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フリードリヒ・シュライアマハー「自叙伝」

最終更新日200596

 

【解説】以下に訳出したのは、シュライアマハーが、17944月に2回目の神学試験受験の際の必要から記した自伝的文書である。この年に彼は、この試験に合格し、正牧師として按手礼を受け、ランズベルクで牧師としての第一歩を踏み出すことになる。彼が両親(特に母親)から受けた幼少期の教育、ヘルンフート兄弟団の学校への入学と、そこでの精神的葛藤について知ることのできる一次資料である。

 

【底本】“Selbstbiographie“  Aus Schleiermachers Leben. In Briefen. 1.Bd. Berlin. Druck und Verlag von Georg Reimer. 1860. Photomechanischer Nachdruck, Walter de Gruyter, Berlin, New York, 1974, S.3-15.

 

【凡例】

〈 〉内の数字は、底本の頁数

〔 〕は、文意を明確にするための訳者による挿入

は原文にはない改行

 

3

 私は、17681121日にブレスラウで生まれた。私の父は、当時改革派の従軍牧師としてシュレージエンに滞在していた。父は職務上、しばしば旅に出ていたので、私が家にいた間、私の教育はもっぱら母の手に委ねられたが、その母は、宮廷牧師シュテューベンラウホの末娘であった。私の生涯の最初の数年間については、当然のことながら断片的にいくつかのことを覚えているに過ぎず、ここに書くほどのものではない。

5歳になると、私は〈4〉宮廷牧師ハインツ氏が校長を勤めるフリードリヒ学校へ通い始め、かなりの早さで下級クラスを終えた。というのは、私はラテン語の仕組みとその最初の規則をすぐに理解したからであり、私の記憶力は、たくさんの語彙をすぐに覚えたからである。翌日にはその大半を忘れてしまうのではあったが。私はこのような進歩のゆえに、早くから秀才の誉れを受け、また、大きな学校ではそうならざるを得なかったのだが、私は、自分よりも年長の子どもたちを、自分の下に見るようになったので、私は高慢で思い上がるようになり始め、このような状態がしばしば結果することであるが、私の体質にはもともとはなかった短気で激した性質を身につけるようになった。私の母は、私を熱愛していたが、私の過ちを見逃すことは決してなかった。彼女は、私の高慢を、理性的で宗教的な考えによって、神への感謝に変えようとした。また、私の激しい気性に対して、彼女自身の気質でもある統制のとれた落ち着きと公正明大さとを対立させた。それは私をして、経験に基づく次のような確信に導いた。このような〔高慢な〕振舞いによって害を受けるのは他ならぬ自分自身だけであること、そして、しばしば私の目的であった善は、別の仕方によってはるかによく達せられるということである。

私の高慢は、別の面からもくじかれた。私が通っていた学校では、読本や教材用散文選集(Chrestomathien)は、まだ用いられていなかったので、私は、まもなくラテン語の著述家たちのものを読むように導かれた。その場合、単語を機械的にドイツ語に置き換えようとしても、その内容に達することはできなかった。私のドイツ語の読書を非常に思慮深く指導した私の母は、理解しないまま読むことのないように私を指導した。私が学校で、支離滅裂な断片で読んでいたものを、全体として把握しようとすると、その生き生きとした内容を捉えることはほとんど全くできなかった。私にはそれを理解する前提として必要な知識が欠けていたからである。このことは、私をひどく困惑させた。そして、私の幼友達にはこのような困惑が全く認められなかったので、私は、〈5〉私の能力に対する賞賛を疑わざるを得なくなった。そして、他の人がこの思いがけない発見をもするのではという不安で絶えず動揺していた。学問的な授業の欠如が、このような思いをさらに促進した。自然史と自然科学は、今では最下級の生徒にその初歩が教えられるが、私はそれを友人から学び知っただけであった。私は、水がどのように沸騰したり凍ったりするか分かっていないということに、しばし驚愕した。そのようなことは私の周りの誰もが知っているように思えたからである。また私は歴史の面白さが分からなかった。私が知っていたのは、それ〔歴史〕が、私に死ぬほどの退屈を引き起こすということ、そして、4つの君主国と、ペルシャの王たちを順序正しく覚えることは恐ろしく大変だということだけだった。

