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フリードリヒ・ダニエル・エルンスト・シュライアマハー

by エーバハルト・ユンゲル

 

最終更新日200599

【解説】以下に訳出したのは、ドイツ語の代表的な神学事典『歴史と現在における宗教』(RGG)第4版(最新版)の「シュライアマハー」の項目です。著者のユンゲルは、20003月にハレで開催された国際シュライアマハー学会で主題講演も行っています。最新の研究成果を踏まえつつ伝記的記述にシュライアマハーの思想を的確に織り込みながらの包括的記述は、さすがという他はありません。

【底本】Eberhard Jüngel,“Schleiermacher,Friedrich Daniel Ernst“, in: Religion in Geschichte und Gegenwart Handwörterbuch für Theologie und Religionswissenschaft, 4.Aufl. J.C.B.Mohr,Tübingen,2004, Bd.7,S.904-919.

【凡例】

〈 〉内の数字は原典の頁数

〔 〕は、文意を明確にするための訳者による挿入

                                                                                                                                                                               

はじめに

904

「彼は学派ではなく、一つの時代を創設した」(KGA I/11,489)。シュライアマハーが、偉人の概念を定義しつつ、大王フリードリヒ二世について述べたこの言葉は、シュライアマハー自身にもそのまま当てはまる。宗教改革以後、彼に比肩し得る意義や影響力を持った神学者は一人もいない。シュライアマハーの神学に対して最も徹底した反撃を企てたカール・バルトでさえ、次のように告白したのである。「シュライアマハーを単に批判するだけでなく、彼と競い合うことのできるような人物はいまだ現れていない」(Barth, Prot.Theol.,381)

 シュライアマハーの思想は、他の多くの思想家以上に、彼の人生の表現である。「シュライアマハーの意義、彼の世界観、彼の作品は、その根本的理解にために、伝記的叙述を必要としている」(Dilthey XV)。彼の神学は、神学的伝記なのである。

 

I.            幼少期

 17681121日、シュライアマハーはブレスラウに生まれた。改革派の巡回牧師(Stabsfeldprediger)ヨハン・ゴットリープ・アドルフ・シュライアマハーと、その妻エリザベート・マリア・カタリーナ(旧姓シュテューベンラウホ)の間に第二子としてであった。三歳年上の姉フリーデリケ・シャルロッテと特に仲がよかったので、両者の間に交わされた書簡は、人間関係豊かなシュライアマハーの人生を理解する上で、また彼の時代の精神史や社会史を理解する上で役立つ資料である。

 祖父ダニエル・シュライアマハーの人生は、シュライアマハーの父の自己意識に重く負担となっていた。父は、少なくとも12年間、信仰を失った状態にあったと自己批判的に記している。J.H.ユング・シュティリングの小説『テーオバルト、もしくは狂信』において、この祖父は、説教者ダーリウスの姿で描かれ、パロディー化されている。この事実が父によってシュライアマハーに明かされたのは、1787年になってから、それも彼を諭す目的で明かされたのだった。母方の叔父、牧師であり大学教授であったザムエル・エルンスト・ティモテウス・シュテューベンラウホのシュライアマハーに対する功績は、シュライアマハー自身の判断よって、十分高く評価することはできない。

 5歳の時、シュライアマハーはブレスラウにあるフリードリヒス・シューレで初等教育を受け始めるが、それは十分なものではなかった。1779年にはプレスの市立学校に転校する。そこで古典語と「偉人の業績」に対する関心が芽生えるが、同時に歴史的伝承の確かさに対する深刻な懐疑も生まれた。父の「信仰覚醒」は、父の心を動かして、子供らをヘルンフート兄弟団に任せ、ニースキーの教育施設へのシュライアマハーの入学を申請させるに至る。シュライアマハーは、その学校へ1783年に入学することになる。このプロテスタントのヨーロッパにおいてよく知られた教育施設において、シュライアマハーをその生涯にわたって規定することになる根源的宗教体験が生じる。ニースキーの明るい雰囲気の中でいくつかの友情が生まれるが、なかでも後年、監督(Bischof)で詩人となるアルベルティニとの友情は長く続いた。17859月から17874月までシュライアマハーは、エルベ河畔のバルビーにある(ヘルンフート派の)神学校に通った。この神学校の教義学的に窮屈な統制は、カントの著作やゲーテの詩も禁書としていたが、〈905〉シュライアマハーを深刻な宗教的危機に陥れることになる。それまで彼は、ヘルンフート的な信仰を全面的に受容し、それは後になってからも自らを「高次のヘルンフート派」と見なすほどであった。すなわち次のように言うのである。「ここではじめて神秘的な能力が展開した。それは私にとって非常に本質的なものとなり、懐疑主義のどんな嵐からも私を守り、救ってくれた。当時それは芽生え、今や成長した。そこで私は次のように言うことができる。私はいろいろあったが再びヘルンフート派になった。ただしより高次の秩序におけるヘルンフート派に」(KGA V/1,50)。神学校の偏狭さに苦しめられつつ、シュライアマハーは、キリスト教の中心的な救済論を疑うようになり、そうした懐疑によって、当時強く敬虔主義的だった父との関係を悪化させた。彼は父に書き送っている。「私は、自分をただ人の子と呼んだ方が、真の永遠の神であったと信じることはできません。彼の死が、身代わりの贖罪であったと信じることはできません」(KGA V/1,50)。父は、彼にハレ大学で3セメスター神学を研究することを許す。彼は1787年に、叔父シュテューベンラウホの元に寄宿した。

 

