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最終更新日2005年1月10日

Grundtext: Hermann Fischer,Friedrich Schleiermacher Verlag C. H. Beck,2001. S.16-50

Zusammenfassung und Erweiterung auf Japanisch von Kenji Kawashima.

フリードリヒ・シュライアマハー小伝

byヘルマン・フィッシャー (日本語要約と加筆 by川島堅二)

 

第1節          幼少及び青年期(1783‐1787)

シュライアマハーは、17681121日、ブレスラウに生まれた。彼は父方母方共に改革派の牧師の家系である。すでに彼の祖父ダニエル・シュライアマハー(1695年生まれ)は、聖職者であったが、波乱に富んだ生涯を送っていた。彼は先ずシャウムブルクの宮廷付牧師として働き、不幸な解職の後、ボン近くのオーバカッセルで、最後はエルバーフェルトで、説教者として働いた。エルバーフェルトで、彼はエリアス・エラー(Elias Eller)創設の急進的敬虔主義の熱狂的セクトを支持し、1741年からは、エルバーフェルト近くのロンスドルフで、そのセクトの説教者として働く。セクトの内部抗争の後に、彼は、1751年オランダのアルンハイムの姉の下に逃れた[1]。その後信仰的にもセクトから離脱し、アルンハイムで改革派教区の長老に選ばれたが、再び聖職に就くことはなかった。この祖父はシュライアマハーの洗礼時の代父の一人であり、ダニエルという名は、この祖父から受け継がれたものである。

シュライアマハーの父ゴットリープ・アドルフは、父との関わりで同じくエリアス・エラーのセクトとの戦いに巻き込まれた。彼は、174114歳の時にすでにデゥイスブルク大学で神学の勉強を始め、19歳の時にはそれを修了し、そのセクトの説教者になる予定であった。しかし、父親に対する疑いから、これは実現しなかった。ゴットリープ・アドルフ・シュライアマハーは、エラーのセクトの考え方から解放されると、敬虔主義からは距離を置くようになった。懐疑主義者として、長年、信仰と知との間を彷徨したが、労苦して啓蒙主義的教会的立場に達した。後に彼は息子に対して、ある手紙で次のように告白している。「少なくとも 十二年間、私は本当に不信仰者として説教していた」と[2]。先のセクト紛争が終結後、彼は1758年にマグデブルクのヴァイゼンハウスの教職を引き継いだ。1760年、七年戦争の際には、プロイセンの領主フリードリヒU世のもとで、シュレージエンで従軍牧師となり、改革派の信仰を持った兵士たちの牧会をした。七年戦争が終わると、彼はブレスラウに居を定め、1764年にカタリーナ・マリア・シュテューベンラウホと結婚した。ブレスラウで四人の子供に恵まれた。シュライアマハーは、その第二子である。

シュライアマハーの父親は50を過ぎた1778年、ヘルンフートの信仰に心を捉えられるが、ヘルンフート兄弟団に加わることは決してなかった。同年、母親は子供たちと共に、オーバシュレージエンのプレスに移住したが、1年後には、バイエルンの王位継承戦争から父親が帰還すると、プレス近郊の村アンハルトに居を移した。一家は改革派移民の共同体に住み、そこで父親は従軍牧師として働くと共に、改革派の牧師職に就いた。彼らがヘルンフートの信仰から受けた後々まで残る影響は、自分たちの子供をこの信仰の精神で教育したいという願いを起こさせた。決意までには紆余曲折あったようだが、1783年にシュライアマハーを含む三人の子供がヘルンフート派の教育施設に預けられた。姉シャルロッテ(Charlotte)はグナーデンフライへ行き、シュライアマハーと4歳下の弟カールの二人は、ゲルリッツの北西にあるニースキーの寄宿制高等学校に入学した。その数ヵ月後、17831117日にシュライアマハーの母は逝去した。

母方でも、信仰的な遺産がシュライアマハーに影響を及ぼしている。母方の先祖はオーストリアの出であるが、そのプロテスタント信仰のゆえに、ザルツブルクの地を去らねばならなかった。祖父ティモテウス・クリスティア・シュテューベンラウホはベルリンの宮廷およびドームの説教者として働き、1750年に死去している。母の兄サムエル・エルンスト・ティモテウス・シュテューベンラウホ(Samuel Ernst Timotheus Stubenrach)は、同じく神学を志した。彼はハレの改革派ギムナジウムの校長と大学の神学部の教授を務め、後に自分の甥(シュライアマハー)を特別な仕方で面倒を見ることになる。彼はまたシュライアマハーの洗礼の時のもう一人の代父であり、彼の三番目の名エルンストは、この伯父から受け継いだものである。

シュライアマハーは、彼の生涯の最初の10年間をブレスラウで過ごした。教育はもっぱら母親の手から受けた。父親は職業柄絶えず旅に出ており、自分の職務を、シュレージエンの駐屯地のその都度の場所で果たさねばならなかったからである。母親は、早くからシュライアマハーの知的能力を見抜いていたが、覚めた目で彼の弱点も見ていた[3]。ブレスラウでシュライアマハーはフリードリヒシューレに通ったが、そこで受けた教育は体系的なものではなかった。一家が、プレスそしてアンハルトに移住してからは、彼は家庭で過ごし、10歳から12歳の間は、学校に通わなかった。父親が在宅の時は、彼が息子に授業した。12歳になって初めて両親は彼を、アンハルトからプレスの寄宿学校(Pension)に送り、そこで二年間規則的な授業を受けさせた。とりわけそこでは古典語の訓練がなされた。

シュライアマハーのその後の発展にとって決定的に重要なのは、ニースキーの寄宿制高等学校に移ったことである。17836月の中旬だった。ヘルンフート派の信仰による教育は、彼の神学の後の形にまで影響を与えた。ヘルンフートの学生寮への入居は、親子どちらの側にとっても熟慮を要した。子供たちは、両親の計画に署名することによって同意しなければならなかった。そして、(グナーデンフライにおける)11週間の試行期間を終えたシュライアマハーは、学生寮に入った時14歳半であったが、このときの両親との別れは、一生の別れとなってしまった。先述したように母親はすでにその数ヵ月後に亡くなり、父親はその後11年生存するが、その間、父と子は二度と会うことはなかった。

すでに、グナーデンフライにおける試行期間、シュライアマハーの中には強烈な宗教体験が呼び起こされたようである。自伝において印象的に、かつ後の諸業績の理解を想起させるような仕方で、それについて次のように報告している。「私たちは、決定までの数週間、グナーデンフライに滞在しました。そしてそこでは宗教の問題における想像力の支配が当然のこととされましたが、それを私は、冷静さよりもおそらくは熱狂的に受け入れました。しかし、私は実際のところ、そのおかげで非常に貴重な経験を持ちましたし、たいていの人においては無意識のうちに理論や観察によって形成される思考様式を、私はもっと生き生きと、私自身の歴史の結果あるいは刻印と見なすことができるということも、この経験のおかげです」[4]。生の充溢した経験の刻印というこの時期にヘルンフートで獲得された思考様式は、生涯にわたって、彼の経験の方法論的原理として影響を持ち続けることになる。