 私の成長に伴い、両親はブレスラウを去り、オーバーシュレージエンのプレス(Pleß)に移り、1年後には移民の町アンハルトに住んだ。両親は、私を自分たちから離すことを善いとは考えず、両親のもとで過ごしたり、プレスの学校に通ったりして数年を過ごした。10歳から12歳の間は大部分を両親のもとで過ごした。父親が家にいる間は、彼が私に授業した。しかし、父が不在の間は、私の知識が増すことはほとんどなかった。能力不足を感じていた知識に対する私の不満は、増大していった。私は語学を本当に嫌い始めた。しかし、母の努力によって、内容のある多くの知識をそれとは知らぬ間に蓄えていった。それらの知識は、少なくとも子どもの間ではどこでも普通にあるというものではなかった。12歳から14歳にかけて、私はプレスの寄宿学校にいたので、エルネスティーの生徒となった。彼自身は学識上も教育上もたいした価値を持っていなかったが、しかし、私にとっては大きな意味があった。彼のラテン語に対する熱意は、他の人々を凌駕するという功名心と結びついて、私を〈6〉再び活動的にした。そして、高名な人々についての説明は私の熱情に活力を吹き込んだ。彼はまた、私を励まして芸術における練習をさせ、対象について正しく考えるようにさせ、自分の考えを記述するように導いてくれた最初の人であった。しかし、この時期にも私はある自分だけの悩みを持っていた。それは、ある奇異な懐疑主義であった。その最初のきっかけについてはもはや思い出すことはできない。私はとりわけ、古代のすべての著述家たちや、彼らと共に古代史は偽造であるという考えに陥っていた。その理由は次のことに他ならない。すなわち、私はそれらの真正性について証拠を持っていないし、私がそれらについて知っているすべては、小説のように、またつじつまの合わない仕方で現れるということである。私は当時なお秀才の評判を受けており、自分の大いなる無知や無能力の発見によっても、私はそれを否定しようとは思わなかったが、そのような評判は私の中に閉塞感をもたらした。その原因は、私を苦しめていたこの特別な考えをも、私は私自身のために保持し、私が時と共におのずから発見するであろうもののみによって、その考えに対する確証や反駁を期待しようと決心したことである。

この時期に私の両親は、旅行中に、オーバーラウジス(Oberlausiß)のニースキーにあるヘルンフート兄弟団の教育施設を知ることとなった。そして、私と弟をそこに入れる決心をした。父は、私に、たいていの大きな学校にある道徳的退廃について説明した。また、私が経験していた幾分か危険で、しかし非常に魅力的な交遊関係や、さらには、ブレスラウの学校について私が聞いたり、ある程度自分で経験していたりしたことについての回想は、私をも〔父と〕同じような危惧の念で満たした。他方、〔ヘルンフートの学校の〕人々を支配している純粋な敬虔についての説明や、学校の素朴な環境、そして、授業と共同の休養との賢明な混合について説明は、私を夢中にした。一言で言えば、私は〔ニースキーへの〕旅立ちの日を心待ちにした。