II.        大学時代

 ハレで生まれた友情のうち、スェーデン人のカール・グスタフ・フォン・ブリンクマンとの友情は、学生時代の後も続いた。ハレではJ.S.ゼムラーのような著名な学者が活動していたにもかかわらず、シュライアマハーはその講義には足を運ばなかった。彼が聴講したのは、ヨハン・アウグスト・エーバハルトによる形而上学についての「卓越した講義」であった(KGA V/1,152)。エーバハルトの指導は、シュライアマハーに対し継続的な影響を与えることになるが、主として彼は独学で勉学に励んだ。彼の関心はカントの哲学に向けられ、それをエーバハルトのカント批判と調停しようとした。カントの実践哲学はいくつかの留保に遭遇していたが、それは、例えば最高善の規定に対する批判として、あるいは、理論理性と実践理性との間の「深刻な乖離」に対する批判として、はっきりとした形で現れていた。神学に対する関心は節度を持って保たれた。宗教はモンテーニュの模範にしたがって、道徳的に不誠実であるという嫌疑をかけられていた。「宗教は良識と真の哲学の尽きざる源泉であったが・・・私は十分にそれを楽しむことができない」(KGA V/1,152)と彼は書いている。それにもかかわらず、シュライアマハーは、ブリンクマンの手紙の中で好意的に主張された神学と哲学の厳密な分離に対して反論し、「信仰的な知性、あるいは哲学的なキリスト教徒」に賛成している(aaO.,153)。1818年に記されたF.H.ヤコービ宛の書簡では、この立場が確証されている。すなわち「私の哲学と私の教義学とは、決して対立するものではありません。それどころか両者はいよいよ接近しているのです」とある(zit. Nach Cordes 209)。また1828年に記されたリュッケ宛の第二公開書簡では、繰り返し引用されてきた次のような言葉が語られる。「歴史の結び目はそれほど離れ離れに進むべきでしょうか? キリスト教は異教と、学問は不信仰と〔離れ離れであるほどに〕?」(KGA I/10, 347)

 17939月にシュライアマハーは、プロイセンの最初の教員養成所であるフリードリヒ・ゲーディケの研究所に入った。こうして学校の授業の理論と実践が一つとなった。この時期にはまた最初のスピノザ研究がなされている。しかしながらスピノザについて彼は「モーゼス・メンデルスゾーン氏宛の書簡におけるスピノザの教説について」(1785年)というヤコービの記述から知り得たに過ぎなかった。この研究は「スピノザの体系についての小論」に結実したが、その中心的な命題「その内部にすべての有限者が存在しているような無限者が存在しなければならない」(KGA I/1, 564)は、伝統的な神学による彼岸と此岸の区別を古めかしく思わせた。「この世とかの世との間に区別を設けるものは、自らを欺いているのである」(Über die Rel., KGA I/2, 203)。1794年から1796年、〈906〉この間教師試験に合格したシュライアマハーは、ヴァールテ河畔のランズベルクで牧師補として働いた。父の死は彼に衝撃を与えた。「父に対して一種冷淡であったこと・・・それは私の人生の最も暗い時期だったと思う」(KGA V/1, 364)

 

III.   ベルリン・シャリテ慈善病院の牧師として

 1796年、シュライアマハーはベルリン、シャリテの改革派牧師職に就いた。職務遂行を怠っているという非難に対して、彼は幾度も抵抗しなければならなかった。ルター派の同僚とともに彼は、シャリテにおける牧師の働きの改善のための提案を起草した。それは、ルター派と改革派共同の典礼への要求を含むものであった。シュライアマハーは、ドイツ啓蒙主義神学者(Neologe)J.J.シュパルディングの知己を得、またベルリンの宮廷牧師F.S.G.ザックを通して様々な支援を得た。ザックはシュライアマハーにイギリスの啓蒙主義的牧師の説教の翻訳を勧め、またベルリンでの牧師職の道を開いてくれたのもザックだった。同じ頃、スェーデン公使館で働いていた友人ブリンクマンは、シュライアマハーをベルリンのサロン、文芸サークルに導いた。ヘンリエッテ・ヘルツは、彼の「心の友」となり、ベルリンの初期ロマン主義者たちは彼に刺激を与えたが、とりわけ、F.シュレーゲルはシュライアマハーを魅了した。シュレーゲルもまた彼に魅了されたのだった。シュレーゲルは、シュライアマハーに執筆活動を迫った。シュライアマハーの協同によって成立した雑誌『アテネウム』(断想という文芸ジャンルに集中した雑誌)において、彼はおよそ30の「時代のテキストへの傍注」を公にしている(Athenaeum-Frgm. Nr.259)。そのなかには「高貴な女性たちのための理性のカテキズム構想」(Frgm. Nr.364, aaO., 231)や、当時の偉人のテキストに対する辛らつな批判もある。哲学や詩、道徳に新たな始点が求められていた。そのためにはスキャンダルをも恐れなかった。シュレーゲルは小説『ルツィンデ』を書いた。またシュライアマハーは、ルター派の牧師の夫人であるエレオノーレ・グルーノに対する愛によって噂の種になっていたが、スキャンダルな小説とされたシュレーゲルの『ルツィンデ』を弁護する書『フリードリヒ・シュレーゲルのルツィンデについての親書』を書いた(KGA I/3,139-216)。その他にもシュライアマハーは活発な文筆活動を展開した。特に意義深いのはユダヤ人解放のための小冊子「ユダヤ人家父長と政治的神学的課題に触れての書簡」(KGA I/2,327-361)。シュライアマハーはユダヤ人の市民生活における平等を要求し、ユダヤ人の解放と改宗の抱き合わせという要求を批判している。同じ頃、シュライアマハーの初期の主著が著されるが、以来、彼は、ドイツの公共生活における「革命的」立役者とされる。

 

IV.        『宗教論』と『独白録』

 1799年に匿名で『社交的振舞いについての試論』が断片的な状態で出版される(KGA I/2, 163-184)。その継続は、影響史上最も重要な著書への集中的な取り組みの犠牲になる。その著書とは『宗教論−宗教を軽蔑する教養ある人々のために』である。これはやはり1799年に匿名で出版される。シュライアマハーの生前に第4版まで出るが、第2(1806)と第3(1821)は大幅な内容改訂がなされ、第4(1831)はほとんど字句の変更に過ぎない。以下にこの宗教改革以後最も重要な神学書を検討する。