シュライアマハーは1783-1785年ニースキーで過ごすが、この二年間を彼は総じて、宗教的に豊かな幸福で充実した時と感じたようである。彼はヘルンフートの敬虔主義にすっかり慣れ親しむことができた。この宗教性の内容的な中心点は、特別なキリスト信仰で、それはその根本特徴においてツィンツェンドルフ伯爵(Zinzendorf)に遡るものであった。組織上宗教教育は個々に分かれていたが、同時に共同的に行われた。個々人は小さなグループに編成され、各グループに一人の年長学生が責任を持った。その責任者は、励ましたり、教育したり、そしてもちろん監督や管理を行った。各人は自らの進歩の過程を、日記に記録するように促された。規則的な間隔をおいて、それは自由な宗教的交流の場で分かち合われ、それと共にしっかりと制度化された個別対話が、「生徒」と「指導者」との間で行われた。そのような教育方法は様々な問題をはらむものであったが、シュライアマハーは、ニースキーにおいては何よりもその積極的側面のみを受容し、批判的意識はまだ持たなかったようである。

1785年に、彼はニースキーから、マグデブルクの南東エルベのバルビーにある神学校へ、さらに2年の予定で移った。そこで次第に危機感が募り、最初の挫折へと至ることになる。ニースキーでは励ましや助けとして受け入れたことが、今や17歳になったシュライアマハーには圧迫や束縛と感じられた。その神学校は、さながらヘルンフート兄弟団の大学であった。ここは兄弟団の教師や聖職になるために学ぶ場所だった。それは根本的にはシュライアマハーの目標でもあった。しかし、バルビーでの経験は、彼を他の方向へ押しやった。すなわち、そこでは啓蒙主義の学問は宗教教育に反対するとして遮断され、神学や哲学の新しい著作は入手できなかった。1781年以来次々と出版されたカントの批判哲学は読むことを許されず、その著書は、密かに調達されて読まれ議論がなされたのだった。

精神的に閉塞された状況は、シュライアマハーやその友人たちに独断的な教えに対する宗教的な懐疑が生じてきたことによって一層激化し、複雑化した。ある者は自発的に神学校を去り、ある者は退学させられた。友人が去って、シュライアマハーはいよいよ孤独になった。「私の考えは、兄弟団の体系からは遥かに離れてしまったので、私は、良心的にももはやその一員であり続けることができません」と当時の心境を述べている[5]。この危機にあって彼は、父に、神学を基礎からに勉強させて欲しいと願い出る。彼の父は、最初は彼を宥めようとするが、しかし、若いシュライアマハーはそれに満足することはできず、1787121日付の手紙で父に、自分の懐疑を表明する。この手紙は、父に対する息子の感動的な忠実さの記録であり、同時に、しかし、伝統的な信仰に対する彼の違和感の明白で確固とした表明である。「私は自らを人の子と呼んだ方が、真の永遠の神であるとは信じられません。その方の死が代理の贖罪であったとは信じられません。なぜなら、その方はそのようなこと明確には決して言っていないし、私は、そのような贖罪が必要であったとは信じられないのです。神は人間を完全なものに造らず、ただ完全に向かって努力するようにお造りになったのですから、人間が完全でないからといって永遠に罰するなどということはあり得ないことです」[6]。ここにおいてヘルンフート派の原罪論と恩寵論が、啓蒙主義的な人間観に、すなわち、人間はその本性から完全さを求めるように創造されているという人間観にとって代わられていることが伺える。こうして息子は、父にハレでの神学研究を許可してくれるように願う。父の答えは、悲しく、理解できない、厳しいものであったが、しかし、最後には許可を与える。

こうしてシュライアマハーは、17874月、神学研究のためにハレに移る。ヘルンフートとのこの決裂は、しかし、彼自身あるいは彼の業績に対するその影響が、その後は持続しないということを意味しない。1802年にグナーデンフライに姉シャルロッテを訪ねた折の手紙で、彼は次のように告白している。「善きものが最初に目覚めた時から、今日に至るまで、この場所以上に、私の精神の全過程についての生き生きとした思い出を促進してくれる場所は他にはない。ここで私に初めて、より高次の世界に対する人間の関係についての意識が開花した。[….]ここで初めて、私にとってかくも本質的である神秘的な能力が展開した。それは、私をあらゆる懐疑主義の嵐の下で保持し、救ってくれた。それは当時芽吹き、今それは成長した。私は次のように言うことができる。私はいろいろあったが、再びヘルンフーターになったのだ。ただしより高次のヘルンフーターに」[7]

 

第2節          神学研究と最初の職業活動(1787-1796)

 

シュライアマハーは1787年の夏学期から1788/89年の冬学期まで4セメスターをハレで学び、当初は伯父のシュテューベンラウホのもとに住んだ。しかし、神学者たちは彼にたいした印象を与えなかった。これは当時まだハレで教えていたゼムラー(Johann Salomo Semler)についても同じであった。シュライアマハーの学問上の師となったのは、ヴォルフ(Christian Wolff)の哲学の流れを汲む教授ヨハン・アウグスト・エーバーハルト(Johann August Eberhard)であった。彼の影響下にシュライアマハーは哲学的・言語学的問題に向かう。エーバーハルトはシュライアマハーにギリシャ哲学を教え、彼をカント哲学との批判的対決へと導いた。この二つのテーマが、翌年の彼の研究の中心となる。シュライアマハーの遺稿集に見出せる最初の学問的作業は、友情に関するアリストテレスのニコマコス倫理学の第八巻、第九巻への注釈(1788)と、両書の翻訳である(1789)。これと平行してシュライアマハーは、論文「最高善について」(1789)及びカントの『実践理性批判』についての覚書において、カント批判を展開する。

 17895月、シュライアマハーはハレを去り、オーデル河畔のフランクフルトのドロッセンに移っていた伯父のもとに行き、そこで最初の神学試験の準備をした。一年後、彼はこれに合格した。彼の試験審査官であったフリードリヒ・ザムエル・ゴットフィリート・ザック(Friedrich Samuel Gottfried Sack)の仲介で、シュライアマハーは1790年、シュロビッテン(東プロイセン)の伯爵フリードリヒ・アレクサンダー・ドーナ家(Friedrich Alexander zu Dohna)の家庭教師の職を得る。彼はドーナ家の次男ヴィルヘルム(Wilhelm)の家庭教師として招かれ、彼のケーニヒスベルクでの勉学に付き添ったりしたが、その下の子供たちの教育のためにも家庭教師としてシュロビッテンにとどまった。ここで彼は、1790年の10月から1793年まで2年半にわたって、貴族の家庭の豊かさ、大きさ、調和のとれた家庭生活、社交文化を経験した[8]。ドーナ家の娘フリードリケ(Friedrike)に対する思いを、彼は姉のシャルロッテにだけ書き送っている。おそらく彼はこの時期自由についての研究を終え、比較的大きな論文「生の価値について」をまとめた。この論文は1792年の新年説教の構想を受け入れ、後の著書『独白録』(1800年)の萌芽となる。1791年のケーニヒスベルクへの旅行の際に、彼はカントを訪ねているが、この高名な哲学者からは特別な印象を受けなかったようである[9]。教育問題をめぐってドーナ伯爵と意見が衝突したシュライアマハーは17935月に家庭教師を辞し、再びドロッセンの伯父のもとに帰った。同年9月にはそこからベルリンへ移り、冬の半年間フリードリヒ・ゲーディケ(Friedrich Gedike)が指導する教員養成所に中(高等)学校教員試補として職を得た。毎週10時間から12時間のギムナジウムでの授業のほかに、試補は三ヶ月間の間に二つの論文をまとめなければならなかった。そのためにシュライアマハーらは、歴史の授業についての冊子をまとめると共に、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(Friedrich Heinrich Jacobi)がスピノザについて書いた文書に沈潜し、ヤコービ哲学についての注釈を完成した。そして自分のスピノザ研究をまとめた。

