりとした意識で保ちつつ、自分に満足して愛し続けた、偉大な人間の崇高な姿を、私たちに与えてくれた。

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