 この書が「講演」の形をとっているのは偶然ではない。それは「宗教者は、たとえそこに誰もいなくても語りかける」という事実を顧慮しているのである。なぜなら、「聴衆を獲得する」ことは、宗教者にとって本来的なことだからである(KGA I/2, 268,193)。〈907〉したがって、この講演は単に宗教についての情報提供ではない。それは元来語りかけの行為であり、何よりも先ず聴衆を生み出す創造的な力を持った言葉の出来事である。いわゆる成立宗教に対して真の「自然宗教」を主張する啓蒙主義に支配的な傾向によって、宗教は誤解されてはならない。このような傾向に反対して、シュライアマハーは「宗教の中に・・・宗教を発見する」(aaO.,294)という要求をなす。いわゆる自然宗教は「たいてい洗練されており」「哲学的道徳的マナー」を身につけているが、「そのような宗教は、それ自体では決して存在できない」(aaO.,296,299)と言って、彼は「万人に内在する素質」(aaO.,293)を仮定する。それは姿を変えることはできるが、「君たちに働きかけるために」、「ひたすら自由な状態にされて」いなければならないものである(aaO.,294)。そのように理解されるとき「宗教」はそのよい感覚を獲得する。そのような感覚の「弁護者」としてシュライアマハーは第1講演に登場する。そして第2講演では宗教の本質を規定し、第3講演では宗教への教育を解説し、第4講演では宗教における社交あるいは教会と聖職者について論じ、最後の第5講演では諸宗教を主題化する。これらの講演は、総じて宗教の弁護であるが、いかなる護教論も用いない。それはプラトンの『ソクラテスの弁明』のように、「攻撃による防御」である(Friedlaender 145)が、その攻撃は攻撃された者の益になる攻撃である。またその方法が、イロニー的で同時に産婆術的でもあるという点でも、シュライアマハーはプラトンのソクラテスに似ている。彼は、宗教を軽蔑する者たちに対して、ほかならぬ彼らの「軽蔑そのもの」を話の糸口にして「この軽蔑において、まさに教養のある完全な者になるよう」彼らを促す(KGA I/2, 198)。こうして宗教についてすべてを知っていると思い込んでいる彼らは、自分たちの無知を認識し、自分自身の「最も内奥の深みに」思いをはせつつ、宗教とは、「自分にとって最高かつ最も尊いもの」(aaO.,197)に属していることを発見するだろうと言う。このことを発見する人は、宗教のかけがえのない本質を発見する。すなわち宗教は「思考でも行為でもなく、直観と感情」である(aaO., 211)。そして「その独自の領土は心情の中にあり、そこにおいて宗教は無制限に支配する」(aaO., 204)。しかしながらこのような宗教の主権は、思考や行為をも益する。すなわち「宗教を持たずに思弁や実践を持とうとすることは不遜な思い上がりである」(aaO.,212)。なぜなら、宗教は人間の全体性を構成するものであり、人間の生を、その欠陥をも含めて一つの「不可分の存在」へとつなぎ合わせるからである(aaO.,195)。それゆえ「すべてを、宗教によってではなく、宗教とともになせ!」(aaO.,219)と言われる。思考や行為、形而上学や道徳から宗教を区別して、宗教の独自性を確保することにより、宗教は、人間のあらゆる文化的働きにおける刺激的かつ批判的同伴者となるのである。

 直観と感情として宗教は、人間全体を万有とつなぎ合わせる(vgl.aaO.,246)。すなわち、それにより人間は、最高度に創造的な受動性に変えられるのである。この受動性は、『キリスト教信仰論』において「絶対依存感情」として規定されている。「その独自な表現と行為において」不断に活動する万有を自らに作用させることによって、万有を直観する人は「幼子のような受動性」の状態に変えられる(aaO.,211)。そのような状態において、直観と感情の根源的な統一が生じる。それは「最初の秘密に満ちた瞬間」(aaO.,221)という姿の「神秘的統一」であり、〈908〉語ることによっては再現できないものである。語ることは〔直観と感情を〕区別してしまうから。この統一は生起するものであり、生起するものとして「言い表し得ない言葉」(ギリシャ語のarreton cf.2Cor.12:4−訳者〕)なのである(この分析についてはAlbrecht 105-194を参照)

 『宗教論』にはシュライアマハーの全著作に特徴的な思考様式が現れている。それは、すべての存在者の下に存在論的な根本構造を仮定するもので、その構造によって「本質的に互いに区別されるものが、お互いにしっかりと関係付けられる」(Albrecht 193)。すべての存在には、最高の対立として、有限者と無限者の両極性が働いており、そこから演繹されて、個体と万有、主観性と客観性、自発性と受動性の差異が働いている。しかしながら、これらすべての両極性は、ただ共振的な相関関係(oszillierende Korrelationen)としてのみ存在しており、したがって「一方あっての他方」(2.Aufl. von 1806:KGA I/12, 60)である。それは「一方に重点が置かれると他方が後退する」というように、互いに弁証法的に関連しあっており、「両者が一つであり等しかった」「最初の根源的瞬間」へと戻ってゆく(aaO.,59)

 第3講演と第4講演とは「講演の間のmetadiskursiv挿入」のような内容である。それは、「間主観的な宗教の伝達の内的必然性と、その伝達が外的な形を取る実現可能性」を述べている(Albrecht 342)。「宗教への教育」とは何よりも、誰もが生まれながらに持っている「宗教的素質」を暴力的に抑圧することの廃棄にある。そのような抑圧さえなければ、宗教は「どの人においても、各自に独自な仕方で確実に展開する」(KGA I/2, 252)。宗教的感覚を抑圧しているのは、とりわけ「知的で実際的人間」の啓蒙主義的悟性の熱狂である(ebd.)。これに対抗して助けとなるのは、実利的な現代から解放する教育の改革のみである。「君たちの自我でないものはすべて切り離してしまいなさい」(aaO.,261)。この教育改革によって、「直観する力」は、そのまったき豊かさを手に入れる状態に置かれる(aaO.,260)。「宗教は必然的に社交的でもある」とも言われる(aaO.,267)。そこにおいては「語ることと聞くこととが誰にとっても不可欠であるような」宗教的共同体が生じる(aaO.,268)。このような洞察から生じるのが、国教制において歪められている現在の教会に対する根本的な批判である。「そのよう教会と国家との結びつきはすべて取り除いてしまえ!」(aaO.,287)。政治的な施設へと倒錯した教会に対して、「真の教会」の真髄としてシュライアマハーが提供するのが、ヘルンフート的な「共同体」の理想である。「そこでは誰もが交互に支配者になったり民衆になったりする完全な共和国、誰もが、自分自身において感じているのと同じ力を、他者にも見出してその力に従う。それによって彼もまたその他者を支配する」。そのように理解されるとき、教会は「人間の社交の最も完全な帰結」である。これに対して政治的な共同体は「過ぎ行く一時的な強制された業に過ぎない」(aaO.,270)