 17943月に、シュライアマハーはベルリンで二回目の神学試験に合格した。それに引き続いて按手礼を受け、その一ヵ月後にはヴァールテのランズベルクの改革派説教者ヨハン・ロレンツ・シューマン(Johann Lorenz Schumann)の助手としての職に就いた。ここでシュライアマハーは、公式の義務である仕事の傍ら、ザックの勧めもあり、ザックがすでに始めていたHugh Blairの説教の翻訳に携わった。シュライアマハーは第四巻の大部分を訳し(出版は1795年)、第五巻は独りで訳した(1802年出版)。ランズベルクで彼はまたJoseph Fawcettの説教の翻訳(全二巻、1798年ベルリンで出版)を始めた。シューマン牧師の死後、シュライアマハーは、比較的閑職であるベルリン・シャリテ慈善病院の説教職に転任する。

 

第3節          初期ロマン派との出会い(1796-1802)

 

1796年シュライアマハーは、ベルリンにあるシャリテ慈善病院の牧師としての仕事に就き、その建物内にある慎ましい住居に移った。彼の仕事は、入院中の改革派信者の牧会であった。この仕事をしながらも、彼はすでにシュロビッテンやランズベルクでもそうであったように、自分の研究と様々な企ての為の時間と静寂を見出した。彼は、Fawcettの英語説教の翻訳を継続し、また自然法の研究と取り組んだ。対外的社交はあまり積極的ではなかったが、彼の試験官であり、助言者でもあった宮廷牧師ザックと新たに親交を結び、またザックと同様、啓蒙主義的説教者ヨハン・ヨハヒム・シュパルディング(Johann Joachim Spalding)の家に客として出入りした[10]

1797年に意義深い新たな出会いがあった。シュロビッテン時代に彼が教えたドーナ家の長男アレクサンダーが、シュライアマハーをユダヤ人医師マルクス・ヘルツ博士(Marcus Herz)の家庭へ導いた。そして、そこで彼は聡明なヘンリエッテ・ヘルツ夫人(Henriette Herz)と出会う。彼はこの夫人と、「信頼と心情にあふれた友情」を、高貴な社交的精神的レベルで結ぶことになる[11]。彼らは一緒にゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』を読むが[12]、この人間の発展を描く小説の中に、彼らは自分たちの個性の陶冶が描かれているのを見ていた。

文学的に豊かな実りをもたらすことになるのはフリードリヒ・シュレーゲル(Friedrich Schlegel)との友情である。彼は、シュライアマハーより若かったが、すでに文芸作品を世に出しており、社交界で影響力のある人物だった。シュライアマハーも彼に魅了されたが[13]、シュレーゲルも彼から特別な印象を受けた。1797年シュレーゲルは、その頃シャリテの改築の為、オラニーエンブルク門の前にある住居に移っていたシュライアマハーのところに同居するためにやって来た。この共同生活について、シュライアマハーは、姉シャルロッテに宛てた手紙で、非常に印象的な報告をしている[14]。この刺激的で生産的、しかしまた危機をはらんだ共同生活は、二年弱、1799年の初頭まで続いた。

シュレーゲルは学問的著述へとシュライアマハーを励ましたが、とりわけ、彼の兄アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル(August Wilhelm Schlegel)と計画した雑誌アテネウム(Athenaeum)の協力者として求めた。実際、その雑誌のためにシュライアマハーは、筆名を使ってではあったが、1798年から寄稿した。同一の表題の下に出版された複数の著者による選集の中に彼のものとされる幾つかの断想がある。カントの『人間学』及びフィヒテの『人間の使命』についての書評を書いたのもこの時期である。さらにそのほかの著述計画としては、シュレーゲルが持ちかけたプラトンの対話編の共同翻訳がある。後にシュライアマハーはこの仕事に単独で取り組むことになる。

このシュレーゲルの励ましのおかげで、シュライアマハーを有名にする幾つかの著述が現れることになる。17971121日の彼の29歳の誕生日には、シュライアマハーは著述への約束をさせられる。同夜彼は姉に次のように書き送っている。「29歳にもなって、まだ何も成し遂げていないとは!そのように彼〔シュレーゲル〕は、言ってやまない。そこで私は彼に、今年中に何か自分のものを書きたいと言わざるを得なかった。気の重たくなる約束です。私は著述家になる気持ちは全くないからです」[15]。この約束は、そのとおりには果たされなかったが、遅ればせながら、1799年に匿名で後に『宗教論』として知られる一書が世に出た。正確な表題は『宗教について−宗教を軽蔑する教養ある人々に対する講演』である。これは初期シュライアマハーのロマン派的宗教及びキリスト教理解の記録であり、後には彼の最も有名な作品となった。シュライアマハーの生前それは第四版まで版を重ねる。

ひとたび弾みがつくと、シュライアマハーは半年後の18001月には『独白録−新年の贈物』を刊行する。それは『宗教論』と対応する倫理学的著述である。その後も生産的な著述活動は続く。1799年にフリードリヒ・シュレーゲルは小説『ルツィンデ』を出版するが、それはロマン派の愛や結婚理解を、自らの赤裸々な体験を元に、何はばかることなく描いていた。批判や拒絶、誹謗の嵐がこの書に対して吹き荒れた。この状況下で、シュライアマハーは友を二重の面から支援した。すなわち1800年に彼は、『シュレーゲルのルツィンデについての親書』を著したのと、さらにこの小著についての正式な書評をも書いたのである[16]。シュライアマハーは、友情や愛、結婚についてのシュレーゲルの理解を、無条件で受け入れていたわけではないが、しかし、次の点では同意していた。すなわち、結婚は、目的合理的な観点によってではなく、ただ愛によって、すなわち、当事者相互の教養や充実の経験によってのみ正当化されるという点である[17]。友人を弁護したことによって、シュライアマハーもまた告発と嫌疑の騒動に巻き込まれた。1801年に最初の説教集(それは伯父シュテューベンラウホに献呈されたが)を出版したのは、こうした状況に対処するためであったとされる[18]

 

第4節          シュトルプの牧師として(1802-1804)

 

