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アルバート・レブレ「シュライアマハーの思考構造」

Reble, Albert: Schleiermachers Denkstruktur, Zeitschrift fuer Theologie und Kirche, Neue Folge, Organ fuer die systematischen Fragen der Religionswissenschaft und Geisteskultur, hrsg. von D. Horst Stephan, Der neuen Folge 17. Jahrgang 1936, S. 254-272.

 

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 シュライアマハー研究、とりわけ哲学的思想家としてのシュライアマハーに取り組む研究は、様々な時代に由来し、異なった観点の下に書かれた多数の個々の著作や講義ノートや体系を書き留めた草稿に、当初から直面してきた。それらは大部分、著者自身によって最終的な仕上げがなされておらず、いくつかの問題において、相互に周知の食い違いを示している。シュライアマハー解釈における一致の広範な欠如は、彼の思想を一義的に把握することの困難を反映している。したがって、シュライアマハーの体系についてそもそも人は語ることができないというような考えさえ表明されてきた。

 現代のドイツ哲学における思考形式の研究は、文献学的哲学的資料分析という方法によって、私たちに次のような可能性を提供している。すなわち、実際に幾重にも変化する個々の問いを超えて、また、「時期」にしたがった区分を越えて、統一的に一貫したシュライアマハーの思考態度に肉薄し、それをその構造において正確に把握し、その哲学的体系性を〈255〉思考構造の影響として理解する可能性である。さらに、シュライアマハーにおいては、すでに厳密に研究された思考の型の興味深い変容が提示されている。

 青年シュライアマハーが、ヘルンフート兄弟団の制限と絆を勇敢に脱したこと、カントとの対決によって批判的な自意識に目覚めたこと、この大学教師〔カント〕の哲学の持つ厳格な体系性と抽象的な専門用語などは、次のことの確証にとって、何ら重要性を持たない。すなわち、情緒的に飽満し、神秘主義に浸透されたヘルンフートの世界像が、個人と万有とを等しく情熱的に包含する彼の精神によって、シュライアマハーの思考態度全体を支える根底を表現しているということである。彼は自らを「高次のヘルンフート派」と感じていたという、しばしば引用される彼のロマン派時代の言葉は、真の自己認識を表現している。両親の家庭教育、とりわけ、ニースキーでの年月を通して、彼は、彼の心情の深みにおいて、愛の神秘主義に基礎付けられ、熱情的な感情の内面性に支えられた兄弟団の共同性に、完全に慣れ親しんだ。その小さな群れの中で、有機的な世界像は、特別な力を持って人々の心を形成した。霊に根拠を持つキリスト教会の高邁な思想(「私は頭であり、あなたがたはその枝である」)は、彼らにとって非常に広範な力を有したので、彼らは自らを本当に、一つの大きな有機体を構成する細胞であると感じ、また、「客観的観念論」の意味で、一つの包括的な存在に匿われていると意識していた。その存在はストアのνουςのように、個々人を超えて存在しながら、個々人を貫いて有機的な成長によって、発展するとされた。ゲーテが自然という旗印の下で、ヘーゲルがロゴス精神という旗印の下で公言した有機体の形象は、一層情緒的宗教的に把握されて、ヘルンフートの精神をも反映しているが、それは、シュライアマハーを理解するための母胎と特徴付けることができる。

 世界を、他ならぬ彼の直接的な感情に相応しく、素朴な仕方で、生き生きと自分を貫く個人的・超個人的諸力として、あるいは、二つに分かれた姿で人を惹きつける大きな植物として、思想的に理解すること、このようなことは、シュライアマハーが『純粋理性批判』に没頭し、〈256〉自分の哲学において、超越論的転換を成し遂げた瞬間にできなくなったに違いない。1793/94年に由来するカント、スピノザ、ライプニッツとの彼の対決(「スピノザ主義」と「スピノザ論」)―これについては、ここでは、私たちの問題と関係する限りでしか触れられないが―は、興味深い仕方で次のことを示している。すなわち、シュライアマハーにおいて、いかに神秘的客観的な生の感情が、カントの影響によって、はっきりとした断絶を経験したか、しかしながら、今や初めて、概念的な表現に真に達したか〔を示している〕。カント的な認識上の制約への主観の転換によって、世界「自体」への直接的な推論はすべて、独断的として退けられ、したがって、この時期のシュライアマハーには、形而上学的な個性の問題、すなわち、経験的現実性を持った事物の根底には、分割されない存在があるのか、それとも、個体化された存在があるのか、という問題が立ち現れ、その結果、彼が、その問いを他の問いによって、すなわち、いかに個々の事物が、経験において働く私たちの諸機能によって構築されるかという問いによって置き換える決心をするということは、シュライアマハーには原理的に決定できない。しかし、彼がこの問いに与える答えを導いたのは、決してカントではなく、スピノザの世界像であった。そして、諸概念の相関的な分類において、すでに固有の思考構造が認められるのである。