 第5講演は、宗教の実質を成立諸宗教において検討している。どの成立宗教も、一つの宗教を代表している。ヨハネ福音書114とフィリピの信徒への手紙25以下を組み合わせたキリスト論的な場の助けによって、個々の成立宗教は、一方では宗教の本質の歴史的受肉として主題化され、他方では、全く特定の歴史的制約の法則の下に自らを放棄し、その限りにおいて歪曲に対して抵抗力の無い宗教として主題化される。しかしながら、永遠の神は人間イエスのペルソナにおいて、ただそこにおいてのみ時間的になるというキリスト論的場の要点に引き返すことにより、シュライアマハーは、「宗教が複数あることを・・・〈909〉宗教の本質に基礎付ける」。こうして真の宗教はただ、この複数性においてのみ「完全に与えられる」と言う(aaO.,295,299)。個々の万有の直観はすべてそれ自体で十分である。それである特定の宗教は自らを形成できるのだが、「ある一つの万有直観が」そこに「すべてが関係付けられる」「中心点」とされねばならない(aaO.,303)。ある特定の万有の直観を、ある一つの宗教の中心点となした人は、その宗教の創始者と見なされる。そのような諸々の成立宗教の全体が、「到来しては過ぎ去ってゆく諸宗教の果てしない継起において」歴史的に実現される(ebd.)。そのような中で、キリスト教は「諸宗教の中の宗教」として自らを現すが、それは「宗教の唯一の姿として・・・独一的に支配する」あり方をするためではない(aaO.,325)。そうではなく、キリスト教が「自らの過ぎ行く性質をはっきりと認めた」ということなのである(aaO.,324)。しかし、もし「仲保者の職務という意識と神性の意識」において生きているイエス・キリストが、彼の後に到来する真理を指し示したのであれば(aaO.,322)、キリスト教は宗教の宗教であるのみではなく、宗教の批判でもある。「もはや仲保者が問題とはならず、父がすべてのすべて」となるような時、「あらゆる時間の外に」あって到来する時を知っているからである(aaO.,324)

 シュライアマハーの初期の著作が、すでに彼の同時代に、そして、いわゆる弁証法神学によっていよいよ遭遇することになる批判は、それが得た同意よりも一層多くのことを、この天才的な企てに対して語っている。批判は、一方で、形而上学や道徳に対する宗教の独立という真に宗教改革的な主張に対して向けられ、他方で、いわゆるスピノザ主義に対して向けられた。シュライアマハー自身が「追放された聖なるスピノザの霊に」頭を垂れよ(aaO.,213)と要求したことによって、この疑いには彼自身にも責任がある。第2講演の有名な結びの言葉にもスピノザの精神が息づいている。すなわち「有限性のただ中で、無限者と一つになること、一瞬において永遠的であること、これが宗教の不死だ」(aaO.,247)。こうした批判によって、シュライアマハーは改変や文意の明確化を版を改訂するたびに行うことになるが、それは版を追うごとに『キリスト教信仰論』の思慮深い精神に近づいた。これによって彼は、かつての認識が持っていた高揚感が失われ、講演が「元来持っていた構想の新鮮さ」が失われてしまったという批判に甘んじなければならなかった(vgl. Herrmann, Glaube, 255; Ders., Dogamtik, 314)

 宗教講演の数ヵ月後、1800年の「新年の贈り物」として、『独白録』が、これまた匿名で出版された。「思索と生を分離することによって、生とは離れたところでなされる哲学」への対抗者として、シュライアマハーは、自白において生じる「自己直観」により思索と生の統一に達しようとする。独白という形式が、文学的にこのことを最もよく評価する。なぜなら、自己自身と独白的に了解し合うことは、話しかけられた聴衆をただ間接的にのみ許すからである。その聴衆〔読者〕は、同様の「自己直観」へと刺激されるはずである。すなわち、「最高の直観とは、各人が、人間性の諸要素を独自に混ぜ合わせることで、独自な仕方で人間性を表現すべきであるということ」(KGA I/3, 18)。その際に決定的な役割を演じるのが、日常的なおしゃべりの「無意味な騒音」を脱した言葉である。「各人は、自分の言葉を、財産に、芸術的な全体に造り上げる」。このように「死んだ形式を憎みつつ、自分自身の陶冶を求める」人が、「来るべき世界」に属する人である(aaO.,38f.)。〈910〉それは、一つの「新しい世界」になるだろう(aaO.,46)。自己自身との対話においてシュライアマハーは個体性の倫理学を起草する。「思索」「吟味」「世界観」「展望」「青年と老人」という標題の下に、独自な世界観、独自な生の経験、独自な感情、希望、願望が、事例的に叙述され、それによって、読者は、自分自身の個性を発展させるように促される。後に「有機化」と「象徴化」として示される理性の根本的な人間論的機能の区別が準備される。すなわち「世界と人間が何であるかを知っている人にのみ、自由と無限性は存在する。・・・私にとって精神とは、最初にして唯一のものである。なぜなら私が世界として認識するものは、精神の最も美しい作品であり、精神が自ら作り出した自己の鏡だからである」(aaO.,9)。世界は、具体的な素材として、「人間性の偉大な共同の身体」である。人間性の「自由な行為は、その身体に向けられ」る。それは、「身体のあらゆる脈拍を感じ、身体を形成し、すべてを器官に変じるためであり、またその身体のあらゆる部分に王の精神が現在するというしるしをつけ、それに生命を吹き込むためである」(aaO.,10)。この精神は、時間や時間的因果関係には服さず、老人にも、その自我が「内的な自由と自由な行為」を意識するならば、「永遠の若さと喜び」(aaO.,61)を与える。それゆえ、「永遠の青春を、私は自分に誓う」(aaO.,56)

 

V.            シュトルプの牧師として

 1802年、シュライアマハーの「職務上の上司」であるとともに「父親のような存在」(KGA V/5,134)でもあったザックは、ヒンターポメルンのシュトルプで空きになっていた牧師職へのシュライアマハーの転任を発起した。それは、ベルリンの初期ロマン派の騒動に対して距離を置くためで、その騒動には、エレオノーレ・グルーノーとの愛情問題も絡んでいた。これに先立って、書簡による両者の対決があったが、そこでザックは、『宗教論』の持つキリスト教的説教とは相容れない汎神論的性格に対する懸念を表明した。また、シュライアマハーの「ユダヤ人との交際」や、「怪しい主義や習慣を持つ人々」との友情のゆえに彼を非難した(aaO.,3)。シュライアマハーは、ある印象的な書簡において次のように反論している(aaO.,129-134)。彼も自分の仲間たちも「牧師職を最も尊いもの」と言明しており、「他の職と取り替えようなどとは決して」望んでいないと(aaO.,132)。都から遠いシュトルプでの孤独は、文筆活動の計画の実現に幸いした。詩作の試み、プラトンの対話編の翻訳、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の教会政治的改革を支援する二つの所見、シェリングの著作『学問的研究の方法についての講演』の書評、そしてとりわけ『従来の倫理学説批判綱要』〔以下『綱要』〕、これらが実現した。