 シュライアマハーがベルリンを去ることになる原因は、ロマン派のサークル内での緊張関係や個人的な確執に巻き込まれたためである。18世紀最後の年にベルリンとイェーナで最盛期を迎えた初期ロマン派運動、その時期は雑誌『アテネウム』の三年期分(1798-1800)とほぼ一致するが、その集まりは、外的な、そしてとりわけ内的な理由により次第に分裂していった。『アテネウム』の最後の巻の編集長をF.シュレーゲルはもはや務めることがでず、シュライアマハーに幕引きを頼んだ。シュレーゲルは1799年秋に、その年の初め夫シモン・ファイトに離縁されたドロテアと共に、兄アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルのいるイェーナに移った。フリードリヒ・シュレーゲルをしてベルリンを去らしめることとなったこの個人的理由に加えて、他の理由もあった。シュライアマハーに対するシュレーゲルの関係もまた冷めてきていた。既に詳しく検討したように、二人は時の経過と共に一層お互いの距離を感じるようになった。シュレーゲルの『ルツィンデ』を弁護するという友情にもかかわらず、シュレーゲルは、友との距離を感じずにはいられなかった。加えて、全く別の出来事が二人に衝撃を与えた。1801325日、弱冠29歳でのノヴァーリスの死である。これによって霊感を与える存在が、ロマン派の運動からもぎ取られてしまったと言われる。

 シュライアマハーもまたベルリンにいることが困難になっていた。ヘンリエッテ・ヘルツに対する彼の関係は純粋に精神的なものであり、「そこでは男女のことは全く問題にならなかった」[19]が、他方、彼は、1798年来エレオノーレ・グルーノウに対して深い愛情を抱いていた。彼女はあるベルリンの牧師の妻であったが、その結婚は不幸で子もいなかった。シュライアマハーは彼女に対して、熱烈な求愛の後に、離婚を奨めてさえいた。エレオノーレは躊躇した。そこでシュライアマハーは、彼女が自由に決断できるように居を移すことにしたのである。数年にわたる躊躇の後、彼女はシュライアマハーの期待に反した決定をした。1805年に夫と別居していたエレオノーレは、同年再び夫の元に帰ったのである。シュライアマハーはその時すでにハレ大学の教授として働いていたが、友人のエーレンフリート・フォン・ヴィリッヒに宛てた手紙で次のように述べている。「私の今の状況を誰が理解できるだろう。こんなに深刻で恐ろしい不幸はない。痛みが私を去ることはないだろう。私の人生の統一は引き裂かれてしまった」[20]

 宮廷牧師ザックは、シュライアマハーがベルリンでユダヤ人のサロンに出入りしていることに不快感を示し、彼の個人的な人間関係の問題をも見通し、加えて『宗教論』に対しても批判的であったが、なおシュライアマハーに対して好意を持っていた。そのザックの仲介により、シュライアマハーは1802年ポメルンの小さな町シュトルプに牧師職を得た。18025月この仕事に就くことにより、彼は彼の祖父シュテューベンラウホの足跡を辿ることになった。その祖父は80年前に同じ場所で同じように働いていたからである。彼はこのときに始まる一時期を「流刑」と捉えて過ごした。シュトルプには宮廷はなかったので社交的な刺激は皆無であったし、図書館もなかった。気候も彼には耐え難く、自分の「ひどい健康状態」を嘆いている[21]。シュライアマハーは、市内の改革派信徒たちの牧会のみではなく、シュトルプ近郊に散在している小さな改革派の教会の牧会もしなければならなかった。これはしばしば長時間の移動を伴うものであり、彼はそれを手紙の中で嘆いている。それにもかかわらず彼は、辛抱強く自分自身の著述活動にも取り組むのだった[22]

 ベルリンでシュレーゲルと始めたプラトンの翻訳に彼は新たな思いで向かう。シュレーゲルがこの翻訳から手をひいたので、シュライアマハーは一人でこの仕事に取り組んだ。重要な序論のついたこの翻訳の第一巻は、1804年に出版された。さらにシュトルプ時代に、厳密に学問的な意味での最初の著作が出版される。『従来の倫理学説批判綱要』1803年)である。それはシュライアマハー自身が刊行した唯一の哲学の単行本である[23]。そこにおいて彼は、古代ギリシャ哲学から今日に至るまでの倫理的な諸概念の批判的吟味を企てている。序論でも触れたように、この作品は面倒な文体で書かれていたために、わずかの読者を見出したに過ぎないが、それにもかかわらず1834年には第二版が出ている。

 シュトルプでシュライアマハーは、書評活動も継続し、1803年に出版されたシェリングの『学問論』について書いている[24]。その他にも彼は匿名で、全く違う種類の小著を出している。すなわち「何よりもプロイセン国家との関係におけるプロテスタント教会の問題に関する二つの私見的所見」1804年)である。最初の所見「二つのプロテスタント教会の分離について」の背景は、ルター派の強い地域における改革派の牧師としてのシュライアマハー自身の直接的経験である。シュライアマハーは、彼の公務においてそうした状況に直面していた。すなわち改革派キリスト教徒であるプロイセンの王フリードリヒ・ヴィルヘルムV世が、ルター派の出である王妃ルイーゼと、とりわけ聖餐式の際に身近に切迫したこととして経験していた状況である。他教派の妃という王のこの個人的な背景から出ている分離した二つの教会の合同の為の努力は、シュライアマハーによって、この所見において予見されている。彼は二つの福音主義教会の信条に於ける分離の問題を解説し、その克服のために教会改革的な提案を出している(「適切かつ実行可能な合同のあり方について」)。彼の後の『キリスト教信仰論』は、両教派合同のための最初の本格的な教義学として、近代の福音主義神学の歴史に刻まれる。「宗教の没落を阻止する手段について」という二番目の所見では、彼は、宗教の没落についての一般の嘆きに反論し、礼拝改革の可能性やよりよい聖職者養成について検討している。

 18041月、新設のプロテスタント神学部を持ち再組織されたヴュルツブルク大学の神学教授に招聘されるということによって、シュライアマハーに希望に満ちた見通しが開かれる。カトリックの神学部と一つのセクションにまとめられた学部新設の原因は、1803年の大規模な世俗化という特徴を伴う政治的変化であった。その結果、バイエルンにプロテスタントの領地が生まれ、そのために、新たな教育施設が作られねばならなかったのである。シェリング及び合理主義的なプロテスタント神学者ハインリヒ・エーバーハルト・ゴットリープ・パウルス(Heinrich Eberhard Gottlob Paulus)は、この新たな情勢に基づいて、すでに1803年にヴュルツブルクに招聘されていた。パウルスは神学部の招聘に影響力を持っており、シュライアマハーの招聘も彼に起因するものだった。それによってプロテスタント勢力の強化が期待されたのである。シュライアマハーは、「神学的倫理学の分野及び神学の実践部門全体」の正教授として責任を持つはずであった[25]。俸給も十分だったので、シュライアマハーはこの招聘を受けることにした。しかし、この転任は実現しなかった。プロイセンの王フリードリヒ・ヴィルヘルムV世はシュライアマハーを「特待の説教者」として、また改革派とルター派の教会合同に携わる神学者としてプロイセンに引き止めたからである。こうして彼がプロイセンの公務を離れることは阻止され、同時に、「彼の願いに応じた昇給」が与えられることが約束されたのであった[26]18045月、ハレ大学の員外教授及び大学説教者への招聘により、フリードリヒ・ヴィルヘルムV世は、シュライアマハーの生涯における転換に寄与したのであった。

 

第5節          ハレ大学神学教授として(1804-1807)

 

 こうしてシュライアマハーはハレ大学への招聘を受諾した。プロイセンの公務にとどまることは本望であったし、それ以上に学問的な働きや説教職が彼には重要だったからである。彼は、当座は学問上の制限を甘受する覚悟だった。たとえば、員外教授であった為、ルター派の学部には所属せず、そこに陪席するに過ぎなかった。しかし、王は、シュライアマハーに「欠員があり次第」正規の教授に招聘することを確約していた[27]