しかし、学校の側からの許可はそう簡単には得られなかった。学校がついに示した最善の意向においても〈7〉どうなるかは運命に委ねられていた。私たちは決定までの数週間をグナーデンフライに滞在した。そして、ここにおいて、宗教の問題における想像力(Phantasie)の支配に対して基礎が据えられた。この想像力が、私を、幾分か冷静さのない状態において、夢想家(Schwärmer)にした。しかし、私は実のところいくつかの非常に貴重な経験を、この想像力に負っている。私が、自分の思考様式を‐それはたいていの人においては無意識のうちに理論や観察によって形作られるのだが‐私自身の歴史の結果また刻印として、はるかに生き生きと見ることのできるのは、この想像力のおかげなのである。私はすでにいくつかの宗教的な戦いを克服していた。永遠の賞罰についての教義は、私の子どもらしい想像力を、極度に不安にする仕方で悩ましていた。そして、11歳の時に、私に眠られぬ夜をもたらしたのは次のような思いであった。すなわち、私は、キリストの受難と、それを代表しているといわれる刑罰との関係を考えることにおいて、納得のできる事柄をつかめないという思いであった。今や、新たな戦いが始まった。それは、兄弟団において、自然的堕落と超自然的恩寵の働きについての教義が論じられ、ほとんどすべての講義に関わってくるそのあり方によって引き起こされたもので、私がその一員である限り続いた戦いであった。この悔い改めを求める神秘的体系を支える二つの足場〔自然的堕落と超自然的恩寵〕の内、前者〔自然的堕落〕については、自分の経験だけで証拠は十分だった。まもなく私は、どんな善行も疑わしいものに思えるか、あるいは、単なる形式的行為に思えるようになった。したがって、私は苦悩に満ちた状態に陥った。それは、しばしば私たちプロテスタントの業として非難されるような状態である。それは私には人間の道徳的能力についての私の確信として受け取られ、その代わりになるものはまだ何も与えられていなかった。というのは、私は無益な努力の内に、超自然的感情を得ようと躍起になっていたからである。その必要性については、来るべき裁きの状態についての教えの観点から私自身を見ることで、確信させられていたし、その現実性については、全ての説教や讃美歌、またそのような気分に魅了されている人々をみることから納得させられていた。その超自然的感情は、私だけを避けているように思われたのである。というのは〈8〉私がその影をつかんだと思っても、すぐにそれは私自身の行為、私の想像力の不毛な労苦に過ぎないことが明らかになったからである。賢明な私の母は、かの二つの教義命題〔自然的堕落と超自然的恩寵〕に関するより正当な諸観念と、私がこの教団でそれについて聞いていたこととを一つに結びつけ、私の心を落ち着かせようとしたが、無駄であった。私がこのような状態で兄弟団に対する確固たる忠誠を獲得しながら、その一員にならないことを大きな不幸とみなしたということは、誠に自然なことである。その上、私は次のような決心をしていた。もし私に、兄弟団の学校への入学が許可されないのであれば、その外で博学な名声への道−それはプレスの教師たちによって私に示されたものだった−を歩むよりは、むしろ兄弟団の中で名誉ある手仕事を学ぼうと。この決意が、超自然的作用に対する何かを自分の中に保持する試みを、初めて私になさせた。

このような状態で私は、1783年にニースキーにある学校へ入学した。そして、私は、ここで、また後にはバルビーの神学校で過ごした時を、生き生きとした喜びを持って回想することができる。授業の方法は、私の知る限り最善とはいえなかったが、少なくとも、その時まで私が受けてきた授業の中では最善のものであった。とりわけ、私は、教師たちの中の一人を、変わらぬ感謝を持って敬慕している。彼は宗務局上級評定官(Ober=Consistorialrath)ヒルマー氏の兄弟であった。常に病気がちであったが、彼は真の哲学的精神の持ち主だった。卓越した教育的才能を持ち、自分の生徒たちに対して最善を尽くす倦むことのない勤勉さを持っていた。彼は歴史の授業を、熟練した仕方で悟性を豊かに形成するために用いることを心得ていた。そのおかげで、私には全く新しい未知の領域が開かれたのであった。また彼は、ラテン語の勉強を、分かり易く同時に哲学的な仕方で行ってくれたので、私は、ラテン語に対する全く新たな愛情を抱いただけではなく、他の言語をも自分で進んで学べるようになった。彼の他に〈9〉私がそこでなした進歩について、とりわけ私がおかげをこうむっているのは、ひとりの同級生である。彼は、私が同じくらい信頼を寄せた学びの同伴者であった。私たちの喜びも悲しみも、一つの泉から流れ出た。私たちは一緒に思索し、感じ、学んだ。私たちが今なおオレステスとフュラデス〔刎頚の友の意〕と呼ばれているのを、私は知っている[1]。私たちの読書の試みは法外で冒険的であった。それは、それが伴う労力や時間の消費に見合うものでなかったにもかかわらず、不毛ではなかった。語学能力は乏しかったし、ヘーダリヒの辞書とメルクシェンの文法書しかなかったが、私たちはギリシャの詩人に没頭し、相当な早さでホメロス、テオクリトス、ソフォクレス、エウリピデス、ピンダー(Pindar)を吸収した。理解できないことが多くあるということが、私たちを狼狽させることはなかった。私たちには欠如している補助知識がいくつもあるに違いないということを、私たちは知っていたが、私たちは理解できたところで十分だった。そして常に一層明らかになるよう願っていた。古代ギリシャについての講義を聞いたことは一度もなかった。しかし、私たちは次第に自分でいろいろな発見をし、勝利に酔うようにして論文を書いていった。それは引用で満ちており、内容的には周知のものばかりであったのだが。さらに笑うべきは、ダーツの文法書とストックの辞書だけで、その他、絶対不可欠な予備知識なしに企てられた旧約聖書の〔ヘブル語原典〕講読である。私たちは程なくエゼキエル書の闇の中で動きが取れなくなってしまった。しかし、これによって私たちは、非常に消耗しつつも、より一層の喜びを伴いつつ、様々な教訓を得た。それは、このような状況以外では得られないものでもあった。