 『綱要』は、『独白録』で行ったカントやフィヒテの義務の倫理学に対する批判を、専門家に通じる書き方で継続したものである。この書の目的は、従来の(古代及び近代の)道徳哲学に対する批判に尽きるが、それは(姿と内容の一致として理解された)それら哲学の学問的形式という観点でのみなされている。それは、学問として現れることが可能な倫理学に、その学問論的な場所を示すためで、それによって、「独自な真の学問であろうとする」倫理学の要求が、正当化されるのである(KGA I/4, 37)。そこには、論理学、自然学、倫理学という哲学諸科に「共通する芽」、「そこからこれら三つの幹がおい育つ芽を示すこと」が含まれる(aaO.,49)。この批判は先ず、〈911〉従来の倫理学説の最高原則に向けられ、それから、倫理学の諸概念、そして、これら諸概念が諸原理と一致しているかどうかという問いで終わる。最高の学問との関連は欠如している。なぜなら、「学問は、厳密な意味では、単独では完成できず、ただすべての学問に対して共通の存在の根拠を含んでいる最高の学問の下で、他のすべての学問と一つになることによってのみ完成するからである」(aaO.,353)。この、さらなる基礎付けが不可能あるいは不要な「学問論」が、シュライアマハーの成熟した体系構想において、「心理学」あるいは「弁証法」いずれの形をとるのかについては、研究の争点となっている。プラトンとスピノザのみが、そのような最高の学問への着手を視野に入れていたとされる。倫理学の問題となる領域は、古代の哲学にしたがって、義務論、徳論(Tugendlehre)、財態論(Güterlehre)と規定される。そのいずれも、倫理学の全領域を包括できるので、それらは、この観点の下で同格と見なされる。注目すべきは、「自由な結合及び産出能力」(aaO.,287)としての想像力(vgl.aaO.,129)、特殊女性的倫理性(vgl.aaO.,220f.235f.290)の評価であり、また、「機械的に働く社会の区分」(aaO.,290)についての評価である。『綱要』は、倫理学の概念を準備した。それは、社会生活として実現される人間理性の包括的な理論として、自然学(人間生活の自然的基礎の総体)と対を成すものである。

 

VI.        ハレ大学教授時代

 シュライアマハーをヴュルツブルクの教授職へという動きを、プロイセン国王は、彼をハレ大学の員外教授及び大学牧師に招聘し、さらなる援助を約束することで阻止した。1804年よりシュライアマハーはハレで活動する。180610月のナポレオンT世によるハレ大学閉鎖は、シュライアマハーの教授活動に突然の終結をもたらした。ハレでの4セメスター中に、彼が講義したテーマは教義学、神学通論、哲学的倫理学、解釈学、キリスト教倫理、教会史研究の目的と方法、新約聖書釈義などである。またこの時期に、プラトンの翻訳の続刊、いくつもの書評、正典批判や解釈学的問題意識にとって重要な研究である『テモテに宛てたいわゆるパウロの第一の手紙について』(KGA I/5,153-242)、プラトンの対話篇の形式で詩的に叙述されたキリスト論『降誕祭』(KGA I/5,39-100)などが刊行された。

 ハレからベルリンへ異動する時期に、ベルリン大学の新設に影響を与えた『ドイツ的意味における大学について』(KGA I/6,15-100)が刊行される。またギリシャ哲学史についての講義の果実として、ソクラテス以前の哲学者に対する関心を新たに喚起した研究書『エフェソのヘラクレイトス、その著作断片や古代の証言による叙述』(aaO.,101-241)が著された。

 

VII.   ベルリンでの多方面での活動

 1807年から死まで、シュライアマハーはベルリンで広範囲に影響を及ぼす活動を展開した。当初は〈912〉無職であったが、1809年からは三位一体教会の改革派牧師として、また1810/11年冬学期に開学予定のベルリン大学就任予定教授として活動した。ベルリン大学では初代神学部長に任命された。1809518日彼はヘンリエッテ・フォン・ヴィリッヒ(旧姓フォン・ミューレンフェルス)と結婚した。彼女は、友人エーレンフリート・フォン・ヴィリッヒの妻であったが、若くして夫と死別、前夫との間にできた二人の子供と共にシュライアマハーとの再婚生活に入った。この結婚から4人の子供が生まれる。一人息子のナタナエルは弱冠9歳で逝去してしまう。シュライアマハーは墓前説教をしているが、それは彼の神学と信仰の感動的な実存的記録である。

 

1.   説教者、教授、アカデミー会員

1810年、シュライアマハーは、王室学術アカデミーの哲学部門の一員に選出される。これによって彼に、哲学部で講義をする権利が与えられた。シュライアマハーは、当初はフィヒテと、後にはヘーゲルと実り豊かな競合関係にあった。シュライアマハーの講義は、弁証法、哲学的倫理学、解釈学、教育学、心理学、美学、哲学史に及んだ。そして、これら諸学の根本構造を明らかにすることによって、諸学問の体系を構想した。学術アカデミーに対しては、彼は書記として組織的影響力も行使した。彼のアカデミー論文の内、特に注目に値するのが6本の倫理学についての論文である。それらは、完成された倫理学の補遺として起草されたもので、徳、義務、許可、最高善などの諸概念や、自然法則と倫理法則の相違などに向けられている。同様に注目に値する研究は、『技法(Kunst)概念の範囲について』(KGA I/11,725-806)と『解釈学の概念について』(aaO.,599-641)で、そこにおいて解釈学は、あらゆる言語的生の表現に妥当する理解の技法論として構想されている。解釈学は人間の言語的な諸文節を把握するのだが、それを個人的精神の発展から(心理学的解釈)と、その人が使う言語の形式的体系の部分としても(文法的解釈)行う。そして、その理解へと導く。一方では比較による分析(比較Komparation)と、他方では、先に述べた〔言語的〕生の表現における個の直接的把握(予覚Divination)によって。このような心理学的また予覚的解釈を、主観的であるとする判断は、その特徴を見誤っている。

 