 改革派の神学者をルター派の学部に招聘することによって、プロイセン国家は実践的な合同政策を実施したのであった。それは国務大臣宛ての王の書状に起因している。そこには次のように記されている。「今や副次的なことで互いに相違しているに過ぎない二つのプロテスタント教派を一層接近させるために」シュライアマハーを招聘すべきであると[28]。こうしてハレ大学で、プロイセンにおける最初の合同神学部が成立した。180410月にシュライアマハーはハレに移り、同月講義を開始した。したがって準備の時間は極めて少なかった。しかしながら彼がハレ大学で講義できたのは、1804/05年の冬学期から1806年の夏学期までの四セメスターに過ぎなかった。18061014日のイェーナとアウエルシュタットにおけるナポレオンに対するプロイセンの敗北は、数日後には大学の閉鎖をもたらし、新たに開かれた活動に突然の終わりをもたらした。シュライアマハーは、この四セメスターで、彼の学問的な働きの基礎を据え、講義において、後の出版や、学問体系の構築に関連する諸学科を論じた。最初のセメスターで彼は三つの学科に同時に取り組み、神学体系の主要な基礎教説を講じた。すなわち、教義学、(神学)諸科解題、そして(予告されたキリスト教倫理学について講義の代わりに)哲学的倫理学である。続くセメスターでは、これらのいくつかを繰り返すと共に、解釈学とキリスト教倫理学の綱要を展開し、教会史研究の目的と方法について熟考し、新約聖書諸文書についての解釈講義を始めた。これらの講義の準備に莫大な時間が消費された為に、シュライアマハーは手紙を書く時間もなかった。そして、学問的な仕事が始まったばかりなのに、18041217日の手紙では、45歳になったら、平穏な説教職に移る為に、教授を辞そうというような考えも記されている。

 時間を要する研究者としての義務をいくつも抱えていたにもかかわらず、シュライアマハーは、精力的にプラトンの翻訳を推し進め、1805年の12月には三週間の内に『降誕祭−ある対話』という小著を書き上げる[29]

新約聖書講義と1806/07年の準備の実りとして、解釈学的研究『いわゆるテモテへ宛てたパウロの第一の手紙について J.C.ガース宛ての批判的書状』が書かれるが、それが出版されたのはようやく1807年であった。この学術的で入念な議論に基づく書においてシュライアマハーは、『テモテへの第一の手紙』がパウロの真筆でないことを証明し、同時に正典批判の観点と、彼の解釈学の諸原理を展開した。彼の原則は次の通りであった。すなわち、正典文書に対しても、他の諸文書に対するのと等しい解釈方法が適用されねばならない。新約聖書の文書の権利と意義は、その正典としての権威から直接導き出されるものではなく、個々の文書そのものの理解から得られるのでなければならない。重要なのは、「聖なる文字が持つ限定されたものの見方」ではなく、たとえそれが正典に入っていないとしても、その文書が「本質的な内容」によってキリスト教と一致しているかどうかということである[30]。ここでは啓蒙主義的な文書及び正典批判の洞察が受け入れられ、さらに展開されている。

以上と共に、シュライアマハーはハレ時代に、いくつかの書評を書いている。その一つが、フィヒテの『今の時代の根本特徴』(1807年)についての書評である[31]。この書評において、シュライアマハーは、フィヒテがヨハネとパウロのキリスト教を無造作に二者択一することを批判している。シュライアマハーは、フィヒテがヨハネ的キリスト教を優先することには同意するが、フィヒテの言う、パウロにおけるキリスト教のユダヤ的な「堕落」には与しない。またフィヒテにおける国家とキリスト教の密接な結びつきも批判する。既に『宗教論』において、シュライアマハーは、国家と教会の結びつきに反対を表明していた。その立場が今やフィヒテに反対する動向にまで至るのである。ハレ時代には『宗教論』の改訂もなされ、1806年にその第二版が著された。同じく1806年に、彼の説教集の第二版を出す。

180512月にシュライアマハーは、ブレーメンの教会(Unsere lieben Frauen Kirche)の説教職への招聘を受ける。彼はハレにとどまる意思表明をするが、その時の条件は、いまだに制度化されていないハレの大学礼拝問題の満足できる解決と正教授への任命、それによって神学部の正式な教授会メンバーになることであった。これらは彼に確約され、そして180627日の辞令により、正教授と教授会メンバーへの任命が表明されたのである[32]

18061020日に大学が閉鎖された後、シュライアマハーは、外的に抑圧された状況下に置かれた。彼はしばらくは友人のシュテフェンス(Henrich Steffens)の家庭に身を寄せ、収入はなかったが、さしあたりまだ市内に居住した。彼はフランス人による略奪に耐えねばならず、また飢えと寒さに苦しめられた。このようなひどい状況下でテモテ書の研究書とフィヒテについての書評が生まれたのである。

彼はもはやハレでは活動できなかったので、1807年の5月末にはベルリンに移り、その夏には個人で古代(ギリシャ)哲学史についての講義を行う。それはハレにおける1806/07年冬学期の為に計画されたもので、既に予告されていた。180777日のティルジットの和約により、ハレはナポレオンの兄弟ジェロームの支配下の新しい王領ヴェストファーレンに属することになった。そこで活動することは、シュライアマハーの愛国的な性質が望むところではなかったので、彼はベルリンにおける新たな活動に希望をおいた。1807713日彼は、ハレ大学の正教授として、彼不在のまま、神学博士の学位を授与される。それは困難に脅かされていたハレ大学の教授団がその活動能力を保持する為であり、また神学学位の授与における教授たちの協働を確保する為であった[33]。シュライアマハーが学位を得たのはおそらく1807年の10月が11月、ベルリンへの最終的な移住を準備する為に、彼が今一度ハレに戻った時であった。

 

第6節          ベルリン大学神学教授・三一教会牧師として(1807-1834)

 

180712月、シュライアマハーが再びベルリンに戻ると共に、彼の大いなる活動の時代が始まる[34]。さしあたり彼には職がなかった。彼は他のハレ大学の教授たちと共に、ベルリンに新たに創設される大学の教授職に予定されていたが、すべてはまだ計画段階であった。シュライアマハーは在野の学者として公開講義を行った。他の職のない教授たちと同様で、たとえばフィヒテも1807/08年の冬にあの有名な講義『ドイツ国民に告ぐ』を行っている。18087月からは、待機期間の俸給として年500ターラーを受け取るようになる[35]

 ハレにおいてと同様ベルリンにおいても、外的状況の悪化が、シュライアマハーの学問的な活動を、その本質において損なうことはなかった。ベルリン大学が開学されるまで公開講義をしながら、彼は非常に多様なプロジェクトに携わった。1807年夏に行われたギリシャ哲学史についての講義やさらなるプラトンへの取り組みとの関連で、シュライアマハーは、1807年晩秋から1808年夏にかけて、「エフェソのヘラクレイトスについて、彼の断片的な言葉や古代の証言に基づく叙述」[36]という大部な研究に携わっている。この研究においてシュライアマハーは、ヘラクレイトスに帰せられるとされる断章の、文献学的に厳密な吟味を行い、それらから不変の運動という原理に基づく思弁的な自然哲学を再構成している[37]