 1785年、私は友人と共にバルビーの神学校に移ったが、そこは、兄弟団の大学であった。私たち二人は、異例の若さでそこへ進級した。〈10〉しかし、このような栄誉の喜びは、多くの不安や苦悩によって曇らされた。私たちがそこへ行ったのは、数年後に〔兄弟団の〕教師として任じられるためであった。学問の教師になるということは、耐え難い循環にはまり込むことのように思われた。何かを他の人々に教えるために学ぶ。そして、その教えられた人々が、今度はまた教えるためだけに学ぶ、この繰り返しだからである。私たちは、兄弟団の中に、生に対して十分な広がりを持ち、骨折りがいのある諸学問の応用を見出せなかった。私たちがこの教団の教師、代表になったとしても、およそそのようなものは欠如しているであろうし、おそらくはずっとそうであろうと確信してしまっていた。私たちは共同の活動において、また友情を感じることにおいて、非常に幸福であったが、将来を考えれば考えるほど不幸になった。私たちは今なお超自然的な感情を追い求め、この団体の用語で「イエスとの交わり」と言われているものを追い求めたが、無駄であった。無理やりなされた想像力の行使は不毛であったし、想像力を用いた自発的な補助手段は、常に欺瞞であることが示された。これまで私たちはギリシャ語の詩句に慰められてきた。それはすばらしい慰めの泉だった。今やこの問題は、私たちに一層深刻になってきた。しかし、まもなく局面が一変した。私たちは、一般に広まった私たちの哲学的な声望の賞牌に拠り所を見出し、哲学を始めたのだった。表面的な自由の増大も、私たちの内的な鎖を解き放つように思われた。私たちが聞かされてきた哀れな論理学、私たちが受けてきた制限付の読書、そして、自由な精神を装う年長の同僚たちの事例が、私たちの探究心を目覚めさせたのでないことは、確かだった。心理的ドラマの葛藤は、可能な限り固く凝り固まっていた。それは、自ら解かれ始めねばならなかった。そして、私たちの内的状況に適合した仕方以外でそれが解かれることは不可能であった。体系についての最近の神学者たちの研究や、人間の心についての哲学者たちの研究が、私たちに接することはなかった。なぜなら、私たちは、世間で起こっていることを付随的に聞くだけであったし、その内容については、私たち自身が発見したところから、推測することができるだけだったからである。私たちは規則を犯して、〈11〉秘密の方法で、あるいは禁じられた文通によって、インド人から書物を調達した。それは、私たちが熱望していたヴィーラントの詩やゲーテのヴェルテルであった。私たちは、自分の感受性だけを外から養おうとしていた。思考に関しては、私たちはあまりにも激情や、この激情についての自己観察に没頭していたので、何か他のものに対して感受性を向けることができなかった。この最初の精神の開花を叙述する試みが、私にとって大きくなればなるほど、私の心に浮かんでくるあらゆる思い出の中から、そのいくつかをあえて記すということは、私に与えられたのではない誌面において、許されないものとなってくる。私の考えは、まもなく、兄弟団の体制から離れていったので、私はもはや良心的にもその一員であることが困難になってきた。そして、私の言辞も非常に人目を引くようになってきたので、教官たちは、私たち三人組(というのは、もう一人、豊かな才能を持ったイギリス人が、私たちの仲間に加わっていたから)に、警戒の目を向けるようになってきた。あらゆる手段を尽くしての私の回心の試みも無益であった。私は、自分がひとたび踏み込んだ道を去ることができなかった。しかし私は長い間無力感を抱いていた。それは私に労苦を引き起こしたが、この発見において私に生じた様々なしくじりや障害を通して、私を鍛錬してもくれた。