2.   体系構想

シュライアマハーの成熟した体系構想は、ドイツ観念論の構想と同等のものだが、独自な内容も示している。そこにおいて知と学問への要求は、最高知に関係する知の全関連に位置付けられることによって正当化される。しかし、現実の知は「常にただ論争状態においてのみ現れる」ので、「知そのものを扱う教説は、(フィヒテとは異なり)学問の学問としてではなく」「概念や判断、またその両者の連関の技法に適った形成についての教説である弁証法という技法論においてのみ[]展開されるべきである」(Kasprzik 75)。あらゆる学問の根底にあるシュライアマハーの存在論の基礎は、自然と理性(身体と魂)の統一を前提とする「人間の諸機能の構造で、その構造は世界に対する人間の関係、また人間相互の関係から来るものである」(Ästhetik 8f.)。存在das Sein(実在性Realität)が意識Bewußtsein(観念性Idealität)になる限り、自我はその認識機能(=象徴化の行為)において、事物と一つになる。意識が、有機化の機能において〈913〉世界に作用する限り、自我は「自分の観念を実在の中に作り上げる」。こうして理性は、人間の身体を越え出て、自然を自らの身体と化す。そして、「事物を自らと」「一つにする」(aaO.,9)。事物あるいは個々の存在は、その定めにしたがって、「次の二つの仕方で把握される。1)事物は力の現れであり、自ら力として再び現象をもたらす。その際、これら諸力の階層に知において対応するのが、諸概念の上位下位である。2)活動によって事物に従属させられるあらゆる個々の存在が、それがそれであるところのものになる。そして、そちらの側では活動を他の存在へと及ぼす。他者によって規定されるこの状態に、知において対応するのが判断である。存在を規定するこれら二つのあり方は、どの地点においても相互に移行可能である。その結果、世界は諸力の体系としても、また相互作用の空間的時間的多様性としても叙述可能である。現実には、私たちは、私たちにとっては再建し得ない両方の側の相互性と関わらねばならない。この力としての相互的存在が理性であり、多様な空間的時間的存在が自然なのである」(Kasprzik 74)

したがって、およそ可能な知は常に、経験的知であり思弁的知でもある。経験的知は多様な空間的時間的存在を知覚する(博物学Naturkundeや歴史学Geschichtskunde)。思弁的知とは思考において自らを基礎付け、範疇を作り出す知で、一方では理性に作用する自然についての知(自然学Physik)、他方では、自然に対して歴史的に作用する理性についての知(倫理学Ethik)である。したがって、知は、自然的なものと倫理的なものについて、思弁的あるいは経験的という二つの形をその都度とることになる。すなわち、自然学と博物学、倫理学と歴史学である。その際、個々の特定の所与は、理性によって描かれた存在者の根本構造に、存在者として批判的に関係させられるのである限り、知は「批判的な学科」において表される。それら批判的学科は、いわゆる「技術的な学科」あるいは「技法論」とは区別されねばならない。後者は、人間においてのみ行われる「認識と有機化の循環」(Ästhetik 9.)が、どのように整えられ速度を増すかについて、規則を与える学科である。これらに属するのが、弁証法、解釈学、教育学、政治学、実践神学である。以上を図式化すると以下のようになる(vgl. Herms 403)

 

自然的なものについて

倫理的なものについて

 

思弁的知

自然学

倫理学

批判的学科の結果

経験的知

博物学

歴史学

 

技術的学科による応用

 

認識と有機化の循環、その循環に含まれている自立と依存の相互作用は、協同によってのみ進んでゆくことができる。したがって、有機化と象徴化の行為の差異の指導原理、あるいは、この差異に適用される同一的あるいは個的行為のさらなる区別の指導原理によって、4つの特殊な共同体形式が区別される。すなわち、同一的有機化(貿易、経済、法としての)は、国家として実現される。個的な〈914〉有機化(自由な個人の展開の可能性の条件である財産の形成としての)は、自由な社交として実現される。同一的象徴化(思考と言語)は学問として実現される。個的な象徴化(興奮や感情、芸術や宗教)は、教会として実現される。芸術に対しては、独自な共同体形式は考えられていない。これら4つの全ての共同体形式に織り込まれている根源的かつ本質的生の形式は家庭である。

 

3.   神学諸科、教義学、教育学

神学の講義から、プロテスタント神学にとって決定的な二つの書が現れた。1811年に刊行されたきわめて簡便な書『神学研究の短い叙述 序論的講義のための研究』(=『神学通論』)と、主著として、初版1821/22年、第21830/31年に出版された包括的な教義学『プロテスタント神学の諸原則にしたがって連関を尽くして叙述されたキリスト教信仰』である。『神学通論』は、「事実的学問」として‐すなわち、自らに与えられた課題においてのみ統一性を持つ学問として‐理解されたキリスト教神学を、次の三つの部門に分けている。すなわち、哲学的神学、歴史神学(ここに教義学と新しい学科である教会統計学が含まれる)、実践神学である。全ての神学諸学科は、(「最も広義の」)「教会指導」の原理から導き出されるので、神学は、「その所有と使用なしでは、キリスト教会の一致した指導が[]不可能であるような学問的知識と技法規則の総体である」(§5,KGA I/6,328; vgl.§1)。教会指導と無関係になるなら、これらの知識は「神学的であることをやめ、それらの知識が、その内容によって所属していた学問に戻ることになる」(§6, KGA I/6,328; vgl. Jüngel, Verhältnis)。