 さらに彼は1808年、二番目の説教集と共に、ハレで既に手をつけていた文書、それは、ベルリンの新しい大学創設の計画との関連で成ったものだが、『ドイツ的意味での大学についての随想、新設大学についての附論と共に』(いわゆる『大学論』)を公にする。そこにおいてシュライアマハーは、大学改革に対する基礎的な諸原理を展開しているが、これをヴィルヘルム・フォン・フンボルトが取り入れて、1810年の建白書「ベルリンにおける高度な学問施設の内外組織について」で代弁している。単にこのような改革のための計画書によってのみならず、シュライアマハーは個人的な接触によっても、ベルリン大学の新設に影響を与えた。初期ベルリン時代からの友人であるアレクサンダー・ドーナ伯爵は、1808年から1810年の間内務省を主管したが、彼は大学、とりわけ神学部の組織的形態についてシュライアマハーに意見聴取している。18097月には、シュライアマハーは、当時計画中で1810/11年開設予定のベルリン大学教授に指名され、初代神学部長に就任した。

 同じく1809年に、改革派とルター派の合同教会である三位一体教会の改革派説教者への招聘が実現した。同年、彼はヘンリエッテ・フォン・ヴィリッヒ(Henriette von Willich、旧姓von Mühlenfels)と結婚した。彼女は以前の彼の友人また牧師で早世したエーレンフリート・フォン・ヴィリッヒ(Ehrenfried von Willich)の妻であった。 20歳だったヘンリエッテは、初婚によって生まれた二人の子と共にシュライアマハーとの結婚生活に入ったが、さらに四人の子を産んだ。エリザベツ(Elisabeth)、ゲルトルード(Gertrud)、ヒルデガルト(Hildegard)、そして一人息子ナタナエル(Nathanael)である。彼は9歳で夭折する。シュライアマハーはこの息子のために、感動的な追悼説教を残している[38]

 1809年の三位一体教会の説教者、及びベルリン大学教授への就任と共に、1810年には、王室学術アカデミーの哲学部門の一員に選ばれることにより、第三の職務が彼に与えられた。彼はこの新たな課題に、彼の活動の相当な部分を割いた。彼がアカデミーの本会議や、哲学部門及び歴史文献学部門において、また特別な機会になした約60の講演のうち、生前に出版されたのはほんの一部分(15講演)に過ぎず、大部分(32講演)は、死後初めて遺稿集から出版された。いくつかはいまだに出版されていないし、失われてしまったものもある。

 シュライアマハーに対する高い評価は、彼が1814年王室学術アカデミー哲学部門の書記に選出されたことでもわかる。1826年、彼はこの任を辞し、歴史・文献学の部門に移る。同年彼はそこでも書記に選任される。アカデミーの一員として、彼は大学の哲学部でも講義をする資格を持っていた。これを彼は最大限活用し、当初はフィヒテ、後にはヘーゲルと競いつつ、幅広い聴講者を自らの周りに集めた。1830年夏学期の「魂についての教説」においては、229人もの聴講者を得ている。弁証法、哲学的倫理学、解釈学、国家論、古代及び近代のキリスト教哲学の歴史、教育学、心理学、そして美学についての講義において、これら諸学科の基本線を展開し、それによって、自らの諸学問体系を起草した。

 したがって、1807年から1810年という期間は、転居と、三位一体教会、大学、アカデミーでの新たな活動、そして結婚によって、シュライアマハーの人生の重大な変化を意味する。しかし他方、説教者、また大学教授として、従来の路線で活動してもいた。このように1807年から1834年までの後期ベルリン時代に、彼は自分の三つの職務において、幅広い活動を展開したのである。

 シュライアマハーは、1811年、ベルリン大学における彼の神学的仕事を、『神学通論』という小著の出版によって公にした[39]1821/22年には、プロテスタント神学の次の百年を規定することになる、かの歴史的な著作、すなわち『福音主義教会の諸原則に従って、連関を尽くして叙述されたキリスト教信仰』[40]が世に出る。いわゆる『キリスト教信仰論』と呼ばれているこの書は、信条の観点から叙述された最初の第一級の教義学である。1817年にプロイセンに導入された二つのプロテスタント教派教会の合同は、その書の中に体系的神学的に考察された合同の根拠と正当性を見出した。この書は、ただちに学会の注目を集め、様々に議論された。書評や批判に答えてシュライアマハーは1829年、友人の神学者フリードリヒ・リュッケ(Friedrich Lücke)に宛てた二通の公開書簡を著す[41]1830/31年にはこの書の第二版が出るが、特に序論に大きな改訂が加えられた。『キリスト教信仰論』は、この第二版がその後、世代を越えて神学者たちによって研究され、今日に至るまで、神学的原理問題をめぐる議論に影響を与えている。

 学問や教会の多様な活動に加えて、シュライアマハーはベルリンにおいて、彼の国家を急迫していた政治問題にも関わる。1806年のプロイセンの降伏、(それを彼はフランス軍によるハレの占領によって直接経験するのだが、)それは彼の愛国的な気質を目覚めさせた。彼はプロイセン改革の先駆者たち(彼らは同時にまたナポレオン支配に対する主要な抵抗者として活動していた)と関係を結び、また、時には危険を冒しながらも、この革命計画に参与した。ディルタイは、『シュライアマハーの政治感覚と活動』(1862)という著書において、彼の活動のこの方面を印象的に記述しているが、その際ディルタイは特に、シュライアマハーの政治的な説教に注意を喚起している。すでに彼の生前に広まっていた誤解、すなわち、「シュライアマハーのキリスト教的世界観においては、ただ受動的な宗教感情だけが」見出されるという誤解に反対して、ディルタイは、この男の「鋼のように強靭な性格」を強調する。それはただ彼の政治的活動においてのみ示されるものであるという[42]1808年にシュライアマハーは、プロイセンにとどまり続けるフランス軍に対する民衆蜂起の準備に手を貸し、1808年の夏と秋には、プロイセンの宮廷と政府が一時避難していたケーニヒスベルクに、密命を帯びて何回かの旅行を企てている。そこにおいて彼は、反乱や蜂起にかかわる人々、シュタイン(Karl vom Stein)やシャルンホルスト(Scharnhorst)、グナイゼナウ(Gneisenau)らと、民衆蜂起の計画を練ったのだった[43]

 この政治的軍事的陰謀は、教会的および教育政治的な領域における改革の努力によって、補完され、支えられていた。たとえば、おそらくはシュタインの指示によるプロイセン教会憲法構想「プロイセン国家内プロテスタント教会の新憲法についての提案」[44]である。あるいは1808/09年の冬、大学開設前に行われた講義「国家論、倫理学による原理に基づく国家の本質的な要素と業務」は、こうしたコンテキストで理解されるべきである。さらにシュライアマハーの改革活動は教育政策に向けられる。1810年フンボルトは、内務省の下部部門である文化と授業部の指導者として、シュライアマハーを公開授業の学問的代表団の長に呼ぶ。その年の終わり頃に彼は、参事官、及びその部門の正規のメンバーになり、そこで18154月まで共に働く。この期間シュライアマハーは、その代表団と部門に対して、プロイセンの学校制度の再組織について多くの所見を著す。さらにシュライアマハーは、プロイセンの社会的政治的革新という意味で、説教壇上から働きかけようと試みる。彼がなしたいくつもの説教の表題がこれを記録している[45]