バルビーを去り、ハレ大学に移るという私の希望を父は承諾してくれた。1787年初頭に、私はそれを実行に移したが、状況はよくはなかった。14歳の時以来、見ていない外の自由な世界は、未知であったし、加えて、如才のなさと洗練された習慣が私には全く欠けているという意識があった。また、これから知り合うであろう仲間たちの粗野に関して否定的な考えに満たされていた。その中に友人を得る可能性も疑っていた。予見されたこのような不愉快に対する対処手段を、私は何ら自分の中に見出せなかった。私は臆病で、長く続いた締め付けられるような状況に疲れていたからである。私が信頼した唯一の支えは、父の友人であった。彼の助言と善意は、私にとって確かなものだった。その友人とは、当時すでに亡くなって数年が立っていた私の母の兄、シュトゥーベンラウホ教授である。〈12〉彼の私に対する功労は、あまりに大きく、また多岐に渡っており、一つ一つを述べることができないほどである。彼の友情を十分に用いなかったという思い以外に、私を責める思いは何もない。どんな賛辞を述べることに代えて、私はこう言おう。私が今あるのは、ひとえに彼のおかげであると感謝せねばならないと。私の内面がこの時以来なした進歩は、まだ私にとってあまりにも最近のことなので、正しく評価できない。それゆえ、私はただ表面的な出来事を述べるにとどまることにする。私の大学での勉強には、まだ正しい統一がなかった。私はまた将来を意識して勉強してもいなかった。たださし当たっての必要のためだけだった。それゆえ、私はいろいろ試みて、定まったのは後になってからだった。さらに私を害したのは、独学者‐いろいろな点で私はこれであった‐につきものの自惚れであった。独学者は常に固定した型にとどまろうとする。それによって、彼は労多くして、実りがわずかということになる。彼は学ぶことを軽蔑し、重要なのは何を知るかではなく、いかに知るかであるなどと考える。私はハレで、解釈を学ぼうとは思わなかったし、哲学することを学ぼうとは思わなかった。それゆえ私は、解釈に関する授業を取らず、ただ哲学の授業を一つ取ったが、それもただ資料を集めるためで、そこに私自身の思索を加えるためであった。私は、人が必然的に学ばねばならない一つのことだけを見ていた。すなわち歴史である。しかも、私が最も必要と考えた歴史は、思想史であった。したがって、これを私はその二つの部門で研究し、特別に興味深い箇所では、その原典を展望し始めた。たった2年間のハレ大学での学びは、断片的な研究しか許されなかった。わがままを言わなければ、私ははるかによくこの時を用いることができただろうにと、喜んで白状する。

この学びを終えると、私は1年間、先に述べた叔父シュトゥーベンラウホのもとに滞在した。叔父はその間、教授職からノイマルクのドロッセンの牧師職に転じた。この孤独な1年間、私は、叔父との交流という貴重な時を持ち、〈13〉神学において獲得した断片的な知識に、補いと内的ないっそうの統一を与える努力をして過ごした。また、この時から初めて将来のことも考え始めた。そして不安の内に最初の神学試験を受け、1790年の夏にこれに合格した。