 シュライアマハーの『信仰論』は、正当にも「近代プロテスタントの古典的な組織神学の著作」となった。それは、シュライアマハーが次のことに成功しているように思われるからである。すなわち、倫理学、宗教哲学、護教学からの借用命題からなる教義学序論において、教義学の近代的な根本アポリアを解くことに成功しているように思われるからである。古代の教義学が、キリスト教信仰(fides quae creditur信仰内容)を、聖書の権威に戻ることによって、等しく確認し正しさを証明できたとしても、啓蒙主義以降、少なくとも信仰命題の証明については、聖書の権威ではもはや十分ではない。普遍的な理性的真理として自らの真正性を証明するか、あるいは普遍的理性真理によって証明するかしたもののみが、真理性を要求できるということは、いまや自明のこととなっているからである。シュライアマハーは、このようにして提起された偶然的歴史的真理と普遍的理性的真理の相対的関係という問題を、次のようにして解決しようと試みた。すなわち、彼は、「直接的自己意識」あるいは「感情」において、思考と行為とに対立する独自な実存的能力を主張し、それは、彼の規定によれば、敬虔な感情として「人間性に本質的な要素」である(2.aufl.,§6)。それゆえ「神なき自己意識」は、自己意識の欠陥様態として存在できるに過ぎない(§33; vgl. §11)。「私たちが自己自身を端的に依存していると意識する、あるいは、同じことだが、神との関係にあると意識する」(§4)限り、直接的自己意識、あるいは感情は敬虔なものである。世界内的なものへの、あるいは、全体としての世界へのあらゆる依存を排除する絶対的な依存感情は、〈915〉絶対的な自由感情を排除するが、しかし、世界に対する自由を可能にする。「およそ自由感情がなければ[]絶対的な依存感情も不可能である」(§4)。この命題に注意すれば、シュライアマハーの取り組みにたいするグロテスクな誤解(ヘーゲル)は、防げるに違いない。絶対依存感情とは、「信仰の多様な現象すべてに共通のもの」(§4)である。信仰者もこの世に存在しているので、直接的自己意識の最高段階すなわち敬虔も常にこの世の相対的な「感覚的意識」に伴われている。それは敬虔を妨げるものではなく、敬虔を支援するように定められている。というのは、この世への関係は神関係によって規定されるのであって、その逆ではないからである。こうして「獣的に混乱した」自己意識の最低段階が克服されねばならないのである。

 「直接的確かさ」(§33)の姿で与えられたゆえに、それ以上の証明を必要としないあらゆる宗教的表現の真理基準として、この絶対依存感情は、キリスト教のみならず(!)あらゆる宗教的共同体の基礎を形作っている。このような共同体が形成される理由は、「人間性の本質的要素はすべて、その発展において必然的に共同体になる」(§6)からである。キリスト教会は、他のすべての宗教的共同体から次のことによって区別される。すなわち、すなわち、その同一性が、全く敬虔という目的によって規定されていることである。キリスト教会の外面的な同一性の根拠は、「教会がナザレのイエスから出発し、絶えずこのイエスに戻るという伝達関係」だということである。なぜなら、全ての恒常的な敬虔共同体は、歴史的な「原事実[]から生じ」、この原事実は「それ以前の歴史的連関からは理解されることができない」(§10)。それゆえにこれは「啓示」といわれる。キリスト教会もそのような啓示から生じたのであり、その内容は、「ナザレのイエスによって完成された救済」(§11)である。このような啓示のキリスト論的救済論的同一性は、次のような異端によって脅かされる。すなわち、イエスの人間性あるいは神性を、また罪人たる人間の救済必要性を疑問視する異端である。その排除はキリスト教教義学の純粋性を保証することになる。教義学をプロテスタントの教義学として特徴付けるのは、それが「個人の教会に対する関係を、その個人のキリストへの関係に依存させる」ことである。カトリックにおいてはこの関係が逆になる(§24)。

 シュライアマハーのキリスト論は、古代教会のキリスト両性論を近代的思考に対応するように新たに定式化することを要求する。そこでは、神意識の原像を持つ者として規定された罪なき人格についての言説と、救済者の働きが相関的に解釈される。自らの無罪性を他者へ伝達するキリストの力は、その教会論的な対応を、共同の霊として教会に命を吹き込む聖霊の中に持つ。この聖霊は、信仰者たちを、互いに、またこの世に対して働きかけるよう駆り立てる。その結果、信仰は広まり、信仰者たちは、「絶えずいっそう一つに[]なる」(§121)。そうして彼らは一つの「全体的生Gesamtleben」を形成するが、それは、救済者の完全な写し(Abbild)である。

 「教義学の様式」(aaO.,148)において、シュライアマハーは次のように述べる。彼は先ず、敬虔な自己意識を、救済概念において〈916〉共に立てられた罪と恩寵の対立から独立した形で叙述する。その際に、神的な因果関係を枠組的概念として、神についてのあらゆる語りに対して有効にさせる。そうしてから初めて、敬虔的自己意識の事実をそれが、他ならぬその対立によっていかに規定されているかを述べる(aaO.§29)。しかし、シュライアマハーはこの配列の逆転も考えていた(vgl.Zweites Sendschreiben an Lücke, KGA I/10,337f.)。十字架の死、復活、三位一体は、独立した神学的主題を形作ってはいない。教義学の構造に対しては、さらに別の区別が影響を与えている。それにしたがって、全ての教義学命題は「@人間の生の状態の記述として、あるいは、A神の特質と行為様式についての諸概念として、あるいは、Bこの世の性質についての言説として」把握され得る(Glaubenslehre,2.Aufl.,§30)。シュライアマハーは、@を「教義学の根本形式」と見なし、ABを最終的には「余計なもの」(§30; vgl.§31)と見なすにもかかわらず、教義学の素材を、これら三つの見通しの下で次のように説明する。信仰と神と世界についての教説として一貫して叙述されると。教義学の課題とは、「論理的に整えられた反省によって」キリスト教的敬虔自己意識を表現している諸命題を、教会の信条に立ち戻りながら、一つの体系に整えることである(§17f.)。このようにして教会の宣教により大きな明瞭さと実効性を得させるのである。教義学は、その限りで実践神学へと導かれるが、シュライアマハーは実践神学を学問的な学科に高めたのである。広める行為と〔不純物を取り除く〕純化行為の区別、とりわけ、働きかける行為と表現する(礼拝的)行為の区別は、今なお実り豊かなものであることが明らかである。

 認められたのは後になってからだが、今日は古典と見なされているシュライアマハーの教育学は、自己形成と、他者‐それは「支援し」「反作用する」活動として自らを完成させる‐を通しての形成、この二つの形成の差異と共に働く。その目的は、「世界を自らに受け入れ、また、自らを世界において表現する」という使命に、人間が応じることである(Erziehungslehre,620)。その限り、教育学は、先鋭化された政治的学科であり、それは「教育として、人間を国家、教会、自由な一般的社交、そして認識や知における全体的生へと送り届ける」べきものである(Päd.Schriften,Bd.1,28f.)