 プロイセンの社会的政治的軍事的革新の為のシュライアマハーの大胆な取り組みは、数年後には、保守的な国王やその側近たちの不信感を引き起こした。既に1813年に、シュライアマハーの出版人で友人でもあるゲオルク・ライマー(Georg Reimer)が出している「プロイセン通信」の共同者及び非常勤編集者として、シュライアマハーは検閲に引っかかっている。とりわけ、彼が、プロイセンの政策に毅然さが欠如していると非難し、ナポレオンとの講和の計画を誘惑と見なすと書いた記事は、為政者の怒りを引き起こした。このようなことが繰り返されれば教授職の解雇を言い渡すと脅される。ましてや1815年以降の政治的復古の盛り上がりにおいては、状況は彼にとっていよいよ厳しいものとなっていく。18171018日のドイツ学生によるヴァルトブルク祭[46]は、疑わしい人物に対する警察の監視を強化することになったが、シュライアマハーもその対象に入っていた。1817年の夏学期、彼は政治について講義を行ったが、それを彼は1817/18年の冬学期にも繰り返した。これはヴァルトブルク祭によって引き起こされた政治的結果に対する彼なりの反応である。

 1819年、神学部の学生たち及びブルシェンシャフト急進派のカール・ルードヴィヒ・ザント(Karl Ludwig Sand)による作家アウグスト・フォン・コッツェブー(August von Kotzebue)の殺害は、政治状況を再び厳しいものに導いたが、それは、メッテルニヒ(Clemens Wenzel Fürst von Metternich)に主導されたカールスバードの決議(1819)、及びデマゴーグ迫害において表面化した。警察による監視措置は、特に、大学に対して向けられた。ベルリン大学開学以来のシュライアマハーの同僚であるデ・ヴェッテ(Martin Leberecht de Wette)は、一年後に処刑される神学生の母親に、見舞いの手紙を書いたところ、それが警察の手に渡り、その結果、解雇されることになる。シュライアマハーの義理の弟エルンスト・モリッツ・アルント(Ernst Moritz Arndtにも1820年、同様の運命がボンで彼を襲った。シュライアマハーの場合は、1820年、ケーニヒスベルクへの異動が促され、それを拒む場合には、同じく解雇が検討されたのだった。監視の目は彼の説教活動にも向けられた。1823年、彼はたびたび警察の事情聴取にじっと耐えねばならなかった。彼は、政治的に信頼できず、疑わしい人物であると見なされていた。ようやく1831年に、赤鷲勲章第三等(最低の等級ではあるが)の授与によって、王との和解に至った。フリードリヒ・ヴィルヘルムV世に宛てた礼状においてシュライアマハーは、意味深長に次のように書いている。「この表彰は自分を深く感動させます。寄る年波に輝く優しい星の光のように、それは、過去における幾多の悲しみや暗闇を柔らかな輝きで覆ってくれます」[47]

シュライアマハーがここで仄めかしている「悲しみや暗闇」は、単に政治的な見解や活動にのみ当てはまるのではなく、教会政治上の問題にも該当する。シュライアマハーは早くからプロイセンにおける教会改革運動に関わっていた。その際に本質的に重要であったのは、三つの大きな相互に関連している問題であった。すなわち、二つのプロテスタント教派の合同、福音主義教会のための新しい教憲教規、そして礼拝改革(とりわけ典礼の刷新)である。後二者においては、衝突、すなわち、国王及びその側近を相手にしてのシュライアマハーの激しく勇敢な対決という事態になる。

 シュライアマハーは、国王によって強く推し進められたルター派と改革派の教会合同と、1817年の宗教改革記念祭に合同の聖餐式を行うという王の願いを、好意的に受け入れた。181710月初旬に、ベルリンの両教派の聖職たちが集まり、最初のベルリン合同教会会議が成立し、シュライアマハーがその議長に選ばれた。この会議で、両教派合同の聖餐式が決議されたが、それは王の意向に全く添うものであった。シュライアマハーは「1030日にベルリン合同教会会議によって執り行われる聖餐式についての公式声明」を著し、そこで彼はこの決議について解説している[48]。合同聖餐式というこの思い切った一歩によって、プロテスタントの間でほぼ三世紀続いてきた争いが仲裁され、新たな時代が開かれたのである。シュライアマハーは、特にルター派の側からの批判者に対して、この合同を弁護した[49]。さらに、『キリスト教信仰論』を著すことによって、この合同の理論的神学的基礎付けに貢献した。1831年には、彼は、皇太子、後のフリードリヒ・ヴィルヘルムW世の願いにより、合同に反対していたシュレージエン地方の教会のルター派教区の分離問題の解決に取り組んだ。勲章の授与は、この彼の功績に対してであった。

 このように、シュライアマハーによる教会改革運動のうちの第一のポイントである教会合同は、比較的目に見える成果をもたらすことができたが、残りの二つ、とりわけ教憲教規の改正は、容易ならない衝突を引き起こした。本論の主題からそれるので、詳述はしないが、シュライアマハーは、国家における教会の独立性を強調し、教会を「上から」統治する監督制の教憲よりも、民主的に整えられた教会会議、あるいは長老派的教憲に、明確な優先権を与えている[50]。このような自由主義的な考えは、政治的領域への越権という危険も伴っており、始まりつつあった王政復古の時代に日の目を見ることはなかった。シュライアマハーは、教憲改革に対する彼の提言によって世間に認められることは、全くなかった。国家による強力な干渉の可能性を持つ教会会議原理が、力を持ち続けたのである。

 

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[1] このエラーによるセクトについて三並良は次のように書いている。(以下の引用文中のシュライアマハーとは、シュライアマハーの祖父のこと)

17世紀の末及び18世紀の初にあたり、ドイツの宗教界に妄信の末派しきりに起こり盛んにキリストの再来、千年王国の建設近しと説いたことは、教会史の記すところである。このような信仰は人民の下層に入り妄信は益々はなはだしく、不道徳なる風儀大いに起こるが、信仰という美服の下に覆われ、良民は誠に酔ったように白昼夢を見るかのような状態だった。そのような諸々の末派の中に、エラー派なるものがあった。ベルク州の一小村ロンスドルフにおいて、一小農民の子エラーなる者が設立した。エラーは幼い頃から工場に入り職工となったが、大富豪の一寡婦の歓心を得、終にはその寡婦と結婚する。その寡婦は、エラーよりも20歳も年長であった。そのためにその関係は、その仲間の間では、信仰を同じくするがゆえであるとして「フィラデルフィア」的信仰と言われた。その同志の数は少なからず、彼らは集会を開くようになった。当時、この地にシュライアマハーと称する牧師がいたが、彼もまたエラーの同志であった。また容姿端麗なアンナというパン屋の娘がいた。エラーの集会において黙示的な演説をして皆から畏敬の念を持たれていたシュライアマハーは、アンナを預言者と信じた。またエラーはこのアンナと不倫の関係を結び、夫人は激怒し、アンナを憎悪するに至った。しかし、同信の者たちはエラーとアンナを崇拝していたので、かえって夫人を憎み、彼女を迫害して遂に死に至らしめた。エラーは夫人が迫害されて死に至ることを待っていたが、夫人の死を機にアンナを妻にした。この後アンナの威信は益々加わり、シオンの母と称せられ、救世主を生むべき者と信じられるに至った。1730年は「フィラデルフィア」教会の奮興する年として大いに待望された。しかし、この年も空しく過ぎ、アンナの産む子は女児ばかりであった。1733年に男児を産んだが、すぐに死んでしまった。1741年には新たに教会堂が建設されシュライアマハーはその牧師に任命された。ロンスドルフは、もともと一小村に過ぎなかったが、エラー派のために人口増加し、ついには市となった。エラーはその市長となり、アンナは1744年に没した。この宗派の迷妄いよいよ甚だしく、エラーによる人心の惑溺はその極みに至り、シオンの母の死後においては、ついに自ら主キリストなりと称するに及んだ。ここにおいて迷妄甚だしかった牧師シュライアマハーも遂に自ら悟り、エラーによってひどく幻惑されていたことを知り、神に悔悟し、エラー派と関係を断った。彼はエラー派からひどい迫害を受けたが、ようやくそれを逃れた。」『真理』第53号 108109頁より。原文の文語調を、文意を損ねない範囲で現代語に直した。