その後間もなく、叔父に対する友情から、私に常に好意的な関心を持ってくれていた宮廷牧師ザック氏の仲介によって、プロイセンのシュロビッテンにあるドーナ伯爵家の家庭教師の口を得た。その年の秋に、私はそこへ移り住んだ。この邸で、私は3年半、総じて非常に幸福な時を過ごした。よくしつけられ、精神的にもいくつかの点で見所のある生徒は、私を煩わせたり、不愉快にしたりすることなく、急速ではないが、相当な進歩を遂げた。私の授業に参加していた妹の方は、あらゆる知識に対して最高度に受容的な女性らしい精神で、私に心地よい、骨折りがいのある情景を与えてくれた。家族が多かったので、私はいろいろと忙しく、当初望んだほどには自分の研究のための時間が取れなかったが、この家庭は、非常に多くの尊敬に値する愛すべき性質を提供してくれたので、私があちこちでその家庭的幸福に何か寄与できた場合、それは私の大きな喜びとなった。私は、この家庭的幸福に居合わせ参与していることの喜びを、このような身分の家庭においてはそれを見出すのがまれであればあるほど、いっそう生き生きと享受した。しかし、私の状況は、当初から、長期の継続は約束されていなかった。両親と家庭教師の双方が、完全に一致していなかったり、あるいは、当初から意見が食い違っていて、両者の間に距離があったりする場合、家庭教師は、常に不安定な身分になる。私の場合がそれであった。私は未熟だったので、前もって結果を予測したり、予防策を講じたりすることができなかった。したがって、間もなく、教育とその方法をめぐって、私たちの考え方に大きな相違があることが明らかになった。〈14〉釈明を避けたり、不一致を姑息な手段で何とかしようとしたりしたことも、それに輪をかけた。姑息な手段は、一時しのぎに過ぎず、破局をわずかに遅らせるだけに過ぎない。自分の考え方への固執や、人事を尽くさずに単なる恭順から、何か重要なことを自分の意に反して行うことは決してしないという原則を、私は可能な限りよい方法で、主張しようと試みた。しかし、この原則は、強情さとして見られ、激しい不機嫌な気質も伴って、批判的な衝突へと至ってしまった。豊かな快適さと、経験によるいくつかの教訓を私にもたらしてくれたこの結びつきは、予期しないほど早く破局に至ってしまった。

 昨年(1793年)の秋にプロイセンから戻ると間もなく、私に別の道が開かれた。私は教員養成所の一員になった。これはここベルリンでは、上級宗務局及び上級学務局のゲーディケ博士が責任者である。また同時にコルメサーのヴァイゼンハウスの教師職の欠員があったので、そこの授業を暫定的に受け持つことになった。それは制約があまりないという利点を持つ地位であった。前者の仕事は、私にとっては全く新しいことだった。私は16歳の時以来、特殊な校風が支配する学校以外、大きな学校というものを経験していなかった。したがって、職域を正しく判断し、それによって方策を講じることができるようになる前は、最初、幾つかの部分的には不愉快な経験もしなければならなかった。後者の仕事には以前からなじんでおり、私が専心すべき仕事に、常に前向きに喜びを持って携わった。私がこれを書いているこのハウスの生徒たちの下で私が生み出している有益性は明らかで相当なものであると、私は思っている。

 このような二つの仕事に関わる状況に、半年ほど置かれた。私は、それを〈15〉私の本来任じられるべきキリスト教の教師の職と取り替えるという考えでいた。ヴァールテのランズベルクで説教者をしていたシューマンは、私の親戚であったが、私がドロッセンに滞在している時に知己を得た。以来私は彼をしばしば訪ね。彼に代わって説教したりしていた。彼は、健康上の理由から、自分の仕事を軽減し、またその仕事を代わって遂行する助手の必要を感じていた。彼は私に対する友情から、これを私にやってもらいたいと考えていた。これは多くの点で、私には望ましく思われた。この思いは、私の上司らの忠言によっても強められた。彼らは私の思いを越えた善意によって、私の問題に関わってくれた。私の求めは、教会当局にとってもなんら支障はなく、間もなく、私は、当局からランズベルクにおける叔父の代理をするようにと任命を受けた。この委ねられた職務における私の行状が、この職に私を招聘することによって私の上司たちが示してくれた私への信頼を裏切ることがないように願う。また私の決心が、力の限り、絶えず栄誉を受けるように願う。これまで私の運命を導いて、有益な精神的成長と様々な訓練を私に与えてくれた神が、この新しい重要な転換に対しても、祝福を与え、それによって私が、委ねられたかくも重要な職務の誠実かつ賢明な行いによって、次のことを示すことができるよう願う。すなわち、神が私によって示された善きものを、私が無為にしないことを。

1794410日 ベルリンにて

フリードリヒ・ダニエル・エルンスト・シュライアマハー

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[1] ここで言われている友とは、後に兄弟団の監督(Bischof)になったアルベルティニ(Albertini)のことである。