 

4.   実践活動Praktisch-Werden

シュライアマハーは、実践活動に向かう神学の目標を、彼の神学的生涯において実行した。とりわけ、説教者として、しかしまたルター派と改革派教会の合同のために真剣に取り組む教会政治家として。ただ彼は、国王による統一式文の命令に対しては、これを教会の内部構造に対する国家の干渉として戦った。シュライアマハーは、多くの古い教会讃美歌を、自分の典礼に使用するために編集した。そして、啓蒙主義と復古との間に成立した1829年のベルリン讃美歌に、決定的な神学的影響を及ぼした。

1834212日、シュライアマハーは他界した。「彼の葬儀には前代未聞の2万人から3万人の人が集まった」(Ranke 260f.)。この偉人の思想に対する十分根拠のある批判は、とりわけ、制圧するような思考の仕方に対して有効かもしれない。すなわち「揺れ動く(Oszillation)ことは、[]およそ有限な存在すべての普遍的形式である」(Brief Sch.s an Jacobi, zit. nach917Cordes 209)。シュライアマハー自身の思考は、おそらく少し揺れ動き過ぎたと言えるだろう。シュライアマハーの伝記についてはNowakの著書を参照せよ(457-524;579-600)。彼は自分の書の冒頭に、以下のようなシュライアマハーの言葉を引用している。「学問と真理とは絶対的なものではない。しかし、それらは絶対的なものから発している」(KGA II/10,1,8)

 

[. 影響史

 シュライアマハーの影響史に属するものとして、何よりも彼の変化に富んだ作品をめぐる編集上の努力がある。彼が死の床でなした指示をはるかに超えた草稿の山‐その分量は、シュライアマハーが生前自ら出版したテキストをはるかに凌ぐが‐が、出版された。出版人ゲオルク・アンドレアス・ライマーは、シュライアマハー逝去の年にすでに「彼の著作の可能な限り完全な版の出版」を予告している。1834年から1864年にかけて三つの区分(T.神学、U.説教、V.哲学及び文献学)で出版された『全集』は、しかしながら、シュライアマハー初期の原稿は含んでいなかった。批判的校訂のなされた個々の版や『選集4巻本』は、包括さの点で『全集』を凌ぐものではなかった。1980年以降、五つの区分(T.文書と草稿、U.講義、V.説教、W.翻訳、X.書簡)で出版されている新全集(KGA)は、編集上も傑出した業績で、高まりつつあるシュライアマハーに対する関心を促進している。KGAと共に1985年以降、〔シュライアマハー研究に特化した研究書シリーズ〕『シュライアマハー・アルヒーフ』(SchlAr.)も出版されている。これらと共に、多くの個々の著作や選集が市場に出ており、シュライアマハーに特化した研究雑誌や研究シリーズも存在している。

 シュライアマハーのテキストの均一を欠いた整備状況が、「受容史に複雑な様相を与えている」(Nowak 467)。シュライアマハーはとりわけプロテスタント神学においては影響力を持ったが、彼の「弁証法」や「哲学的倫理学」は、哲学の世界で、ドイツ観念論の偉大な体系構想と比べると限られた影響力しか持たなかった。解釈学や教育学の古典としても、シュライアマハーは、ようやく20世紀になってから十分な注目を集めるようになった。

 神学での受容の重点は、今日までのところ組織神学と実践神学の分野においてである。『宗教論』『神学通論』そして『信仰論』は、神学上の影響史にとって決定的となった。教会的には、教会合同の神学がシュライアマハーの著作によって促進された。

 シュライアマハーの遺産を積極的に引き継いでいるのは、いわゆる調停神学者たちである。中でも傑出しているには、A.シュヴァイツァー(改革派として)、K.I.ニッチュ、I.A.ドルナー、そしてとりわけ独創的なのがR.ローテである。ルター派では、エルランゲン学派のJ.Ch.K v.ホフマンやF.H.R.フランクの経験主義神学は、信仰経験に根ざした確かさについてのシュライアマハー理論やそれを担う自己意識論なしには考えられない。シュライアマハーの思想世界の非常な複雑さを、最も本質的ないくつかの洞察に還元するA.リッチルの非常に生産的な試みも、決定的な路線においてはシュライアマハーの取り組みに負っている。すなわち、神学を形而上学から区別することにおいて、また、キリスト中心的な教義学の方向付けにおいてである。リッチルの弟子の中でも最も独立的であったW.ヘルマンは、シュライアマハーの『宗教論』を(『信仰論』との対比において)、「新約聖書正典が完結して以来、キリスト教的認識と信仰告白の領域で現れた[]最も重要なもの」と見なすとさえ言っている(Barth, Nachwort,291)。哲学的にさらに強く導かれたリッチル学派のE.918〉トレルチは、シュライアマハーの学問論的構想を引き継いでいる。近代の思考の変革過程にとって、シュライアマハーには高い意義が認められるという。P.ティリッヒは、古典的な「綜合」の神学者として、シュライアマハーを評価し、その面をさらに展開しようと試みている。

 早くはヘーゲルによって始まったシュライアマハー批判は、根本的な誤解に基づくことがしばしばであった。L.フォイエルバッハによる次のような理解もそうである。すなわち、「神学の秘密は人間学である」という自分のテーゼのためにシュライアマハーを引き合いに出せるという理解である。F.Ch.バウアーによれば、シュライアマハーのキリスト論は、グノーシス的な仕方で歴史的次元から遊離している。D.F.シュトラウスの批判も極端に一面的である。

 全く異なる方向性を持っているのが「弁証法神学」による根本的なシュライアマハー批判である。当初は全くシュライアマハーに心酔していたK.バルトは、後になって様々な仕方で異議を唱えた。「神について語ることは、何か高揚した調子で人間について語ることとは別のことである」(Barth,Wort Gottes,164)。このようなかなり大雑把な批判の理由は、『宗教論』の宗教概念だけではない。そうではなく次のようなシュライアマハーの主張も原因である。すなわち、「神の特質や行為様式」についての概念ではなく、(また「世界の性質についての言説」でもなく)「人間の生の状態の記述」が「教義学の根本形式」として神学的に重要という主張である。このような根本的なシュライアマハー批判にもかかわらず、バルトは、E.ブルンナーのシュライアマハー批判書『神秘主義と神の言葉』(1924)を、不適切と断じる。シュライアマハー神学の中にある未解決の問題を真剣に受け取るというバルトの晩年に検討された可能性は、「戯れの問い」として非難されるべきではない。この問いの真剣さは確実に裏付けられる。「神の言葉の神学」は、根本的なシュライアマハー解釈によって、その独自な問題意識を高められることを、ゲルハルト・エーベリンクの関連するシュライアマハー研究は示している。現在のプロテスタント神学においては、論争的否定のレッテルをもはや必要としないシュライアマハー受容がきざしつつある。そこでは、そもそも「引き継ぐべき遺産」と「批判」とはもはや二者択一的な状態ではないのである。

 

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