[2] [KGA V/1:198f.]

[3] [Br. I:16]

[4] [Ebd.:7]

[5] [Ebd.:11]

[6] [KGA V/1:50]

[7] [KGA V/5:392f.]

[8] [KGA V/1:221]

[9] [Ebd.:218][Br. III:38f.]

[10] [Fischer2001:25f.] 以下の伝記的記述の枠組みは主にこの書に拠っている。

[11] [KGA V/5:52]

[12] [KGA V/2:331]

[13] vgl.[ Ebd.:177f.]

[14] [KGA V/2:217-220]

[15] [Ebd.:213]

[16] [KGA I/3:139-216, 217-223]

[17] [Ebd.:203]

[18] [KGA V/4:370f.]

[19] [KGA V/5: 52] vgl. [KGA V/2:322, 419][KGA V/3:46]

[20] [Br. II:39]

[21] [Br. I:369]

[22] この時期の執筆作業いかにひどい条件の下でなされた苛酷な労働であったか、当時の書簡から読み取ることができる。「私の研究にとって、この出立は私にひどい損害を与えるでしょう。私はすでに今秋一冊の書物の出版を予定していますが、そのために私は多数の古い書物を必要とします。それらはここでは図書館で容易に入手できますが、シュトルプでは無理でしょう。たとえそれらを購入する資金が私にあったとしても、それらの書物はどこにでもあるというわけではないので、だめでしょう。そういうわけで、約束を破棄しなければならないとしたら、非常に不愉快なことです」[Br. I:293]

[23] ヘンリエッテ・ヘルツに宛てて610[Br. I:366]82[Br. I:374]に、『綱要』について確信をもって次のように記されている。「全体を再読することにより、以前思っていた以上にそれが気に入っています。いつもは私の問題は後になってから直接私の気に入るのが常なのですが、それ以上に良いのです」。820日には、エレオノーレに宛てた書簡で、この書の完成が告げられる。すなわち、「明日道徳批判の最後の23ページを書く考えです。それでこの責務からも解放されます。この書は私の墓碑です。」[Br. I:379]「墓碑」という言葉が表わしているように、『宗教論』が引き起こした「汎神論者」「スピノザ主義者」という誤解や、シュレーゲルの『ルチンデ』を弁護したことから「背徳者」という汚名を着せられることにより、ベルリンをいわば「都落ち」した彼が、従来の倫理学説を根本から批判的に叙述することを通して、自らの倫理観、道徳観を間接的にではあっても世に問うという覚悟がこの書には込められており、それはこの書の前書きにも表われている。「本書において、私自身の〔道徳的〕諸原則は、はっきりと主題化されてはいない」が、すでに『宗教論』初版やそれ以上に『独白録』において展開された「倫理学の根本的改善全てがそこから生じなければならないポイントが、明確に遂行されるように叙述されている。[...]それゆえ、今後もし私自身の方法で満足ゆくように倫理学を叙述する時間を、運命が私に拒むとしても、私は心安らかである」[KS:5]

[24] [Br. IV:579-593]

[25] [Br. III:387]

[26] [LS I/2:92] 全体的な経過については[Br. III:387-393]及び[LS I/2:89-96, 212-220]

[27] これは180627日に実現した。シュライアマハー自身が書いている「神学と哲学の員外教授」という肩書き([Br. III:399]および『いわゆるテモテ宛てのパウロの第一書簡について』の表紙[KGA I/5:156])と一致する指示は、最近になってようやくハレへの彼の招聘についての政府内文書と記録の中に発見された。

[28] [Br. III:390 Anm.]

[29] [KGA I/5:39-100]

[30] [KGA I/5:153-242], 引用は[Ebd.:159,4u.14]

[31] [Ebd.:119-152]

[32] vgl. [Ebd.:XVIII-XXI]

[33] [von Meding 1990:315-317; 321f.]

[34] 以下この時期の伝記的記述は主に[Fischer2001:37f.]による。

[35] 1821年当時、プロイセンの行政区長官の年俸が、1,200ターラーであった。[ヘーゲル事典:697]

[36] [KGA I/6:101-241]

[37] [KGA I/6:136f., 168-170]

[38] [Grabe]

[39] [KGA I/6:243-315]

[40] [KGAI/7.1-3]

[41] [KGA I/10:307-394]

[42] [Dilthey, 1960:14;2]

[43] [Birkner1996, 143f.]

[44] [KGA I/9:1-18]

[45]例えばフランス軍によってハレが占領された直後の18061123日、彼は「公然とした災難の効用について」という説教している。1807年新年の説教のテーマは、「われわれは何を恐れ、何を恐れるべきでないか」である。1808124日にかれは「昔から自国に伝わる大いなることに対する正しい尊敬について」という説教をし、過去を振り返ることが未来への展望に役立つと語りかける。[Fischer2001:44]

[46]保守反動政策の中心人物であり、19世紀前半のヨーロッパ外交をリードしたメッテルニヒは、神聖同盟や四国同盟(五国同盟)を自由主義運動の抑圧に利用した。しかし、自由を求める運動は、1810年代から20年代にかけてヨーロッパ各地で次々とおこった。 ドイツでは、18171018日、ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟、1815年に成立したドイツの大学生の団体)が、ルター宗教改革300年祭とライプチヒ戦勝記念式典をワルトブルクの森で行った。自由とドイツの統一を求めてドイツ各地から700800人の学生が集まり気勢を上げた。メッテルニヒが学生の自由主義運動の弾圧に乗り出した。彼は、1819年にカールスバードでドイツ連邦議会を開き、ブルシェンシャフトの解散・言論出版の自由の制限・進歩的な教授の追放などを決議した(カールスバード決議、1819.9)。これによってブルシェンシャフトは壊滅した。

[47] [Br.U:444]

[48] [KGA I/9:173-188]

[49] An Herrn Oberhofprediger D. Ammon ueber seine Pruefung der Harmsischen Saetze, 1818. [KGA I/10:17-116]

[50] [KGA I/9:120f.] 様々な教憲教規の形式については[KGA I/9: IX-CXIV]